近縁:面影、面差し、然程は似ない37.5%

「叔父さんって刺されたことあります?」

「何、ないけど……人ん来て第一声がそれってどうなんだろう」

「とりあえず聞いておきたかったんで。ないなら良かったです」

「安心してくれたんならいいけど。素行調査にしては剣呑にも程がないか、やり口が」


 久々に顔出したかと思ったらそれかいと呆れたように叔父は煙を吐いてみせた。


 今時オートロックも監視カメラもついていないような、絵に描いたような安アパート。俺が住む学生向けマンションの一室といい勝負ができる程度の広さしかない部屋には、不釣り合いなほどの大画面のテレビと壁を覆いつくすように設置された本棚があるせいでやたらと狭苦しい有り様だ。そのくせ敷かれたカーペットが以前に来たときとは違うものになっているあたり、何らかのこだわりはあるのだろう。渡された麦茶のグラスを手に、整理整頓という概念が死に絶えたような本棚を眺めながら、俺はそんなことを思った。

 いい年をしてそんな手の施しようのない部屋に住んでいるこの人は、名前を梅田貴次という。

 血縁を辿れば俺の母の弟、つまりは叔父にあたる。結婚して実家を出た母とは違い、この人はただ田舎が嫌だというだけで実家を離れて都会で生活──恐らくは何らかの職についてはいるが誰も詳しいところを知らない──をしている。聞こうとすると話をはぐらかすのもあるし、俺もそこまで興味がないので深追いはしない。信じがたいことではあるが母や祖父母もそんな具合だ。

 その時点でそれなりにろくでもないのはその通りだが、だからと言って石を投げつけなければならないほどの悪行を重ねているというわけでもない。そもそもどうしようもない真似をやらかしていれば、とっくの昔に実家へと連れ戻されていただろう。そんな勝手が見逃されているのは、ひとえに祖父母両親が健在だからこその猶予期間というべきだろう。母は長子ではあるが家を継ぐ気など最初からない。それならば継ぐにせよ潰すにせよ、その諸々は叔父が負うことになるのだ。ならばそれまでは好きに過ごす、と決めたところで誰が口を出せるものでもない。

 そういう具合の思惑としがらみの隙間に滑り込むようにして、この叔父は職業不詳の胡散臭いおじさんとしてのうのうと生活しているのだ。

 とはいえ学生の一人暮らしとしてはいざというときに親戚身内が近くに住んでいるのはありがたいと言うべきだろう。何かしらが起きたときに物理的に逃げ込むあてがあるというのは重要なことだ。遠くの親戚より近くの他人、それなら近くの親戚ならより頼り甲斐があるというものだ。また年上の親族という関係からなし崩しに食事を奢ってもらったり適当に映画に連れ出してもらったりとそれなりに便利なのもある。元よりそこまで険悪な関係ではない、というより本やら音楽なんかの趣味は合うのと幼少期からの長い付き合いもありそこそこに良好な関係を築いている、はずだ。

 お互いに何をしている・していたと干渉するのは趣味ではないが、しばらく音沙汰がなければ死んでないかどうかくらいは気に掛ける程度というべきだろうか。旅行先なんかで六割ぐらいの確率でお土産を買っていってやろうかという気になる、そういう具合の関係だ。


 そういうわけで俺としては大学に入学した頃からこの叔父の部屋に隙あらば入り浸ってはいるのだけども、そういえば今年に入ってからは五月の頃に訪れたきりご無沙汰だった気もする。久方ぶりに顔を見せた途端に先程の質問だったのだから、確かに叔父の言い分にも理があるのかもしれない。

 叔父はローテーブルの上に置かれた灰皿に灰を落として、伸び切った前髪の合間から黒々とした目を向けた。


「つうかさ、何でそんなこと聞くの。世間話のとっかかりとしては赤点通り越してマイナスつくやつだと思うんだけど」

「……教えられたから?」

「誰からそんなん教わるの、っていうか俺のことを君に吹き込むような真似をするやつがいるの」

「夢の中で聞いたんだよ」


 煙を吐いたまま叔父の口がぽかんと開いた。無理もない反応だろう。

 怪訝そうに寄せられた眉、その下でこちらをじっと見ている双眸を真正面から見返しながら、俺は夢の話をした。毎夜現れる、顔も名前も関係すらも定かではない『あいつ』のこと。無遠慮に夜に入り込むくせに、こともなげに剣呑な気配を見せるくせに、どうしてか俺のことを気遣うような言動をする分裂した何かのことを。これまでに吹き込まれた歪な思い出話と、その朧な空白に差し込まれ馴染んだ怪談じみた奇妙な話について、ただ記憶にあるものだけを吐き出すように述べた。

 話し終わる頃には叔父の煙草は相当短くなっていて、挟んだままの痩せた指先が火傷しそうで不安だった。


 叔父は観念したように煙草を灰皿に押し付ける。

 そうして手元の麦茶を半分ほど干してから、俺の顔と天井を交互に眺めた。


「何ですか。目を逸らすのか見るのかどっちかにしてください」

「いや……甥っ子が頭おかしくなった場合ってどうすればいいのかなって……」

「天井に答えが書いてあるようなもんじゃないでしょ、それ」

「そうだな。そんなもんが見えたら俺もお仲間だ」


 短く唸るような声を上げて、叔父は新しい一本を咥えて火を点けた。

 予想通りの反応だった。

 夜な夜な見知らぬ相手から怪しい話を吹き込まれて寝不足が続いている、しかもその夢の内容が本当かどうかの判断さえできなくなっているなどと言い出す相手を正気だと信じる方がどうかしている。およそ頭の不具合妄想か幻覚を疑われたとしても仕方がない。何しろ俺でさえ馬鹿げたことを言っているという自覚がある。

 叔父は眉間に深々と寄せた皺をほどいて、天井に向かって一息煙を噴き上げた。


「んー……そういう感じのやつはさ、これまであんまり康貴くん言ってこなかったじゃん」

「そうですね」

「小さいときに見えない友達がー、とかも姉さんから聞いたことないし、中高って霊感ごっこや覚醒系のあれこれもしてた覚えは俺にはないし。聞いてなかっただけかもしれないけど」

「してないですよそういうの」

「だよねえ。趣味じゃなさそうだし」


 叔父は咥え煙草のまま器用に口の端を吊り上げてみせる。細くなった目元にどことなく母の面影があるような気がして、俺は少しだけ目を逸らした。


「気を悪くしないでほしいんだけどさ、予想よりかは意外なくらいに健全な育ちかたしてると思うよ、君」

「どういう理屈ですか」

「いや……全てってわけじゃないけど、一応デカめのあれこれがあったじゃん、康貴くんは。一応姉さんとか心配してたし、俺も少しは気にかけてたっていうか」

「何がです」

「その、ほら、……君の小っちゃいときに、死んだろ、お父さん」

「ああ」


 散々に語を濁した割には捻りのない内容だったので、間抜けな返事をしてしまった。

 叔父は俺の返事に負けないくらいに情けない顔をしてみせた。


「その反応はさ、どっちなの。俺としては一応気を遣ったんだけど」

「ありがとうございます」

「え、怒るよねそりゃ……ごめん、配慮に欠けたっていうのは本当に俺としても」

「違いますよ。お気遣い頂きありがとうございます、でも本当に何とも思ってないのでどうしようかな、をまとめて、ありがとうございますって言いました俺」

「あそう。何とも思ってないの……」


 今度は叔父がひどく戸惑ったような顔をした。この人は加減が雑な癖に打たれ弱いのだから不思議だ。

 ともかく俺は嘘は言っていない。父が幼少期に死んでいる──どうやら俺が小学校に上がったあたりで亡くなったらしい──のも、そのことについて何かしらの蟠りじみたものをほとんど抱いていないのも、本心からの発言だ。ただの事実を説明されただけで腹を立てるのも理屈が通らないだろう。


 叔父は何度か床やら壁に虫でも探すように目玉を向けてから、耐えられなくなったように煙を吐いてから俺の方へとおずおずと視線を向けた。


「──そういや話を戻すけど、さっきさ、君初手ですごいこと聞いたじゃん。あれちょっと雑に答えたっていうか、腹に傷はあるわよく考えたら」


 刺されてはないけど結果は同じだねとぎこちなく笑う叔父の言葉に、俺は口が開きそうになるのをどうにかこらえた。


「……なんで?」

「ん、傷がってことだよな。盲腸だよ。医者の腕が良かったからさ、そこまで大きいやつじゃないけど。あー傷だなーって感じのが一応あるよ」


 何なら見るかという叔父の言葉に首を振る。確認する気にはなれなかった。

 怖がっているのは俺だけだ、そんなことは分かっている。叔父はただ自分の無礼な問いかけに心当りを話してくれただけで、それ以上の意図も意思もそこにはない。状況が部分的に合致しているというだけで、嫌な気配じみたものを俺が勝手に見出しているだけだ。

 刺されてはいないが傷がある、過程及び原因は違えど対象に残される結果は同じだろう。偶然による悪意のない不注意によるものだろうが、積年の憎悪と敵意を伴っていようが、力を込めて蹴られた脛は痛む。その脚の痛みと名残りの痣を見て、加えられた暴力が振るわれたものなのかを予想することはできない。

 つまり、だ。

 刺された傷を盲腸の手術痕だと誤魔化しているなんてことはあり得ない。そんなことをする利点が叔父にはない。だからそんな訳がない。そう理屈では分かっている。

 それでも、一瞬でも叔父が嘘をついていると思ってしまったのは、俺が夢に毒されているからだろう。

 黙り込んだ俺に向かってしばらく目を細めてから、叔父は区切りのように煙を吐いた。


「ま、他人の腹なんぞ見ても面白くないのは当たり前だ。お前あれだ、疲れてんだよ多分」

「……そう見えますか」

「あんまり見えないけど。あれじゃないか、この頃はやたら暑いし、気づかないとこで消耗とかしてんだよ」


 そういうことにしとこうぜと続けた叔父の声はどうしてかひどく柔らかだったので、俺は小さく頷いてみせた。


「じゃあ……せっかく来たんだし、晩食べてけよ。何ならピザ取ったっていいし、最近のおすすめなら近所にいい中華屋見つけたから、そこでもいい。それから部屋ここで飲み直してもいいしな」


 明日土曜だから泊まりでも大丈夫だろという問いに、御馳走になりますと図々しい答えを返す。どうやら対応からして、狂人扱いは保留──少なくとも目を瞑ってくれるらしいと見当をつける。勿論甥の頭がどうなったところで無関係だというのもあるだろうが、すぐに腫れ物扱いをするような真似はしないということだろう。

 しばらくの間はいつも通りに、これまで通りの付き合いを続けるという宣言だ。

 助けるような真似もしないが石を投げるようなこともしない。その曖昧さは納得がいく。叔父と甥、そのくらいがちょうどいいところだろう。

 俺の目から微妙に視線を逸らして、叔父は言葉を続ける。

 これまでの不穏な問いも胡乱な告白もなかったことにするような、明るい声だった。


「中華屋、辣子鶏が旨いんだ。お前辛いの好きだったろ。ちょっと前に飲みに来たときも、買い出しに行ったコンビニでやたら辛いお菓子ばっかり買ってた……」


 そういうことはちゃんと覚えてるんだと笑いながら煙を吐く叔父に、俺はどうにか笑顔らしきものを作ってみせた。

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