相縁:相談と閑談、然るに気休め

「夢見が悪いったらあれじゃないの、体調悪いとか、日々の不安とか、あー……欲求不満みたいな? 夢ってそういうのの象徴、みたいなの聞くじゃん。占いとか心理学的なやつで」

「そういう心当たりあんまないんですよね。元気ってわけじゃないけど普通だし、公共料金とか単位とかその辺も特に問題もないし、欲求も夢に見るまでのやつは、別に」

「俺は現実で不安とかあるとすぐ夢に出るからさ。今だと必修単位落としたらどうしようってので月一ぐらいでうなされてる。先月の夢は単位落としたからって住んでるとこ追い出されて近所のコンビニの喫煙所で煙草吸ってたらいきなりバンに詰め込まれて後部座席で右足にだけガムテープ延々と巻かれたりした」

「結構嫌な夢ですけど、そもそも先輩三年じゃないですか。なんで必修の話してるんですか」

「しょうがねえじゃん一限目で辛かったんだよ去年の俺には……」


 南向きの小さな窓から熱の滲む午後の日が射し込むサークル室。派手な傷から細かなへこみまで年代を丁寧に刻み込まれた大机を間に向かい合ったまま、五木いつき先輩は泣き黒子の添えられた右目だけを器用に細めてみせた。

 今日の講義は何ごともなく終わったが、素直に一人暮らしのマンションへと帰るには微妙な時間だった。何しろ六月の午後三時だ。日はまだ存分に高い上に、仮にも梅雨の時期でありながら雨の気配もない快晴である。だからといって特に寄り道をするあても思いつかず、それならばと時間潰しにサークル室を訪れることにしたのだ。

 熱気の籠もる狭い部屋の中、五木先輩はいつものように長椅子の端に掛けて、書店のカバーがかかった単行本から視線も上げずにお疲れと恐らくこちらを認識してもいないだろう挨拶を口にしてみせた。


 五木先輩の下の名前を俺は知らない。およそ先輩と呼んでおけば誤魔化しが利くし、凡庸かつ適当な大学生活においては特別の支障も発生しないからだ。何をもって先輩と呼んでいるかといえば、友人に誘われてなし崩しに参加したサークルと偏差値と受験科目から消去法的に選んだ文学科の先輩という、これまたありふれた理由が提示される。俺と同じく文学サークルに所属している先輩ではあるが、他のサークル員との付き合いは悪い──というより雑である。他のサークル員とあからさまに付き合いを避けるような真似はしないが、別段親しくなろうという気もないらしい。飲み会には顔を出すが、それ以外の会合で見かけることはほとんどない。その癖サークル室に入り浸っているが、それも人のいない時間を見計らっている節がある。およそ出入りする人間の絶えるような時間帯に部屋に入り込んで、備品として設えられた本棚にしまい込まれた海外文学やら古典SFやらを黙々と読んでいる。それでも一応は文芸サークルに所属しているという自覚はあるらしく、時期になれば何かしらの短編を仕上げては部誌に提出している。食肉工場に廃棄された兄と加工された兄の左腕を迎えに行く話を載せていたのは去年の夏の部誌だったろうか。たまたま喫煙所で行き会ったときに場繋ぎの話題としてそんな話を書いた理由を聞いたら『だって食肉工場って夏の季語だろ』と口の端に咥えたままの煙草から燻る紫煙と共によく分からない答えが返ってきたのを覚えている。

 そんな人とそれなりに大学生らしい付き合いができているのは、身も蓋もないことを言えばサークルでも学科でもなく喫煙所仲間だったという共通項があったことが大きいだろう。一日の中で顔を合わせる機会がそれなりに多くなり、何となく交わす雑談の量もそこそこになり、結果としてある程度の趣味の合致からたまに映画を見に行ったり飯食いにいったりするようになった、という成り行きという他ないような有様だ。


 おすすめの小説を聞くと古典みたいなSFとやけに偏った推理小説しか教えてくれない、酒にはあまり強くなくて、吸ってる銘柄はLARK──その程度のことは知っているが、それ以上のことは教えてくれないし、こちらとしてもわざわざ聞こうとも思わない。そんな程度に親しい先輩だ。


 そんな先輩相手にどうして夢の話を始めたのかと聞かれると、俺自身も明確な理由などは思いつかない。せっかくそれなりに話のできる相手に行き会ったのだから、とりあえずは雑談のていで誰かに話しておきたかった、というぐらいの理由だろう。そんな打算と自己都合でつらつらとこのところの悪夢について話したところ、案の定おざなりな反応が返ってきたというのが現在の状況だ。

 無視されなかったということは、話を続けてもいいということだろうか。

 この人は少なくとも興味がなかったら露骨に雑な相槌を打ち出すし、下手をすれば勝手に出ていくくらいはするはずだ。それがこうしてきちんと話の流れに即した返答を寄越しつつ、本から視線を上げる様子こそないが座ったまま話を聞いていてくれているのだ。つまり、このくだらない上に発展性も生産性もないであろう雑談夢の話を続けてもいいという意思表示と見ていいだろう。


「そもそも俺の先輩になりたいとか兄になりたいとか言ってくるやつの夢ってのは何の欲求の……象徴? になるんですか」

「え、分かんない」

「考えるふりぐらいしてくださいよ」

「あー……年上の男性になんかこう、ある?」

「特にないです」

「じゃあもう駄目だ。手札がない」


 先輩は空の右手をひらひらと振る。

 手元の小説本のページを繰ってから、視線をこちらに向けようともせずに続けた。


「俺からすればさあ、そんな夢見たところでそこまで気にするって感じではあんのよ。基本が他人事ってのもあるけど」

「……まあ、それ言われると、はい」


 全くの正論だ。おかしな夢を見た、そんな精々が雑談のネタにしかならないようなことで真剣に食い下がられても困るだろう。そのくらいのことは俺にも分かる。他人の夢の話ほどつまらないものもないというのもよく聞く風説だ。

 それでもこの偏屈な先輩相手でもなければこんな胡乱な話はできないだろうと思い直して、俺は無理矢理に話題を続けた。


「でも三日続いてるんですよ。そうするとそれなりに気になってくるっていうか、見逃すには再現性とか連続性とかそういうのが見えてき始めるっていうか」

「まあな、三日で終わるか続くかって分かりやすい目安だよな。三日坊主って言葉もあるくらいだし」


 直前の夢で聞いた言葉が先輩の口から零れて、俺は反射的に身を強張らせる。幸いなことに先輩はまだ文庫本に目を落としているので、俺の反応など気づいてもいないだろう。

 薄い隈の染みついた目元に睫毛の陰が落ちている。理屈を読み込むような瞬きを何度か繰り返してから、先輩は言葉を続けた。


「苦行だろうが義務だろうが、山を越えればそれなりになんとかなるしな。繰り返して慣らせば、不愉快なくらいに順応するもんだよ人体。夢見が悪いくらい、もうちょっとすればどうとでもなるって」

「そうかもしれませんけど、それも嫌ですけど……三日間、ずっと同じやつが出てるってのも、俺的にはちょっと」

「んー……」


 骨張った指でがりがりと頭を掻いてから、先輩はじろりとこちらに目玉を向けた。


「心当たりないっつってたけどさ、それはどれに対して」

「どれに」

「話の内容なのか、そのお喋り野郎なのか、両方なのか、かね。要素としては」

「……話してるやつに、ですね、その分類だと。全然記憶にない」

「話の内容には覚えがあんのか」

「八割ぐらい」


 夢の中で兄を、先輩を、叔父を名乗る『あいつ』。そんな記憶はないはずなのに、あいつの語る昔話にはところどころに心当たりがあるのも事実だった。俺が幼い頃に社宅に住んでいたのも肘には傷の攣れた痕があるのも事実だし、高校から上履きのまま帰ったこともあるし、毎年盆暮れ正月に母の実家に帰っては何となく居場所がなくて適当な部屋に隠れているのも事実だ。

 ただ、そうした些細な事実に沿うようにして差し込まれる怪談じみた諸々については一切覚えがなかったはずだ。

 それなのに、あの語り聞いたあとでは何となくそんなことがあったのではないかといううっすらとした感覚が芽生え始めているのも確かだ。勿論そんな想像が湧き上がる度にそんな訳がないときちんと振り払ってはいる。俺に兄はいないし、高校の頃に先輩はいたけれどもあんな得体のしれないやつはいなかったし、叔父は確かにちゃらんぽらん寄りの人間だが刺されるような真似をするほど浮かれた人間でもない。


 ないはずの記憶が、いないはずのによって自身の内側に縫い込まれているような──そんな悍ましい錯覚が、あのから俺にまとわりついている。


『──俺は後輩思いの先輩なんだ』


 夜半に降る雨のような、掠れて甘い声がそう嘯いていたのを思い出して、俺は咄嗟に口を開いた。


「先輩って先輩ですよね」

「別にお前の先輩であることが俺の全てってわけではないけど、一応その立ち位置も持ってるよ。二十一歳の九月生まれ」

「先輩らしい助言とかしてくれないんですか」

「なんで俺が」

「先輩でしょう。こう……後輩のことを気にかけたりとか、そういう人間っぽいことしてくださいよ」


 我ながら横暴な嘆願に露骨に面倒そうな顔をしてから、先輩は机の縁を指先で叩く。

 痩せた蜘蛛の脚じみた指が幾度か固い音を立てて、先輩が口を開いた。


「夢の記憶に覚えがあるのはさ、別に当たり前ではあるんじゃねえかな。知ってることしか夢には出てこないんだから、メカニズム的には」

「あー、なんかそんなの聞いたことがあります」


 眠っている間に自身の中に蓄積された記憶及び経験が再生されるとかいう仕組みだったろうか。昔子供向けの科学番組で見たときにそんなことを説明された気がする。

 先輩は確認を取るように一度長めに瞬きをして、そのまま続けた。


「で、そうやって夢で思い出した記憶がってのも普通にある。他の記憶が混ざったりすりゃあ別もんになるし、何ならお前が見聞きしただけのものだって混じってくる」

「読んだ本の内容とか、見た映画のシーンとか、眺めてたドラマの場面とかですか」

「そうだな。その辺はほら、──分かるか?」


 こちらを見据える黒々とした目に向かって頷く。先輩の物言いには一応の道理がある。けれどもそれならば、連日の悪夢で吹き込まれた怪談についても何かしら心当たりがあるべきだろう。先輩の説明に沿うのであれば、その出所が思い出せないというのは具合が悪い気がする。そもそもこれまでの人生でそこまでホラーを好んできたわけでもないので、似た話というのもよく知らない。逆さ吊りや存在しないはずの台詞などはベタな要素のような気はするが、それでも類似する話をすぐには思い出せない。

 先輩は僅か溜息のように息を吐いた。


「ただな、こういう具合ってべらべら喋ったところであんまり意味ないのはあるんだよな。覚えていない記憶なんてものもあるし、そのあたりを出してくるとややこしくなる」

「何ですかその矛盾した表記」

「ど忘れみたいなもんっていうか……雑にいえば脳に収納されているのに取り出せない記憶、みたいなやつだよ。体験して記憶されているけども、別に大事でも重要でもないから頭の奥に押し込んじゃったみたいな」

「それ自発的に思い出せなくないですか」

「きっかけと血の巡り次第じゃねえの? 本棚整理してると覚えのない本が出てくることあるじゃん、あんな感じで出てくるのはある気がする。マドレーヌの香りで懐古スイッチ入るやつもいるし」


 理屈としては納得がいく。取り出せない記憶、つまり知覚の網から外れてしまった記憶というものをどう扱うかということなのだろう。俺自身に覚えがなくとも、脳の何処かにしまい込まれた経験及び知識というものが存在しているならば、俺の見た夢は参照元が明示され、めでたく疚しいところも怪しい気配もない一般的な生理的現象として認められるというわけだ。

 けれどもそうするともう一つ問題がある。夢の中であいつが語った妙な話、そのうちの『覚えがないはずの二割』が、絶対に存在しないと言い切れなくなってしまうことだ。


 社宅で見た、鳩を鳴らしていた。夕暮れの校舎で天井からぶら下がっていた。夏の日に映画の中から予言を吐いた

 それら全てが、忘れられながらも俺の中にいたものであり、夢のによって引きずり出されたものだということになるのだ。


 黙り込んだ俺に先輩は何だか気の毒なものを見るような表情を向けた。


「まあ、何かしらの祟りとか兆しとかみたいなやつだったとしてもさ。とりあえず楽しく過ごすのが一番なんじゃないの。日々心残りがないように、みたいな」

「気にするなって言いたいんですか」

「それ」


 五木先輩は悪い人ではないが言葉選びが抜群に下手だと俺は確信した。


「そりゃさあ、映画や小説ならそういう……夢が現実に侵食みたいなネタは死ぬほどあるよ。正夢なんて言葉もあるしさ。俺だってただ嫌な夢ったらそこそこのやつを見たことあるよ、スーパーで買い物してて酒とか買い物カゴに入れるたびに耳とか髪とかちょっとずつもげていって、焼き鳥のパック入れたところでカゴごと片腕が落ちて卵割れた夢とか」

「本当に嫌な夢見てますね」

「それなりにな。けどこれ読んだ小説混ざってんだよ、ちょっとずつ体がぼたぼた落ちてくあたりは心当たりがあるから……そんで起きたばっかりのときはちょっと落ち込んだけど、別にもう元気だよ。この通り五体満足だし、耳も無事だし、ハゲの兆しもないし」


 先輩が耳元の髪を痩せた指先で掬い上げる。覗いた耳には当たり前だが欠けも傷もなかった。


「まあ、そういう感じで……とりあえず気にしなきゃいいんじゃないの、お前も」


 たかが夢じゃんと至極当たり前な言葉と共に、先輩はいつものように右の口の端だけを吊り上げて笑った。

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