下手な恋よりずっといい

 玄関には見覚えのないハイヒール。一つ息を吐き出して廊下を突き進み、ドアを開けると裸の男女が抱き合っていた。赤くなる女に青くなる男。服を手繰り寄せながら男が口を開くより早く「別れよ。私物は捨てといて。あ、土足で上がってきたけど清掃代は請求しないでよね」と言って手にしていた合鍵を投げつけた。浮気性の男と付き合った数は両手ではもう数え切れない。最初こそショックで泣いていたけど、今では表情筋一つさえ動かなくなってしまった。

 そんな本来強烈であるはずのエピソードを淡々と語ると、きみは腹を抱えて大笑いする。つい三十分ほど前に立ち飲み屋で隣合ったきみに「せっかくだから一緒に飲もうよ」なんて安いナンパをされ、悲しみはなくとも虫の居所が悪いため八つ当たりのように話したのにきみは楽しそうだ。二杯目のビールを飲み干したとき、きみに落ち着いて話せる場所に移ろうと声をかけられ、結局それが狙いだったのかと辟易としながら、自棄にも似た感情で頷いた先には別の居酒屋があった。わけがわからないというのが表情に出ていたのか、きみは「座ってゆっくり話そうよ」と笑う。その後もきみはキスもセックスもないどころか指一本さえ触れず、体を求められることのない異性とのお酒の場を久しぶりに楽しんだ。連絡先は交換したけど必要以上に連絡を取り合うことはなく、ときどきタイミングが合えば一緒に飲みに行き、長い日は朝まで一緒にいても、やはり指一本さえ触れ合うことはない。

 恋にはならない。愛にもならない。だけど、そんな関係性にたゆたっていたい。

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