深夜の彷徨、父の話

 この頃の夜はどうしたものか。とうに夜半も過ぎたような、日射しどころか血痕じみた残照でさえ闇に蕩けて気配も失せたような真夜中だというのに、闇さえ熱に煮えている。ならばお前がそんな薄掛けだけで転がっているのも仕方がないというべきか。腹を冷やせばよくないと叱ろうにも、無理に着せて脳まで煮えれば尚更悪い。

 夜でこれなら真昼などどんな有り様になっているのか──なんだ、俺が昼の話をするのがおかしいか。お前が俺を何だと思っているかはともかく、そうだな、お前がそう思うのならばそれでもいいが……何、別段俺のようなものには昼が向かないということだ。忌み嫌うほどのものではない。お前だってそうだろう、夜に出歩くのを恐れはすれど、できないとは言わないはずだ。多少の事情や厄介はあれど、生き死にに関わる、存在自体に危機を齎すようなものではない。つまりはそういう加減のものだ。理由があれば、必要があれば、俺にとって明暗などさして重要ではない。ただお前にこういう真似をしようと思うなら、夜がいいというだけだ。昼に見る夢はまた管轄が違う、何より性質が違う。そちらの方は、そうだな、あまり俺は好かない。居心地が悪い……ああ、どうでもいいことだな、俺の嗜好なんてものは。


 ともあれ夢は夜見るものだ。現世は夢、夜の夢こそ真とは誰かが言っていたけれども──どちらも夢であるというなら、見たいものを選べばいいとは思わないか。夢であろうが現実だろうが、要は見ている者がどちらの実在を信じるかということだろう。真偽の比重なんてものは、外野が何と言おうとも結局本人しか選べないものだからな。そんなものは好きにすればいい、具合のいい方を、都合のいい方を、見ている者が幸せなものを在ったことにすればいい。その信仰が他人を害さないものならば、いかさま誰が困るものか。それが幸せというものではないか。


 夜の夢とは眠って見るもの。そうとも、眠らなければ始まらない、辿り着けない、受け入れられない。だからこそ怖れるものもいるだろう。子供は眠たいのに寝たくないとぐずる。あれは眠っている間に自己が融けて薄まっていくのが恐ろしいのに、どうしてか自分の体がそう望むのが気味が悪くて仕方がないのだ。自失と書けばこれほど恐ろしいものもないだろうに、眠りの淵で体から意識を投げ出すのは許容されるのだから不思議なことだ。眠らなければ弱るという理屈も、ただの恐怖の前には無力だろうよ。子供なら尚更、身体の在処も魂の帰属も曖昧だからこその怯えだろう。──もっとも、大人でもそういうやつはいるがな。眠るも死ぬも同じだと思ってしまえばそうなる、それの何が恐ろしいのか、俺にはそこまで分からない。聞いて知っても納得できない、の類だがね。


 他人事のような顔をしているが、お前もそういう子供だっただろう。

 泣きも暴れもしないがとにかく寝つかない子供だった。部屋の明かりが消えるのを嫌がって、ただ黙ってや母に縋りついては眠りたくないと繰り返す──そうとも、覚えがあるだろう。そういう夜はドライブに出たのも、どうだ記憶にありはしないか、お前。

 覚えているだろう、行き先も何も決めずに、お前が眠るまで夜道をただ走るだけのドライブ。ラジオだと賑やか過ぎるから、俺は古くて静かなアルバムをオーディオに放り込んでいた。お前、時々妙に古い曲を聞いているだろう。やけに湿気て景気の悪いフォークソングとか、古典を通り越して亡霊じみた洋楽やら。元を辿ればが聞いていた曲だと、そう覚えてはくれなかったか。お前を乗せて走る最中、薄闇の中に通奏低音のように流れていた曲だとも。そう誰かから聞かされたことはなかったか。


 お前は小さい頃から大人しい子だったな。そうして寝付かない夜に駐車場まで連れ出しても、問いかけ一つ発さなかった。

 後部座席に据え付けのシートに括りつけてやれば、泣きも笑いもせずに俺を見上げていたな。後部座席のドアを閉める前、その頭を撫でるのが決まりのようなものだった。柔らかな髪を梳くように撫でるたび、離れかけた指先に名残りを惜しむように伝う肌の熱さにどうにも驚かされてもいたな。同じ人間という種別であるはずなのに、その身に凝る熱の鮮やかさは恐ろしいほどだった。


 そうしてカーステのスイッチを入れて、エンジンを回す。アクセルを踏めば車は夜に滑り出す。


 どこへ行くでもない、それでも家から離れすぎないように、知った道を走るだけの彷徨ドライブだ。黒々と伸びる道には対向車も後続車もいない。通行人なんて尚更だ。時折思い出したように設置された街路灯の光が刃物のように窓から射し、信号機の赤が車内の薄闇に微かに艶を刷く。

 直進、左折、無人のガソリンスタンド、一時停止、発進、『関係者以外の立ち入り禁止』の看板、左折、とうの昔に潰れたのに看板やのぼりまでそのまま残っている回転寿司屋の廃墟、左折、直進──。


 そうやって似たような道を、うんざりするほど眺めた風景を回っているうちに、後部座席からは寝息が聞こえ始める。流していたアルバムの曲は二周目に入る。

 そうしてどこかの信号に引っかかったあたりで、俺は観念して助手席のそいつに視線を向けるんだ。


 車内に充ちた薄闇、その黒々とした夜に滲むように浮かぶ、影法師じみた黒い人形もの。フロントガラスにもミラーにも映らず、助手席にしんと座り込む人影。

 そいつを横目で睨んでから、俺はなるべく何事もなかったという顔を作って、正面に視線を戻す。夜闇に灯る星の如き青信号に一瞥をくれて、ハンドルを縋るように握って、静かにアクセルを踏む。

 微かな走行音と、車体に纏わりつく風の悲鳴。それに混じって微かな歌声が聞こえてくる。俺ではない、勿論後ろの座席で寝入っているお前でもない、助手席のそいつだ。古い歌を、もう年寄りしか聞かないような化石のようなかつての流行歌を静かに口ずさんでいる。こいつもこの曲を知っているのかと最初の頃は驚いた。

 それ以上は何もしてこない。曖昧な輪郭はこちらを見る素振りさえない。──もっとも、見られていたところで俺には分からなかっただろうがね。何しろ影だ、目も鼻も口もない、真っ黒な影がにたりと笑ったところで分かるわけがない。


 俺は車を走らせる。こんなものを乗せて社宅に戻るわけにもいかない。右折、直進、一時停止、見かけるたびに前庭に転がる古びた冷蔵庫の数が増えている一軒家、発進、右折、『この施設のご利用は関係者以外お断りさせて頂いております』の看板だけが横たえられた空き地、左折、直進──。


 そうしてしばらく走り続けて、やっぱりどこかしらの信号に引っかかった頃合いで、俺は死にかかった蛾の羽音のように微かな歌声が聞こえなくなっているのに気づく。

 助手席はただ夜に塗り潰されている。


 そいつが消える頃にはお前は大概深々と眠っていて、どうにか起きないようにと今更に祈りながら、俺は車を走らせる。聞き慣れた曲は夜に滲んで、ベースの低音が心音に重なる。

 お前が寝ついた、ならば家に帰れる──そうして帰路につく前に、俺はコンビニのだだっ広い駐車場に車を進入させる。缶コーヒーを買って、喫煙所で一本だけ吸うんだ。……走ってる最中はな、吸えないから。煙が流れてしまうだろう。そもそも吸うなと言われたら反論のしようもないがな。


 そうして点けた一本を咥えて、喫煙所から車を見ると、助手席にはあいつがいる。

 身を乗り出すでも暴れるでもなく、ただぼんやり座っているだけのそいつを、俺は紫煙越しに見るんだ。

 顔がな、の顔なんだよ。表情はない、笑っても泣いてもいない。それでも目だけがこちらを見ている。


 一本、吸い終わって灰皿に捨てる。火を折り消したその瞬間に、助手席は空になっている。

 そうして車に戻るとやっぱりお前は眠っている。他には誰も、何もいない。キーを回す。レバーを引く。アクセルを静かに踏んでハンドルを回せば車は夜に滑り出す。聞き慣れたホテル・カリフォルニアが夜闇に溶けて、耳を澄ませばお前の規則正しい寝息が聞こえる。

 社宅の駐車場に辿り着いて、割り当てられた枠内に車を押し込む。エンジンを切って、なるべく音を立てないようにドアを開ける。

 降りる瞬間だけ、知らない煙草の匂いがするんだ。誰かが煙を吹きかけたみたいに強く、一瞬だけ、やけに甘くて、纏わりつくような重さの──。

 でも俺は気づかないふりをして、後部座席のドアを開ける。眠ったままのお前を抱き上げて、そうしてようやく家に戻る。


 お前は覚えていないだろう。誰も教えてくれなかったろう。

 けれどもそういう夜はあった、はそれを覚えている。だからこうして話してやれる。……ああ、全てを忘れていたわけじゃないな。歌は覚えていたんだろう。それの由来は忘れていても、聞いた記憶が残っている。それだけで十分だ、馴染みがあるなら、大元の感覚はすぐに戻る。お前は覚えがいいからな、尚更だ。


 もう真昼の日は惨いほどの夏だろう。夏の夜は気短だな、暮れるのは遅く明けるのは早い。だからといって不満などないさ、夏の闇ほど暗いものもないからな。突き落とされた穴の底でただひたすらに降り掛けられる土のくろさ、設えた者も訪れた者もいなくなった座敷牢に蹲る廃人の目の玄さ、路上で死んでいた蝉を踏みつけたその日に出奔したきり戻らなかった父の弔いで袖を通す喪服の黒さ。夜が暗いほど見る夢は鮮やかになる。それならお前、俺としても夏を待つほかないだろう。暗い夜、深い闇ほど都合のいい舞台装置もないものだ。

 さておき今日はこれまでだ。何しろ短い夏の夜だ、夢も見ずに眠れる時間を無為に奪うわけにもいかない。名残惜しいと長居を続けて、朝の日に溶けるような間抜けではない。三日目次の夜があるのだから、そう未練がましい真似をするものでもないだろうよ。

 何よりまだ、日の下でお前と顔を合わせるのは支度ができていない。お前が相手を見た目で計るような浅はかなものではないのは分かっているが、それでも相応の格好というものがあるだろう。それには準備がいる、準備には手間がかかる、手間がかかるなら時間も要る。そういうことだと分かるだろう、理屈の通った話だろう。

 だからそれまで、それまではこうして迂遠な真似を続けるわけだ。お前には面倒でしかないだろうが、何、それくらいのことはお前なら見逃してくれるだろう。だからこそ今日とてこうも話を聞いてくれた、そういうことだ。

 つくづく功徳のあるものだ、いつかきっと報いがある。俺が言うから間違いはない。──何、悪いようにはならないさ、しないとも、約束しただろう?

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