問答:夜よりほかに、
墓穴のように黒々とした目がこちらを見下ろしている。
顔全体がこちらに見えるはずなのに、ひたとこちらを見据えたままの目玉以外は印象が茫洋として認識ができない。影を凝らせたような頭部の背後には薄闇に覆われた天井が見える。腹のあたりにおざなりに掛けられたタオルケットの感触がやけにざらついている。背中が微かに痛む。投げ出した脚に自分の体温で
──覗き込まれている、のか。
見覚えのある覚えのない顔に、俺は自分の状況をずるずると反芻する。
そうだ。
日の沈んで幾らか涼しくなってから叔父に連れられて行った町中華、敵意こそ向けては来ないが愛想も振らない仏頂面の店員、油と煙草の匂いに混じって香るやたらと甘ったるい芳香剤、いやにぺとぺととしている机に床、軋む椅子、ごとごとと投げ出すように置かれる料理、大丈夫美味いんだよ本当だ辣子鶏マジで美味いですね追加でもう一皿欲しいくらいだいいよ酒頼もうせっかくだから紹興酒にしよう家帰ったって寝るだけだし──。
饒舌な記憶が途切れて、気怠い酔いの残滓の合間に再び情景が続く。
酔い覚ましに立ち寄ったコンビニ、やけに白っぽい照明の中提げたカゴに放り込まれる朝食用のパンとパックの烏龍茶を埋めるように詰められた酒とつまみ、ふらつきながら開けた玄関、そういやさあ配信にあの映画来たんだよまだ十時とかだし観とこうぜでもこれ俺もあんたもよく分かんないジャンルじゃないですかいいんだよ酒飲むついでなんだから意識のスクリーンセーバーみたいなさ何ですかそれ、じりじりと瞼に圧し掛かる酔いと眠気、暗転、なあエンドロールだけど、いいよシャワーだけ浴びときなよあの店煙くて油だから、暗転、タオルで拭うたびに軋む髪、じゃあ俺こっちで寝るけどほらタオルケット、
ようやく今の位置に自分が到達するまでの過程が埋まって、安堵のようなものを覚える。
床に転がっている俺を覗き込んでいる、距離からして立ち上がってはいないだろう。真横に座り込んでいるのだろうか。人間らしい形をしているならばそうなのだろうが、そうだとするといつもより近くにこいつが存在しているということになる。
それは少しばかり恐ろしかった。
ともかく今更寝たふりをするのも意味がない。何しろ目がしっかりと合ってしまっている。
諦めて視線を正面から受けつつ、俺はとりあえず疑問を口にする。
「ここ俺の部屋じゃないんだけど」
「そうだな。物が多い。皆々に打ち棄てられた納骨堂、諸々を押し込められた蔵、只管に哀れまれて疎まれた棺のようだ」
案の定の鬱陶しい物言いではあったが、感想としてはそこまで俺と違わないのがおかしかった。
こいつ──得体のしれない何かしら──にまで
逸れそうになる意識を戻す。もう少し意味のあることを聞くべきだろう。
「そういうのは関係ないのか、あんたには。その、俺の家じゃないと来られないみたいなやつは」
「俺はお前の夜を訪ねているだけだ。だから夜にはお前しかいない、お前のいる夜には俺しかいない、そうだな」
「……は?」
「お前が居ればそこが俺の夜だ。そういうものだ」
いつも通りの迂遠な物言いを、眠気のまだ貼り付いたままの頭をどうにか回して噛み砕く。俺のいる場所に訪れる、みたいなことを言っている気がする。
すごく雑な言い方をすると俺に憑りついているとかそういうことなんだろうか。
ここまで考えて、ふとこの部屋の本来の主──叔父の存在を思い出す。『夜にはお前しかいない、お前のいる夜にはお前しかいない』──だったか? これだけ騒いでいるのに叔父が起きない理由はそれだろうか。寝息のひとつも聞こえないのは、元々死んだように眠る人だというのもあるが、もしかしたら今ベッドの上を見ても誰もいないのかもしれない。こいつのうわ言に準ずるなら、俺の、こいつの夢の中には
黒々とした双眸は瞬きすらせずにこちらを見ている。
いつものように何かしらを話し出す気配はない。何かをただ待っているような、そんな間だと思った。
ひたりと揺らがぬ視線を見返したまま、俺は恐る恐る声を吐き出す。
「喋んないな、今日。いつもお前、あんなに喋るのに……」
「つれないことを言うな。約束をしただろう」
今日はお前の番だろうと掠れた声が頭上から滴り落ちてきた。
確かにこれまでの夜の間、何度か質問を要求した覚えがある。勿論つらつらと楽し気に胡乱な話を喋るこいつの前で、その語りを中断させてまで問いを投げるほどの度胸はなかったのだが、その度にこいつは俺の顔を見ては言いたいことがあるのだろうとつらつらはぐらかすようなことを喋っていた。口にもしていない心のうちを見透かされるのもそれなりに薄気味が悪かったが、一応こちらの意思を認識はしているということなのだろう。妙なところで律義な怪異だ。
ともあれ対話の意思があるのは喜ばしいことだろう。もしかしたらただそういう仕草をしてみせているだけかもしれないという考えが頭を過るが、すぐに打ち消す。普段あれだけだらだらかつ延々と喋るやつが、格好だけにせよ黙って待っているという時点で、それなりの対応だろう。
「聞きたいことはあるけども、その、そこまでまとまってないんだが」
「奥ゆかしいことを、健気なことを、殊勝なことを言うのだな。何、好きにしろ。俺は辛抱ができるからな、安心するといい」
「じゃあ、最初は確認になるけど。──お前が何かってのは、やっぱり聞いたら駄目なのか」
「懲りないな」
目元がずるりと黒に塗り潰され、また白眼が浮き出た。瞬きのようなものなのだろうがどうにも気色が悪い。
溜息すらつかずにそいつは続けた。
「駄目、というより意味がない。言っただろう、答えようがないからな」
「それは──分からないから、か、言いたくないから、か」
「その二択なら、そうだな。お前には言いたくないし、教えたところでどうにもならないし、聞かせたとしても甲斐がないから、と答えたいな、俺は。そちらの方が誠実だろうから……」
最初の日と同じような質問ではあったが、返ってきた答えも相変わらず曖昧だった。それでもあの夜のように躊躇なく首に手をかけてくるような真似をしなかったあたりは進歩と見ていいだろう。あまり覚えはないが、俺はこの幾夜かでこいつからそれなりに信頼じみたものでも獲得したのだろうか。
この数日、というより夢を見るようになってから、心当たりじみたものをどうにか探そうとはした。レシートや授業のノートを見返し、行動を共にしていたと思しき友人や先輩に取り調べのように話を聞き、ぼんやり生きている日々の記憶をどうにか掘り返しては記録してみた。
本当に思い当たらなかった。
喫煙所に入るたびに置き忘れられたビニール傘を見つけた日があったとか、住んでいるアパートの郵便受けに自分の名前とニアミスした宛名の恐らく間違いだろう封書が入っていたとか、大学から自宅へと帰ろうと乗った電車が人身事故を起こして大幅に遅延し別の路線に乗り換えたところそちらも同じく人を轢いたのでもうどうしようもなくなったとか──およそ直近の因縁として提示できそうなのはこの辺りだが、どれもこれも決め手に欠ける。それなりの手間をかけて思い出し、絞り出してもその程度だ。そんな曖昧で凡庸な因縁で、こんな訳の分からないやつに夜毎纏わりつかれる理由になるとは思いたくない。
俺に原因がないのなら、こいつの理屈を尋ねるべきなのだろう。けれども大変不本意なことに、こいつは最初のときから自身の
「これも確認になるけど。……お前はさ、話をしたいし、聞いて欲しいんだよな」
「お前に話したいことがある、だからお前に聞いてほしい、そうだな」
「じゃあさ、それ以外に俺にできることはないの。何かあるだろ、手伝えることとか」
何かしら未練なり問題があって俺のところに来ているのなら、早いところそれらの課題を解決してどこかに行って欲しい。そうしてこの夜毎の訪問がなくなれば、俺も以前と同じようにゆっくり眠れるだろうし、兄だの先輩だの叔父だの父だのを名乗られて、思い出に訳の分からない影を嵌め込まれるようなこともなくなる。俺はこれまでのように自分の
切実な打算を含んだ問いにそいつは幾度か双眸をせわしなく動かしてから、また俺の目を覗き込んだ。
「優しいことを言うのだな。──けれどもそれならなおのこと、お前には話を聞いてもらいたい」
また話が巻き戻った。俺は寝転がったまま、そいつの声をただ聞く。
「そうとも、それだけだと俺は言っている、それはお前にしかできないし、お前にはそれしかできないとも。ただ逃げずに忘れずに、何もかもを聞いて、そうして決めてくれればいい」
「何を決めんの、俺」
薄闇の貼り付いたように曖昧な貌が蠢くように捻れた。
相貌が鎌の刃の如くに細まる。恐らくは笑ったのだろう。それきり口を開く気配がない。
ともかく、と溜息を堪えて考える。答える気のないことを吐かせるような技量は俺にはない。だとしてもせっかくのご意見を投函できる機会だ。状況の打開はできないとしても、改善くらいは要求しておくべきだろう。
「……せめてな、三日来たら二日ぐらいは休ませてくれ。いい加減分かっただろ、人間は寝ないと弱る」
「それはその通りに。お前の頼みだ、お前のためだ、ならば俺がそれを守らない理由がない」
路地に蟠る夜のように静かな声と共に、ひたりと指らしいものが右の手首に巻き付く。いつかのようなどうにもならない恐怖はない。
ただ冷たいだけの、ひどく痩せた指と乾いた肌の感触があった。
「何」
「約束はこうするのだろう」
「ああ……場所がちょっと違う」
約束、という単語からして恐らくは指切りを試みたのだろう。こいつの知識の偏りはどうなっているのかと考えかけて、どうにも答えが出そうにないことに気づいて諦める。
ともかく要望には応えるべきだろう。俺の睡眠に関わることなのだから、損にはならないはずだ。
右腕を持ち上げて、小指だけを立ててやる。そいつはしばらく硬直してから、差し出した小指をゆっくりと握った。まだ少し違うが、これ以上指摘するのも面倒だった。
「じゃあ、約束だ。お前を弱らせるような真似はしない、甚振るようなこともしない、苛むような業も。──だから、俺の話を聞いてくれ。そうして最後に、お前が、選んでくれ」
いつかと同じことを擦れて甘い声が告げて、指が一際強く締め付けられた。
──死人に手を握られたらこんな具合なのだろうな。
触れられた肌から染み込むように湧き出した眠気の中で、そんな経験などあるわけもないのに、当たり前のようにそんなことを思った。
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