一人の部屋、兄の話

 あの夜は屍衣の擦れるような音を立てて雨が降っていたというのに、どうしてこの頃は静かなものだ。

 時期としては梅雨の明けるも道理かもしれないが、それにしても目まぐるしいな。こうして夜の静かなのは俺には具合がいいが、連れて熱気の増していくのはどうにも堪える。雨の頃が過ぎれば夏が来るのだから仕方がないが……ああ、どうしてそんな妙な顔をするかったら、俺にそういう人並みの感覚があるかというのを疑っているのか。

 あるかどうかと聞かれれば、そうだな、分かると答えるべきだろう。夏の日差しに焙られれば辛い、夜に燻る熱の名残りに煮られれば鬱陶しい、。感覚として享受するのはこれまで叶わなかったが、それでも他人事ひとごととしてなら幾らでも眺めてきたからな。

 お前だってほら、そんな薄っぺらい布団を使っている。暑くて寝苦しいから、体温が布団へ余分に籠もるのが不愉快だから、夏の夜ならよく聞く理由があるだろう。そういう理屈が分かっていれば、体験したのとほとんど同じことだろう。少なくともお前の体を慮るに支障のあるものでもない。病みついた記憶がなくとも病人を労われる、刺された覚えがなくとも怪我人を慰められる。そういうものだろう?


 それに今夜はお前の兄だ。兄だからな、弟を気遣うのは当然だろう。年少を慈しむのは先んじて在るものの役割だ。違うかね、同じだろう、外れてはいないだろうよ。

 どのみちこのだけのこと、そういう仕組みだ。俺が何だと語ろうと、お前はただ聞いてくれるだろう。それなら些事だし誤差でいい。それだけのことだ。


 まだ旬というには早いだろうか、そうだとしても大枠としてはそこまで外れてもないだろう。最近じゃ年中見られるようにもなってきているが、それでもやはり需要があるのは夏だろう。

 何がと律義に聞きたそうに俺を見るじゃないか、それに甘えて続ければ、要は心霊番組の話だ。

 お前も心当たりがあるだろう、信じてもないくせに、それほど面白がってもいないのに、そのくせ放送されるとなるとテレビの前に座り込んでいたじゃないか。今はあんまり見ていない、そのときだって興味もなかった──どうした、珍しくよく答えてくれるな。何、別に気にはしていない。時間が経って趣味が変わる、そんなものは自然なことだろう。お前の興味がどこに向いているかなんてことに、俺が口出しする道理はない。


 それにしてもお前、今夜はずっと妙な顔をしているな。俺がこの話をするのがそんなにおかしいか……。考えてもみてくれ、お前の兄なんだから、お前が知っていることを俺が分からないわけがないだろう。残念ながら学があるわけではないからな、分かることには限りがある。そのくらいは見逃してほしいがね。努力は怠るつもりもないが、それでもどうにもならないことはある。

 しかしあの手の番組は分かりやすいな。ついでに言うならあれだ、怖いもの、の平均値を教えてくれる。テレビというものの常で、そのときに何が怖がられるかというのをきちんと捉えて示しているのだから大したものだ。

 このところはそうだな、、だな。

 ただ平穏な日常に閃くように射す怪異の影、そうして削がれて貪られる普通の人間、落ち度もないが救いもない。そういう話が世間様の好みだろう。何をしたでもしなかったでもなく、その場で遭ったばかりに恐ろしいものを見るのだから災難だ。

 昔はどうだったら──そうだな、の頃だともう少し相手を選んでいただろうよ。因縁がある、禍根がある、慕情がある。応報であれ制裁であれ呼応であれ、心当たりはお互いにあっただろう。だからこそ、それ以外はどうしたって関わらずに済んだろうがな。

 どうして流行りが変わったかなんてのは俺には分からん。興味がない、とまでは言わないが、だからといって執着するほどの熱意もない。

 通りすがりの他人にでも目が合っただけで縋りつけるくらいに腹が決まったのか、そもそも血だの縁だのが頼れないほどに弱ったのか。どちらというものでもないが、そのくらいしか思いつかない。

 事情も状況も幾らもあるだろう、だからどうにも分からない。俺はどちらだと問われたら──まあ、好き嫌いの話だろう。ついでに言うなら適不適の話だ。


 話が逸れたな。今はお前の話をするべきだというのに、な。

 俺の話は聞いてほしいが、俺のことなど聞いてもどうにもならない。どう違うんだ、言うまでもなく全く違う。お前は巡りがいいからな、そのくらいは分かってくれるだろう。


 さて。

 そういう具合のの中身、お前は覚えているだろう。

 旬の過ぎた芸人やら歌手やらを適当な廃墟に放り込んだり、凡庸な怪談を映像で再現したり、いつのとどこのと明瞭な輪郭は見せないのに、どことなしに既視感のある仕上がりになっているあれこれだ。見慣れた廃墟に聞き慣れた怪談、どれもこれもきゃあきゃあとただ喧しい叫び声と陳腐な演出がまとわりつくような代物だ。

 お前も真剣に見てはいなかったな。夏の夜、網戸から吹き込む温い風に汗ばんだ肌を嬲られながら、読みかけの小説に気を取られながら、友人から借りた漫画を眺めながら、時折分かりやすい悲鳴や異音が聞こえるたびに画面に目を向けるような──そうやって人の不幸を横目に眺めるように見ていたろう。

 血みどろのまま部屋の隅に佇む女。腐れた膚も露わに天井を這い回る赤子。暗い和室の押し入れ、閉まり切らない戸の隙間から差し出される白々とした腕。

 話の前後を忘れても、そういうものを見ただろう。まつわる語りは忘れても、そうした覚えはあるはずだ。嫌悪と恐怖、お前がどちらを主に感じたかなんてのは俺は知らない。

 それでも驚いた、つまりは恐れたには変わりないだろうよ。違うか。

 明らかに生者ではないものを厭うのも怖がるのも理屈は同じだ。それなら仕分ける意味がない。少なくとも今は、そして俺には、な。


 そうして存分に恐ろしいものを見た夜、お前はどうしてか自分の部屋で寝るのを嫌がったな。一人で眠るのをじゃない、自分の部屋で眠るのをだ。

 居間の床、ソファの足元に布団を敷いて、部屋から持ち出したタオルケットと枕を持って一人で寝ていたな。


 一人が怖かったわけじゃないだろう。テレビで見たものが眠れなくなるほど悍ましかったわけでもないだろう。

 一人で、あの部屋で、つぱねを見るのが嫌だったんだろう、お前。


 つぱね、覚えていないか。俺が適当を言うわけもない、お前はあの頃そう呼んでいただろう。姿は──ああ、そこは俺が教えるべきではないな。。けれどもどうせ、思い出したら同じことだ。それならわざわざ俺が無礼を為すこともない。

 普段は何ともなしに日常として見逃していたもの。それと似たものがテレビに、心霊番組で怪談として扱われていることで、どうやら恐ろしいものなのだと認識させられる。馴染んで慣れてしまっていたものが、再び異物として見ることができてしまう。そういう仕組みで部屋に戻れなくなっていたのじゃないか、お前。

 正気に返る、というのは大袈裟だろうな。ずらした焦点が合ってしまうだけ、焦点フォカスを合わせて詰られる理屈もない。在るものが見えることを責められるのも理不尽だ。


 それでも夜が明ければ、時が過ぎれば、何事もなく日々をやり過ごしていれば、またお前はが恐ろしいものだということをきれいに忘れていっただろう。


 仕方のないことだろうよ。

 覚えていたところで逃げられない。未成年の身では尚更だ。それなら目を逸らして生活を続けていくしかない。同居せざるを得ないのなら、せめて健やかに日々を過ごせるように目を瞑るのは処世だろうよ。身過ぎ世過ぎをうまくこなしているのに、頭の中身まで疑われる謂れもないだろう。お前はいつだって上手くやっていたとも。そうして立派に大学まで進んだのだから尚更だ。

 ああ、それにだな、何より居間のソファで眠るのは辛かっただろう。それも仕方がないことだ。幅が足りずに足が浮く、座面の傾きで背が攣る、窓向きのせいで日の出と共に目が覚める。お前がいくら若くても、そうした無理がいつまでも利くものでもない。痛めば弱る、弱れば病む、そうすれば俺は心配せねばならない。当然だろう、兄なのだから。お前の苦しむのを喜ぶ道理がないだろう。


 だからお前、実家に帰っても自分の部屋に寄り付かないだろう。

 散らかっているからとか物置になっているからとか居間の大きいテレビで午後のロードショーが見たいとか、細々と理屈をつけてはいる。けれども、本当はもっと単純な話かもしれないな。

 あの部屋に戻って、つぱねあれに遭いたくないだけ、そうなんだろう?


 目を伏せたな。

 今日のお前は素直というか、分かりやすいというか……何、大丈夫だ。道端に手向けられた花束から、仏間の誰にも似ていない遺影から、玄関の前に残る泥まみれの足跡から、恐ろしいものから目を逸らすのは人の常だ。けれどもお前には兄さんがいるだろう。だからそうして布団ばかりを眺めることもない。

 ただ、そうだな。理由はどうあれ、俺としてはお前が部屋に籠らずにいてくれるのは嬉しい。だって──大事だろう、家族の交流。お前が大学で学んでいるのは大事なことだけども、俺としては寂しいのも事実だからな。家に帰ってきたときくらい、少しでも長く顔を見たいし話もしたい。

 心配、も、するべきだろう。兄なんだから、それは役割、役目だろう。そういうことは知っている。


 言いたいことも聞きたいこともある、それでもそれを堪えている、そういう口元をしているな。

 辛抱ができるようで何よりだ。俺が言ったことを覚えてくれている、そういうことだろう。それだけでも十分だが、その上我慢ができるのだから立派としかいいようがない。

 人の話をちゃんと聞ける、約束を守れる、順番を待てる、どれも大事なことだろう。だからこそ俺のようなものに付け込まれる、というのを言うのは今更だろうし──何よりお前が一等分かっているな。何、怒るような真似はしない。およそその通りだ、お前は状況というものを把握するのも上手いのだな。

 だからそう視線をうろうろさせることはない。他の野蛮で悪趣味な連中ならともかく、どうして俺がお前に無体な真似をするものか。そんなのは面白くない、全く俺が面白くない。

 勿論約束を忘れるわけもない。けれどもこちらにも都合というものがある。

 だからもう一晩、付き合ってはくれないか。今日も待ってくれたのだろう、それなら一夜重ねるくらいは容易いこと、そう思ってはいけないか。


 そうか。

 もう一晩、もう一度だけ待ってくれると。頷いてくれるのなら、俺も約束を守ろう。


 夏の夜は眠りが浅い、夢も見て忘れるような淡いものばかりだ。それでも数を述べていけば、長く添っていけば行き着く先もあるだろうよ。継続は力なり、そういう言葉もある。

 知ってはいる、そうとも、知っていただけだった。──実感なんてな、これまで一度もなかったんだ。

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