父についての僅かな、あまりに僅かな感傷

 黒縁の額に囲まれた、証明写真じみた真摯な無表情の貼り付いた、凡庸な顔。

 俺の知っている父の顔というのは遺影のそれであり、生身の父の顔については殆ど覚えがない。

 そんな具合であるから、当然父についての思い出はさほどない。ぼんやり家に出入りしていたと思しき人をめっきり見なくなったと思ったらどうやら死んでいた、その程度の認識しかない。仮にも実の父であるなら葬儀だのなんだのそれなりのイベントがあっただろうが、その辺りもろくに記憶がない。なにせ父が亡くなったのは俺が六つアホの盛りの頃であり、そんな時期の出来事であるならば詳しい状況が理解できておらずとも無理はないだろう。写真もほとんど残っていなかった──それこそ父の実家で学生時代のものぐらいしかなかったそうだ──のだからどうにもならない。遺影の写真は社員証のものを流用したということだから、本当になかったのだろう。写真嫌い、というより写真に執着がなかったのだと思う。母もそのあたりはよく似ている。父が写っているものという以前に、そもそも家族写真というものが極端にない家ではある。俺自身も書類の手続き以外で写真を撮った覚えがない。幼稚園や学生の頃は行事の記念写真に写り込んだりはしていたが、ほとんどが場面の一部として辛うじて存在しているという程度だ。それに不満も不平もないが、友人に言うと少しばかり異様なものを見るような顔をされるので、世間一般としてはあまりない状況ではあるのだろう。


 小さく吐いた溜息がそのまま欠伸に化けて、俺は目元に滲んだ涙を拭う。手元の本は先程から一ページも進んでいない。せっかく本棚から抜き出してきたというのに甲斐のない真似をしている。

 午後の図書館にはどうにも怠惰な空気が漂っている。学生の数もまばらで、机に向かっている連中は黙々と書きものをしているのと突っ伏して寝こけているので半々といったところだろう。俺は講義の課題として書きあげるべきレポートに必要な資料を読むともなしにぱらぱらとめくりながら、どうにも脳に入ってこない文字列を模様のように眺める。


 どうして父のことを、それも死んだ時期すら把握できていない状況のままで今更になって考えているのかといえば、この頃の夢のせいだと言う他ないだろう。

 一昨日と昨日の夜、二晩続けてあいつが来ている。なので当たり前に眠りは足りていない。恐らくあいつが約束を覚えているならば、今日の夜にまた与太話を聞かせに湧いて出てから幾日かは間を空けてくれるはずだ。

 得体のしれない何かに覚えのない思い出話と心当たりのない怪談を吹き込まれる、やけにくたびれる夢を三日続けて見ては数日の平穏な夜を過ごす。そんな訳の分からないスケジュールをこなすようになって、そろそろ半月が過ぎた。睡眠不足に身体は少しも慣れないが、夢自体──というよりに対しては不本意ではあるが少しは馴染みができたような気がしている。


 あいつの正体については未だに少しも分かっていない。予想すらついていない。何をしたいのかと問えば話を聞いてほしいとしか言わないのに、それだけでいいと目鼻も曖昧な顔で(恐らくは)笑って答える。奇怪な思い出話と胡乱な怪談じみたそれを夜毎に吹き込み続けている。そんな得体のしれないやつと夜を重ねているということ自体がもはや悪夢じみた状況ではあるが、そうして異様さを認識できているうちは俺の正気がまだ残っているのだと安堵することもできる。これが本当に日常の一部になってしまったら、それこそ取り返しがつかない気がする。


 図書館のやけに重たい静けさに、乾いた紙が擦れる微かな音といやに軽やかな打鍵音が滲む。規則正しく響く無機質な拍子に眠気を覚えて、俺は抗うように頭を振る。

 どうしてここまで集中力を欠いているのかといえば、気がかりなことがあるからだ。

 心当たりは多分にある。父の話だ。夢の中で語られた、あいつが俺の父だった頃という与太じみた話だ。


 あいつが父を名乗るのは初めてではない。というより、父に限らず様々なものを騙っている。記憶にあるだけでも兄に父に先輩に叔父と随分欲張りな真似をしている。この役どころになんらかの意図を見出せるか、といえばそうでもない。血縁、というより年長者というくらいの共通項しか俺には思い当たらない。

 この四種類が選定されている理由も分からない。俺にとって特別な存在、というものはそれこそ心当たりがない。先輩はそれこそ付き合いの深さを問わなければたくさんいるし、叔父は先に夕食を御馳走になるくらいには親しい叔父が健在である。どちらも実在している、というと妙だが、現実に心当たりがあるのはこれらだろう。特に思い入れがあるというわけでもないので、ますます訳が分からない。


 兄に関しては最初からいなかったというべきだろう。

 佐倉家の戸籍には俺が長男として記載されているはずだ。死別したとか養子に出したとか、そういう話も聞いた覚えがない。兄扱いしていた存在というのもいない。社宅の記憶はろくにないし、微かに覚えがある遊び相手は同年代だったはずだ。実家の近所については遊び相手どころか誰が住んでいるかも知らないような有様だ。去年の七月に隣の家で葬式が出たと聞いて驚いていたら、それが四月から続けて三件目だと知らされて大きい声を出したくらいだ。向かいの家と左隣の家も葬式を出していたらしいが、そこの家の名字すら曖昧なのだから論外だろう。表札も毎日目に入っていたはずなのに、認識していないのだからどうしようもない。

 父もいたはずだが記憶にない。

 薄情と言われれば答えようもないが、歳を聞かれてバナナですと答えて指を五本立てていたような六歳の子供が何を覚えているというのだ。一応言い訳として、その頃の父が多忙だったというのがあるだろう。出張から連日の残業に加えての休日出勤など、そこそこに忙しく働いていたらしい、というのは機嫌のいいときの母が珍しく父の話をしてくれたときに得た情報だ。その労働の理由が社宅を出た後に一軒家を建てるためだったというのだから、現状そうして建てられた家に住んでいる人間かつ実子としては感謝すべきなのだろう。あるいは、と悲しむべきなのかもしれないが、当然のようにどちらもしっくりきていない始末だ。

 父が居なくて寂しくないのか、と言われてもよく分かりませんと答えるしかないのもどうにもならなさに拍車を掛けているような気がする。死にたての頃というとあまりに表現が直截的だが、その辺りでさえ特に記憶がない。それこそ叔父が言っていたとおりに問題行動や夜泣きなどもなかったというのだから、本当に健全かつ順調に成長していたのだろう。きちんと父の不在を理解してからも、特段何かしらを悩んだり惜しんだりもしていないはずだ。

 父という存在がこうしてただ欠落しているのは、生活においてそれに起因する不満というものがさしてなかったせいだろう。幸運なことに金銭的には露骨な不自由というものを感じたこともないし、精神的にも不足や不満があったこともない。

 傷もないが満ちてもいない、ただの事実として、俺の人生には父というものが存在していない。俺はそう理解している。


 どうにも自分がひとでなしだと確認しているような気分だが、本当に覚えていないし興味もなかったのだから仕方がない。


 だから叔父に対してもあのように答えるしかなかった。何とも思っていません、というのは敵意でも悪意でもなく事実だ。恨みもないが好意もない、と言い換えてもいい。感情の色を帯びた何かしらを抱くにしては、あまりにも思い出というものがないのだ。


 実家に帰省して遺影の顔を見るたびに考え込んでしまう。これは誰の遺影だったか、という一瞬の戸惑いを経てからようやく自分の父親だということを確認する思考の流れがある。

 母の実家の仏間のようにずらりと並んだ遺影の群れを眺めたときと同じ感情だ。どうやら血が繋がっているらしい、何かしらの縁があったらしい、そうした伝聞を吹き込まれただけの見知らぬ人たちの顔を見つめるときのあの空虚さ。

 面影のあるような気がする、馴染みのあるような気がする、そっくりなような気がする──全て確証も実感もない、ただ血縁だと聞いたからと思いたいだけの、卑屈な媚びに似た感情がある。


 ありふれて存在するもの、明確に個人として生きているもの、いなくなったものといないもの。

 それら種々の位置を騙ってまで、あいつが俺の夢に居座る理由は何だ。


 そこまで考えたところで視界が派手に揺れて、振動でほとんど閉じかかっていた眼が開いた。目の前を埋めている白いものがノートのページだと、一拍遅れて理解する。眠気に負けた頭が前へと倒れ込んだのだ。

 もうこれは駄目だろう。ここまで気が乗らないのにまともな文章が書けるわけがない。寝不足なのは事実なのだから、ここは無理をせずに居眠り仮眠を取るべきだ──諦めるための口実を手早く組み立てて、僅かな罪悪感を黙らせる。

 レポートの提出期日までにはまだ日がある。余裕があることを言い訳にして、俺は本を閉じる。幸いなことに図書館は混雑しているというわけでもない。一人くらい不良学生が居眠りに座席を潰しても、見逃してもらえるだろう。潔く家に帰ったところですることもない。むしろここに居座っていた方が、冷房代が浮くだけ都合がいいまである。


 本を机の端において、ノートの上に腕を重ねる。眠ろうと決めた途端に、瞼が融けるように降りてくるのが分かった。


 ぐずぐずと眠気に蕩ける思考のなか、とりとめのないことを考える。

 この間の連休に帰省したとき、遺影の父はどんな顔をしていただろうか。確かに見たはずなのに、どうにもうまく思い出せない。窓から入り込む日差しに艶めく額縁の黒に、陰影だけを克明に見せつけてくる白黒の肌。二つ並んでこちらを見る双眸、高くも低くもない鼻、曖昧に笑むように閉ざされた口。部品の覚えはあるが、総体としての顔の印象がどうにもぼんやりとしている中、右の目元の泣きぼくろだけがいやにはっきりと浮かんでくる。似ていない、と俺は何もないはずの自分の目元に指先で触れる。ただ肌の感触だけが指先に伝わる。

 閉じた目が睡魔に縫い付けられて、俺は何かを詫びるように頭を垂れる。そのまま机に突っ伏せば、冷房にすっかり温度を奪われた腕が額に触れた。


 ──柔らかな髪を撫でるとき、離れかけた指を惜しむように伝う、肌の熱さ。


 昨夜の夢を、あいつの言葉を思い出す。

 父に撫でられた覚えなどは当然ない。現実にはあったかもしれないが、記憶されていない思い出せないのだから証明などできるはずがない。写真もない。母に尋ねるのも何だか馬鹿らしい気がする。父さんは俺の頭を撫でたことがありますか、間抜けな質問文が浮かんだ。

 伏せたまま溜息を吐く。

 余計なことを考えずに眠ろう。どうせ今夜もあいつは来るはずだ。どうせ安らかな眠りが得られないのならば、昼間のうちに少しでも休息を取っておくべきだろう。


 空調音に掠れた笑い声が一瞬滲んだような気がしたが、錯覚だろうと俺は目を強く瞑った。

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