冬の廊下、父の話
幾夜か会わずにいただけなのに、それでもお前はそんな顔をするのだな。
俺がお前を見限るわけがないだろう。お前に会うのも語るのも窺うのも大切だが、それにかまけてお前が痛んでは元も子もない。だから合間を取っただけのことだ。ただ眠るだけの夜が、傷も嬲らず肌も煮えずに夢も見ずに黒々と底に沈むだけの夜が、遍く人間には必要だということだ。そんなことは俺でも知っている、ならばお前も知っている、何しろ世間様が知っていることだ、そうだろう?
そうだな、だから今夜の話も決まっている。俺がお前の父だった頃の話だ。
兄から先輩、先輩から叔父、そうして順に成るのなら、今夜は父が来るのが道理だろう。何だか少しも分からない、まだそういう顔をするのか。さして難しくも凝った話でもない、理屈はひとつも変わっていない。お前に続いて繋がる位置、そうあるはずの話ばかりだ。忘れていても覚えがなくても知らなくても問題ない。だから俺が話しにくるし、語って教えるだけのことで……そうだとも、手間がかかるが必要な手間だ。それなら惜しむものでもない。
お前も変わらず同じこと、ただ聞いてくれるだけでいい。それさえ、それしか、それで足りる。かたつむり枝を這い、俺は夜にのさばり、なべて世は事もなし、ということだ。
建付けの悪い玄関の戸を横に引くたび、いたぶられた子供が呻くような軋みが響くのが嫌だったろう。
人が出入りするたびに表の砂利がざらざらと鳴るのも、雨漏りの跡が茶けて残る
分かるだろう。
父さんの、俺の実家のことだ。
お前にとっては爺さんの家だな。そんなに行ったことがないだろう、俺もそこまで帰りたくはなかったからな。どうせ土地までの道行きは同じだが、それならお前の母さんの実家に帰る方が余程いい。
どうしてかったらお前も同じだろう、俺の、父さんの実家に行くったら泣いて嫌がった。玄関の端に長年放っておかれた靴がずらりと並んでいるのが気味が悪いと、風呂の扉の摺り硝子の上に足型のような手跡のようなかたちがあるのが気になると、寝室だとあてがわれる二階の部屋の襖がどうしても閉まり切らないのに夜中になるとその隙間がやけに暗くなる瞬間があるような気がして仕方がなかったと、そういうことを言っていただろう。
確かに母さんの実家に比べたら古かったし、痛んでいたし、狭かった。子供なら嫌に決まっている、母さんだってそうだったろう、他人の家なら尚更だ。父さんだってそうだった。──ああ、まあ、また少し枠の違う嫌い方ではあったがな。そんな覚えが俺にもある。
その嫌な実家に帰るたび、割り当てられて押し込められる二階の部屋があっただろう。
その部屋で寝つかれずに目を覚ました夜に、お前は覚えがあるはずだな。
あれは年の瀬を俺の実家で過ごすことになったときだったな。毎年どうにか理屈をつけて、仏壇を拝むくらいしか顔を出さないものだから、いい加減に長居をしていけと
どうしようもない冬の日だった。雪と吹雪と氷に日射しも空も塗り込められてただ暗い昼間がめそめそと暮れて、それきり世間の理から切り外されたようにぷっつり暗い夜だった。年末の支度やら年始の仕込みやらで母さんも
お前もそれに倣って寝ついたはずが、どうしてか一人だけ目を開けてしまった。
別段不思議なこともない。寝る寸前まで部屋ではストーブを焚いていたろう。加湿器なんて洒落たものもない、そのせいで喉が渇いて貼り付いて、咳き込んで目が覚めたんだ。
どうにも喉が攣れて、舌が乾いて目もざらついて仕方がない。だからお前、
静かな夜だった。お前の小さな足が畳を踏む音も、襖の擦れる音も、乾いて貼り付く喉を通る息の音も、そんな細やかな動作のひとつひとつが世界の果てまで響いてしまうような夜だった。
襖をじりじりと開けて、隔てられていた闇に眼を慣らして、お前は部屋を出たな。
襖の向こうにただ真っ直ぐに伸びる廊下。別に曰くなんてものはない。一方は行き止まりの突き当り、もう一方は階下に続く階段がある。突き当りにはただ壁があるだけ。絵も花も家財もない、ただの壁だ。
その壁の前にしょんぼりと立ち尽くす背中を見ただろう。
薄青い病衣に痩せた肩の骨がやけに刺々しく浮いていたのを、裾から覗いた
ただこちらに背を向けている。そのくせ手に紙を掴んでいたな。その紙の片面に、描かれた絵に覚えがあったな。祖父の、俺の父の誕生日にお前が描かされた似顔絵だ。
だからお前、そいつを祖父だと思ったろう。
けれども真っ当な祖父ではないとも考えたな。だってそのときの祖父は入院なんかしていなかったし、絵だってお前は止めて欲しがったのに額縁に入れられて床の間の長押にかかっていたはずだった。そもそも祖父の寝室は一階だったし、そんななりをして寒い廊下のどん詰まりに突っ立っている理由も意味もなかったからな。
それでもお前はその背中を、そいつを祖父だと信じたから、放っておけもしなかっただろう。爺さんが寝ぼけているのだだから連れ戻そうと、その手を引いて寝床まで連れて行ってやろうと、そう思ったな。
決めたのに、それでもお前は踏み出せなかった。
床が冷たかったからかもしれないし、あまりにも暗かったせいかもしれない。何より、その病院着だけいやに青々として夜の中にあったからかもしれないな。
お前はそのまま浮いた足をもう一度床に戻して、視線を足元にただ向けて、黙って部屋に戻ったんだ。喉の渇きも何もかも押し込んで、布団を被って眠ったろう。
そうして潜った布団の奥、籠もる体温と圧し掛かる夜に宥められて、次に目を開けたときには朝が来ていたな。既に両親は起き出していたから、部屋には畳まれた布団と寝間着があるばかりだった。
開けた襖の向こうにはただ晴れやかな朝の光に濡れた廊下があっただろう。
冷やかな階段を一段ずつ降りて、そうして恐る恐る居間へと入り込んで、食卓の端にいつものように掛けて新聞を読む祖父を見て、お前はようやく昨晩の分を贖うように派手に咳き込んだんだ。
あの夜、まだ小さかったお前がそれでも父も母も起こさなかったのは、ただ恐れたからだろう。
どうしてそんな真似をしたのか、年相応に泣いて縋ったところで、誰もお前を責めたりはしなかったかもしれないのに。理由を話さずに布団に潜りこめば良かったろうに──ああ、それを許されるとは信じていなかったのか、そんな小さい頃から。それとも、そんなことをしたところでどうにもならないと分かっていたのか。
どちらにせよそうだな、賢い子だ。だからこそ俺が頼るべきはお前なんだ、分かるだろう。子が父に縋るのは、頼られた父が子に寄り添うのは、至極当然の話だろう。
どうも目を伏せてばかりでもなくなったな。
いいや、別に責めてもいない。俺がお前を責めることなどひとつだってない……泥を吸った喪服のような、打ち棄てられた墓石のような、路傍に手向けた花が枯れて凍える夜のような、そういう具合に黒々としたお前の目を、俺は大層気に入っている。その目が俺に向けられるのは、何より気分がいい。
聞きたいことがある、というのは分かる。お前も一人の人間だ、話を聞けば相応に思うところもあるだろう。
──けれども俺に答えられることがあるだろうか。
はぐらかす気も誤魔化す気もないとも。言ったろう、お前にそんな不実を働く意味がない。意味のないことをする理由がない。その上でただ、そうだな、困るというのが一等近いだろうな。お前は俺の頼みを聞いてくれているのに、そんなお前の望みに応えられないというのはよくないことだろう。貰った分は返さなければならない、これから取り立てるというなら尚更だ。相応の払いがなければ、それは報いとも呼べないだろう。値付けと取引は正しく行われるべきだ。ことに俺のようなものは、そう在らなければどうにもならない……。
そうだな、いい区切りだ。お前の話を聞くのもいいかもしれない。俺にも耳があるからな、お前が話したいことがあるというなら、いくらでも夜の限りは聞いてやれる。勿論耳だけでもない、見れば分かるだろう、手もある足もある、お前と同じ形をしている。
それじゃあ、と繋ぐのもおこがましいが──もう幾日か付き合ってくれないだろうか。
そうしたらお前の問いにも答えられる。じらす気もない、誤魔化す気もない。ただ物事には適切な時期と機会があるということだ。俺が嘘を言うものか。そんな不実な、そんな不当な、不義理な真似を──なあ? お前には誠実でありたいんだ、分かるだろう、俺はお前に疎まれるのが一等困るんだから。
ともあれそれなら約束しよう。俺の話を聞くお前の、俺への話を聞いてやろうと──それまでにはもう幾夜かは付き合ってもらうが。まあ、お前ならそのくらいの辛抱はできるだろう。いい子だからな、康貴は。
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