庭の木蓮、兄の話
一夜など瞬きのうちに過ぎるものではあれど、それでも待つのは切ないものだ。
ただ暗い夜を、空しい夜を、掘られた墓穴の如くに黒々と何もかもを呑むような夜を、俺はひたすら堪えたのだから。そうして三度の夜を越えて、ようようお前に会えたというわけだ。当たり前だ、俺のようなものでも数は数えられる。物の道理も教えられたものは知っている。お前と約束したことを違えるような真似はしないとも。それだけ眠れば弱りもしない、食べて眠れば死にはしない、生き物というのはそういうものだと、お前は俺に改めて示してくれたわけだ。
しかし──この
まあ、そうだな、狭い部屋が落ち着くというやつもいるだろう。けれどもお前はそういう類の性癖はないだろう。生まれで全てが決まるなんて馬鹿は言わないが、それでも馴染みがあるかどうかは大切だ。
だってそうだろう、お前の家、お前が生まれて育った場所はもう少し広かっただろう。
今の立場からすれば、実家というべきなのだろうな。駐車場あり庭付き一戸建て、並べ立てると随分豪勢な真似をしているように思えるかもしれないが、種を明かせば田舎の地価と
駐車場にはありふれた白の軽自動車が一台、均されたコンクリの乾いた灰色から家の際に意地のように設えられた花壇とそこに植えられた花々。家の規模には不釣り合いなくらいの大仰なウッドデッキ。裏庭には家庭菜園の残骸と水汲みポンプに錆びた物置、それからもう砂と土の溜まるばかりのドラム缶、か。そうしてその裏庭の主のように、二階のベランダまで枝を伸ばし青々と葉を光らせる白木蓮。他には──ああ、玄関口に自転車が一台。鍵なんぞは掛けていない、そもそも後輪がないままになっているからな。捨てるか直すかすればいいものを、どういうわけかぐずぐずと放っているからたちが悪い。晒して嬲って留めておくのは、随分後生も悪いだろうに。
そうだな、お前がそうして目を剥くのは当然だ。どうして自分の家について、こんなやつから説明されなければならないんだ──そう思うのは全く正しい。
知っているとも、馴染みがあるとも、覚えがあるとも。
当然だろう、俺はお前の兄なんだ、それならお前の家を知らないわけがない。だって家族の家なんだから。そうだろう?
何、
窓があったろう、東に一枚と、南に一枚。南の方は大窓で、日差しに光るガラスの向こうにはベランダがあった。そうだな、いつか雨が続いた頃には窓の外から水溜まりを踏み散らかして遊ぶような音が聞こえてきたりもしただろう。何の不思議でもない、ベランダが水浸しになっていただけだ。気づいた日が結構な豪雨だったからな、長靴で足元の水をざばざば蹴り散らしながら、排水溝に溜まった砂を突き落してどうにかしただろう。そうして始末の間中ただただ雨に打たれていたものだから、芯まで冷えて風邪を引いた。熱に煮られて見た夢の中では、ずっと雨の音がしていたはずだ。
さて。
お前、自分の部屋は好きだったか。……ああ、この問いは正しくないな。得意だったか、いや──苦手だったか、いや、怖かったか?
春の頃、長い冬が骨も影も残さず溶け去って、蕩けるような日射しと境界の滲んだ暈けた空が湧き出す頃。そのひととき、短い春のほんの合間、お前、ベランダを決して見なかっただろう。
俺は理由を知っている。だからお前を責めやしない。お前が何もかもを忘れていたとしても、それも無理からぬことだと分かってやれる。
ベランダの向こう、手すりを越して葉群れを揺らす庭の木蓮、その青々と光る葉と仄白い花に混じって咲いていた手を覚えているか。
ひらひらと招くように散る花びらの中で、燈明から滴り凝った蝋の如くに生白い肌と、人も影もない暗い海辺に打ち寄せられた桜貝に似た薄紅の爪を、
お前があの部屋で春の夜に怯えていたのは、窓もカーテンも閉じて熱のない蛍光灯の明かりに縋っていたのは、夜風にざわめく葉の合間に揺らめく手を見たくなかったからだろう。イヤホンで耳を塞いで興味のない洋楽を流し込んでいたのは、ほたほたと花びらの散り落ちる音に混じって柔らかな手が壁を窓を打つ音を聞きたくなかったからだろう。
それでもお前はあの部屋に、あの家にいただろう。それが春の夜、花の盛りの頃だけだと知っていたから、逃げも狂いもせずに生きていられたはずだ。
花が散ればあの手もどこぞに消え失せる。裏庭とウッドデッキを落ちた葉と花が埋めても、そこに指の一本も見つかったことはなかっただろう。どうせ花の散るまでの間、それこそほんのひと時──そうだと分かっていたからこそお前も耐えられた、そうだろう。雨でも降ればなおさらだ。花に嵐はつきものだろう、散って朽ちればただの泥、そんなものは恐ろしくも何ともない。
由来、そうだな、そういうものも気にしていたな。勿論知っているとも、お前の兄だからな、お前よりは少しだけ長く生きている、存在している、世間の門前をうろつく年季が違う。──けれどもそれを知ったところで、お前、本当に安心ができるのか?
家の近くの三叉路、そこの事故で手先を潰したやつがいた。お前の母が通っていた病院の駐車場の隅に小さな社と地蔵があった。家の台所、食器棚の片隅で長らく使われていなかった揃いの茶碗の
例えばこれがそうだとして、──そうとも、そういう顔をするだろうよ。理屈が分かったところでどうにもできない。ならば知らない方がいい。知っていたところで目を塞いでいればいい。することもできることも変わらないなら、余事に手を出したところでどうなる。どうしてそうなったかより、どうするべきかが重要だ。その場凌ぎの応急処置、それでも当座はやり過ごせるならそれで十分だろう。根こそぎ始末をつけようとして、手を差した
そうあるものを理解すること、それは確かに誠実だ。真摯で、律義で、実直だ。お前がそうあるのは麗しいことだ。けれどもそれで救われるとも報われるとも贖われるとも限らない、それくらいは分かっているだろう。与えられる報いが、得られる成果がお前にとって望ましく喜ばしいものである保証はどこにもない。世間の理ですらしばしば理不尽と詰られるのに、その理外のものであれば尚更だろう。噛み合わない、釣り合わない、間に合わない。そういうものだ。
こうして理屈の話をすると、お前はいつも妙な顔をするな。押し入ってきた強盗に部屋の戸締りを説教されたような、荒れ寺を燃やした破戒僧から人の道を説かれたような、そんな不合理を堪えるような顔だ。
何、およそ聞きたいことは分かる。そもそもここにいる理屈自体がが曖昧なやつが知ったような口を、そういう類の文句だろう。──何、気分を害したりなどしない。そのくらいに遠慮のないことを思ってくれるというのは、馴染んでくれたということだろう。弟の軽口程度、目くじらを立てる兄がいるものか。
俺の理屈は簡単だ。俺はお前の兄なのだから、それならほら、こうしてお前の傍にいるのが道理だろう。昔も今も、だって兄なら仕方があるまい。だからこうしてお前に思い出話ができるし、僭越ながらも身過ぎ世過ぎの話もできる。見るべきでないものと知るべきでないもの、その区別の手伝いならば、
そうだお前、小指を寄越しただろう。この間の夜の話だ。あれは面白かったな。
勿論指切りぐらいは知っていたとも。ただそれをだな、俺がする夜が来るとは思っていなかった。話すだけならまだしも、知っているだけならともかく、手足を動かすのはまた違う難儀がある。異なるものに、自分ではない何かしらに触れるというのは難しいだろう。人の手が触れれば金魚の膚は灼けてしまう、氷雪に晒せば人の肌も凍って痛む。害意があろうとなかろうと、ただ温度があるからこそ負わせてしまう傷がある。そうしたものは許せとも
……ああ、余計な話をしたな。無駄ではないが本題でもない。お前に聞かせたいことはいくらでもある、けれども一夜はこうも短い。烏を打つより日を落とすより、いっそお前の目を塞いでしまえばいいのかもしれないが──勿論、そんなことをするわけがないだろう。約束をしただろう、確認をしただろう、俺はお前に酷い真似はしないと。
それでは今夜はこれまでだ。名残りは惜しいがそう寂しがるものでもない。そうだろう、今日を始めに三日は通える。あとの二日は眠たかろうがひもじかろうが、お前は許してくれるのだろう。約束したのだからな、そうだろう?
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