唇に紅をひく

 赤い口紅は似合わない。もっとほかの色がいいよ。もう顔も思い出せないほど昔に善意でくれたであろう誰かの言葉が深く深く刺さって抜けずにいたころ、カフェの店内でひときわ目を引く紅があった。真っ白い肌によく映えたその色は純朴そうなきみの唇に乗せられていた。何度か客として足を運び、その回数が両手で収まりきらなくなってもきみの唇にはいつも同じ紅が乗せられている。

 気になりますか? 机にコーヒーが置かれたとき、話しかけたのはわたしではなくきみだった。似合わないですよね、口紅。続いた言葉に肯定も否定もできずに、まごついた声を出して、それはきっときみを傷つけ困らせただろう。だと言うのにきみは笑う。でもいいんです、好きでこの色を塗ってるから。きみは、たった一人の評価で揺らがないのだ。

 翌日、勇気を出して唇に紅をひき、カフェのドアを開ける。カランカランと陽気な音を立てて、それから優しくいらっしゃいませというきみの声が聞こえた。振り向いたきみがわたしを見て一瞬驚いた表情を見せた後、声と同じくらい優しく微笑んで席に案内をしてくれる。いつもと同じコーヒーを注文すると、いつもは復唱してすぐに去るのにその場にいる。

 口紅、似合ってますね。きみの言葉が、長らくの間、わたしに深く深く刺さっていた言葉を溶かした。なんだ。こんなに簡単なことだったんだ。すぐには傷は消えなくとも、紅をひくたびにいつかは消え去り、誇りに変わるのだろうという予感がした。

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