二階席、先輩の話
お前、またひどい目をしているな。穴倉を追われた兎のような、深夜の交差点に瞬く信号機のような、首ごと落ちる椿のような、そんな憂鬱と疲弊の零れて滲んだ目だ。
およそのことは三日で慣れるとはいうが、やはり眠らないのはどうにも体が馴染まないのだな。食べなくても衰える、寒くてもくたばる、眠らなくても弱る。腹なり首なりを少々削られても駄目なのだからな、血肉のあるというのも善し悪しだ。
──そうだろう、なまじ肉の身があるから暑い寒いで死にかける、血を巡らせるために飯を食う必要がある。あるからこそ維持をする必要がある、そういうものだろう。無い袖は振れない、ない身体を失ったと嘆くものはいない。それはそれとして、ないからこそ欲しがるのも常ではあるな。俺には勿論、お前にだって心当たりはあるだろう。何、責める気はない、というより責められるものなど誰もいない。善悪の話など、お前にも俺にもどうせできない……。
さて、御託はともかく迷うところではある。
今のお前のような具合の方が都合のいいやつもいるだろうが、俺としてはお前には健やかでいてもらわないと困る。寝ぼけ眼の耳塞がり、どろろに蕩けた脳髄に勝手に吹き込んだところで甲斐がない。
それでもこうして来たからには、話のひとくさりもその耳孔に垂らし込まねば帰れもしないが──ああ、そう首を派手に振るな。あとで痛むぞ。
早く済ませたい、というのも多少は不服だが……まあ、辛い中でお前がそうして折衷してくれるのはありがたいことだな。慈悲がある。功徳がある。意地がある。ならばそれに俺も応えねばなるまいよ。
つまり、だ。先輩としては後輩のことをそのくらいには気に掛けるべきだろう。
親兄弟でもあるまいし、と言われたらその通りだが、だからこその手の出し方もあるだろう。親族ともまた違う、血は通わないが途切れもせずに繋がる
そうとも、血を介さないからこその結びつき、というのも面白いものだ。趣味なり生活範囲なり気性なり、たまたま行き会ってこそ馴染んで続くというのは因縁のある類だとは思わないか。だからこの夜、この夢で、俺がお前の先輩であることに、何の支障がある訳もないだろう。
大学からの最寄り駅、その駅前の踏切から少しだけ離れた位置にある。何となくの寄り道でお前がよく出入りしているファストフード店だな。
通い慣れてはいるものの、別にその店舗に思い入れがあるとか他の喫茶店を使いたくないとかそういう意図がある訳じゃない。駅の近くだから帰る目安もつけやすい、同じように電車で帰る連中ともただ駄弁るのに丁度いい。
しかもそういう立地のくせにさして混んでもいないから尚更都合がいい。ひと気がないとまでは言わない、けれども繁盛しているというには躊躇する。薄利多売でなんぼの店だろうに、混雑と縁がないというのは危うい気もするが、まあ、店の経営事情なんてものはただの客にはどうでもいいことだ。今のところは潰れる気配もないのだから尚更だ。潰れたところで代わりの溜まり場がないわけでもない、けれども都合は一番いい。曖昧だな、勝手だな、図々しいな──何、責められる謂れはどこにもない。皆そうして知らん顔で無体をしいているものだ。
だってそうだろう、手近な身内以外は書き割りのようなものだ。
ただでさえ世間には人が多いからな、そうでもしなければくたびれて仕方がない。身内と友人、便利な知り合い、それ以上を真っ当に扱おうと欲張れば苦労するばかりだ。全員を愛そうとするのも全員から好かれようとするのも、さてそれは身に余るものだろうよ。そうしてあがいたところで、精々が宿り木で胸を
さて、その店には二階があるな。狭くて急な階段を登ってから、大きめのソファ席が壁沿いに幾つか、窓際の二人がけが数席、あとは大人数用のテーブル席が真ん中に二つ三つ。……お前に身近なあの店、とは言ったが、こうして思い浮かぶ光景はどこの店舗でも似たり寄ったりだろうな。窓から見える景色ぐらいは違うかもしれないが、それだって誤差だろうよ。お前の故郷の方がまだ独自性というものがある。お前としては慣れていたかもしれないが、教室の窓から病院と慰霊碑が見える高校はそこまでないだろうに。
店を訪れるたび、お前はいつも窓際の二人掛けを使っていたな。大人数で行くことはあまりないし、手荷物の類も少ないから華奢な腰掛でも問題ないのだろう。それこそ先輩と二人、借りた本やら観た映画の話を
雑音を均すためだけに流れる音楽、配慮はあるが個性のない風景、値段相応で旨くも不味くもない食事。ああした店は時間潰しの雑談にはうってつけの場所だ。
さて、思い出してみるといい。そうして先輩と、あるいは一人で店に入った時。お前は必ずその席に座っていなかったか。
別に決まりでもないはずだな。二人でも四人掛けの席を使って悪いものでもない。混んでいるならともかくとして、知っての通りがら空きが常だ。
それでもお前、いつも同じ席を選んでいただろう。景色が見たいわけでもない、それどころか夏は西日が眩しくって嫌だと、冬は冷気が伝わって嫌だと、そんな文句を言いながらも頑なにそこに座っていたな。珍しく空いていないときでも、やっぱり窓際の端へと寄っていくのがお前の常だ。
そこの席が良かったんじゃなくて、他の席が嫌だったんだろう。窓際、階段の裏、フロアの端の席、そうして一番遠い場所にいたかった。
向こう側、対角線側の壁、そこに設えられた四人掛けのソファ席。
あの席に近寄るのが嫌だったんだろ、お前。
理屈、言えないだろう。
汚れがあるわけでもない、階段から遠いわけでもない、日差しが悪さをしないだけいつもの席よりマシまである。
それでもそこの席を使わなかった、それどころか離れたかったのはどういうわけかを、お前は説明できないはずだ。
説明ができないからといっても、分かっていないわけじゃない。最低限の理解は、知覚はあるはずだ。そうだな?
何だか嫌だったから、とお前は思っているだろう
それも道理だ。なんか嫌だ、それで十分根拠になる。他人に話せば笑われるし、書類に書けば不備で突き返されるだろうが、少なくとも俺はそれで納得してやれる。
お前は気づいていなかっただろうが、あの席に溜まるのはちょっとばかり妙なやつばかりだったからな。指がない、手首がない、右足首から先がない、そんなのはまあいいだろう。部品が多少欠けたところで、適切な処置が間に合いさえすれば、大概の生き物は元気に生きていられる。
けれども程度というものがある。
バーガーに齧りつく首が二つある、蓋を外したコーヒーの液面を見つめる黒目が数珠玉でも集めたようにつぶつぶとしている、伸びた腕がテーブルの下でとぐろを巻いている──そういうのは少し困る、というより事情がおよそ違うだろう。減らすのは簡単だが、増やすのは難しいからな、ことに首は。お前の祖父だって指を落としたことはあっても指が増えたことはないだろう、違うか。
そんなものがどうしているんだ、と思っただろう。そうだな、とりあえず思いつくのは幾つかある。
一つ、皆お前と同じように気づいていない、というのがまずあるな。そもそも他の客のことなんぞじろじろ見る方がどうかしている。だからこそあえて目を向けないし、向けたとしても風景の一部ぐらいにしか認識していない、ということだ。
もう一つは気づいた上で見ないふりをしている、か。これもまあ、そこまで無茶な理屈でもない。他人の腕が三本あろうが左右の足が逆についていようが、所詮は他人事だ。どうでもいいから気にもしない、そういう処世もあるだろう。
あとは……俺とお前にだけそう見えている、というのもあるな。全く簡単な話だ、二人揃って頭のねじが緩んでいて、俺の方がよりどうしようもない様相を呈しているというわけだ。お前への扱いが酷いが、可能性という話だ。悪く思わないで欲しい。俺は少なくともこの理屈だけは信じたくない。
どうしてそんなものがいるか、と問われるのも少し困るな。
だっているだけのものを追い出す理屈がないだろう。
どうもあれだな、後ろめたいような顔をしているな、お前。
そうして異様なものを遠ざけようとするのが、行儀の悪い真似なんじゃないだろうかと思っているような面だ。
そう気に病むものでもないだろうよ。
明らかに妙なものを避けるだけで責められるのは難儀が過ぎる。人間だってそうだろう、目が合った肩が触れた前世で因縁があったと難癖をつけるやつがいる。あの二階の連中が、そういう真似をしてこないとは限らない。見た目で人の中身まで決めつけてはいけないとは教わっただろうが──そうだな、限度がある。何よりそれが人かというところから始めないといけない。話せば分かるという物言いもあるが、たかが行き遭っただけの相手にそんな手間をかけてまで中身を正しく測ってやる義理もない。そうだろう?
殴らないために、殴りかからないために、互いのための無関心というものがあるはずだ。一度関わってしまえばどうにもならない、縁ができれば逃げ場もない、そうなったらもう手遅れだ、最後まで付き合うしか手立てがない。
何、そう心配することもない。そういうときこそ先輩を、俺を頼ればいい。
危ういものを教えてやれる、庇ってやれる、逃がしてやれる。それ以上は、と聞かれると困るが。後輩のためだからな、努力ぐらいはしようじゃないか。
どうした。話をしたいんじゃなかったのか──ああ、そんな攣れるように目を瞬かせるのは死にかけの年寄りか寝ぐずりの子供ばかりだ。目を剥くように瞼を開くのに、不出来な芝居の結末を隠す幕のようにずるずると落ちる。
先にも言ったが、眠らないとお前は弱るのだろう。俺が言うのも妙な話だが、そうして目を暴いてどこかしらを痛めるような真似はしない方がいいだろう。前と同じだ、しばらく夜を眠ってから、また俺に問えばいいだろう。はぐらかす、と言われれば言葉もないが……約束を反故にする気はないとも。考えてもみろ、守る予定のない約束なら、まずこうして憶えておいてやる理由が俺にはない。お前が興味を持ってくれるのは、俺にとっても嬉しいことだ。話せばいい、問えばいい、訊けばいい。どれにしたって楽しいことを、そんな寝ぼけた調子でやるには勿体ないだろう。
焦ることはない、怯えることはない、だから今夜はここまでだ。
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