君のための明日に
雨谷ちひろ
出会編
第一章 不穏
第1話
先ほど入ってきた扉の小窓に、薄明が広がっていた。今日の空は、やけに綺麗だ。外はすでに日が沈んでおり、体をすり抜けていく風は冷え切っている。ユニフォームのグレーのドライポロシャツ、黒のスラックスは、冬場にはあまりにも薄着過ぎるため、上下黒の防寒着で補っている。しかし、体の末端は、凍っているかのように感覚が
――次の配達までに、少しでも体調を整えておこう。
帽子を取り、ベンチソファに腰を下ろした瞬間、厨房の方から猫撫で声が近づいてきた。
「あっ、おかえりなさ~い」
「ただいま」
両手に紙袋を抱えてデリバリーブースに入ってきたのは、想乃とは五歳離れた現役
虹恋のSNSのフォロワーはトータルで五万人を超えているらしい。以前、スタッフルームで休憩中に、虹恋と同い年の子たちからちらりと聞いた話である。それが多いのか少ないのか、SNSに疎い想乃には知る由もないのだが、虫が好かないのは紛うことなき事実だった。その同い年の子たちからも、尊敬というよりかは嫉妬のような感情が滲み出ていた。
しかし、想乃が虹恋に苦手意識を持たざるを得ない原因は、その猫撫で声にあった。全人類に媚び売るぞ! という気迫に、どうも引いてしまう。普通であれば、休憩中のスタッフルームでの話のネタとなり、本人の知らぬ間に爆笑を
「外寒いですかぁ~?」
オーダー表と袋の中身を照らし合わせながら、沈黙を埋めるためだけの言葉が、虹恋の小さな口から放たれた。話すときに少し口をすぼめる癖も、想乃はあまり好きではない。
「うん、さっぶい。他に出せるライダーいないんだよね?」
望み薄なことだとはわかっていても、つい聞いてしまった。
「はぁい、いないんですよぉ」
「だよねぇ……はぁ。帰りたい」
いろんな意味で忌避感に苛まれ、ぽつりと呟いた「帰りたい」という言葉に、想乃はまた違うため息が漏れそうになった。
最近、生まれつきのめんどくさがりが悪化している気がするのだ。事あるごとに「めんどくさい」「疲れた」「帰りたい」の三段活用を
自分が高校生だったときも、こんな怠け者のような先輩はいただろうか?
想乃は五〜七年前の記憶を遡り、自分のような極端なめんどくさがりを何人か見つけ出しはしたものの、誰も彼も例外なく大学生の男の先輩だったことに静かに落胆した。女の先輩で、自分ほどずぼらな人は思い当たらない。
「頑張ってくださいよぉ、ぐうたらさんっ」
ぐうたらさん――おそらく、想乃よりも下の代の子たちによって命名された陰の呼称なのだろう。絶対に本人を目の前にして呼ぶ名前ではないが、あまりにもナチュラルに口にしたものだったため、特に突っ込むことはなくスルーした。二十三にもなると、ある程度の不意打ちは軽く流せる。友達と喧嘩をして、この世のすべてに絶望した気になり、一晩眠れなかったあのころの自分に言ってやりたい。意外とどうにかなるぞ――と。
「てゆーかぁ、」
すでにオーダーは出来上がっているのにもかかわらず、虹恋はまだ話を続けるようだ。
「そんなに仕事したくないなら、さっさと子供産んじゃいましょおよー」
「いやいや、相手いないし。そもそも、子供とかあんま好きじゃないから」
「えーっ、もったいない! ウチは、高校卒業したらすぐ子作りしますよ! 二十九歳までに三人産んで、しっかり上限の三百万手に入れるんですぅ」
いまから三十年前の二〇七〇年、日本では『子育て応援プログラム』が施行された。出産育児一時金の五十万円に加え、出産時に三十歳未満だった者については、さらに五十万円の給付金が支払われる仕組みだ。ただし、四人目以降は給付金適用外。つまり、トータルの給付金は三百万円ということになる。
人口増加を狙った政府によるプログラムだが、これには落とし穴がある。子ども一人にかかる費用は安くても一千万~二千万円。三人産んでしまえば、単純計算で三千万~六千万円もの養育・教育費が必要になる。三百万円という給付金は、その額に比べれば微々たるものだ。
「計画的だねぇ」
そんなことにも気づかないのか、と思いながらも、少し皮肉を込めてそう答えた。だが、虹恋はそんな想乃からの悪意に気づく様子もなく、満足そうに頷いた。
「まっ、ぐうたらさんもモタモタしてないで、早く相手見つけてくださいねっ」
ウィンクからキランッ、という効果音が聞こえてきたような気がした。
――イラッ。
血管が浮き上がってきそうなのを堪え、虹恋が開いた紙袋の中を覗き込んだ。
「アサイーバーガーと、アボカドサラダ、コーン茶ですっ。オーダー番号は980で合ってますぅ?」
「はーい、合ってるー」
手に持っていた端末から【商品お届け開始】をタップして、虹恋から受け取った紙袋たちをデリバリーバッグの中に手際よく詰め込んでいく。
ハワイ発の『
しかし、アサイーバーガーなんてものは果たして美味しいのだろうか。想乃は、高校一年生のときからエジバで働いているが、いまだに商品を食べたことはない。エジバよりも、百年以上も愛され続けている大手ハンバーガーチェーン店のほうがザ・ジャンクフードで、食べ応えがある。
「オーダー内容はめっちゃ健康志向なのに、この量を自分の足では買いに来ないのか……意味ないじゃん」
「もぉ〜、ゴタゴタ言わずに早く行ってきてくださいよぉ。お客様待ってますよぉ?」
「はいはい」
オーダーの入ったバッグを背負うと、虹恋の「いってらっしゃぁい」という甘ったるい声を耳障りに感じながらも、扉からデリバリーブースを出た。
ひんやりとした、という表現では少々ぬるさを感じるほどの空気が、頬を撫でる。
ついこの間、髪をショートボブまで切ったのだが、季節を間違えたかもしれない。もっとも、勤務中は肩につくほどの長さの髪は結わなければいけないので、あまり変わらないのだが。
想乃はリアボックスにバッグを入れると、肩をすくめながら原付バイクに跨った。時刻はすでに十七時を過ぎており、空はもうすっかり暗くなっていた。
――今日も今日とて、残業なり。
エジバのデリバリー女性ライダーとして活躍するようになったのは、高校を卒業してからだった。それから四年間、就職活動をすることもなく、この店で燻り続けている。いわゆる、フリーターというやつだ。変わり映えのない日々に身を委ね、日常が過ぎていくのをただじっと待っていたのだが、最近になって「変えなければいけない」という漠然とした焦燥感に襲われるようになった。負の三段活用は、そんな焦燥感から逃避するための手段だったのかもしれない。
だとしたら――。
「ずーっと、逃げてるだけじゃん」
ぽろりと溢れた言葉は、冬の空へと消えていった。
突然降りかかった自己嫌悪を、取っ払うように首を振る。想乃はハンドル部分に掛けてあったヘルメットを被り、ハンドルを握りしめると、エンジンを掛けて店を出発した。
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