夕暮れの生徒会室、先輩の話
じゃあ、今日は俺がお前の先輩だった頃の話だ。
そう不思議そうな顔をするな、兄になったものが先輩になって何が悪い。別にあり得ることだろう、これからお前に兄ができて、その兄が先輩になるのなんて難しくもない。血やら縁やらを繋げるよりも余程容易い、お前と同じ場所に先からいたことになればいいだけだからな。……ああ、先輩から兄になる方が楽だな? お前としては複雑かもしれないが、できるのだから仕方がない。できるのならば試したくなる、そういう人間もいるだろう、俺はそう思うが。
まあ、その辺りは置いておこう。俺が兄でも先輩でも、それより他の何であっても、今のところは支障がない。今日の
七不思議、覚えているか。どこのってお前、俺とお前で話すんなら高校のやつに決まっているだろう、妙なことを聞くな……。大学で七不思議って聞かないからな。少なくとも俺は聞いたことがない。怖い話がないとは言わない、ただ──そうだな、枠が違うというべきか。サークルのやら友人のだの、仕分けの位置が個人的だ。大学由来であったとしても、七つもあった試しがない。何だろうな、みんなそこまで暇がないんだろう。やりたいこともやるべきことも、やったらいけないができることも山程あるからな、
高校のときは一年違いだったろう。俺が二年のときにお前が入学してきて、図書委員会で当番の曜日がよく被って……ああ、生徒会でもよく会ったな。お前はあれだろう、お友達と一緒に会計をやりたいって五月の連休明けに会室に来て、そのまま何事もなく下っ端やってた──合ってるだろう。当たり前だ。そんなところで適当を言っても面白くない。何より、俺は後輩のことを忘れるほど薄情な先輩ではないからな。
生徒会室と言っても大したものでもない。部室、あるいは溜まり場みたいなものだったからな。それだって立地のせいが大いにある。本校舎とは別の場所、体育館やら部室棟の近くにあっただろう。そもそも生徒会室なんてものに一般生徒は基本的に用がないし、勿論教師も顧問でもなければ顔を出す理由がない。そうして寄り付くやつが限定されて、結果として公認の秘密基地みたいなものになる。あとは少しばかりの選民意識……まあ、そこまで大仰なものではないか。気の合った者同士が適当につるんで遊んでた、それくらいで十分だろう。そもそも俺だって厳密にいえば生徒会役員でも何でもなかったからな。
そういうわけだから、生徒会業務がなくても適当に人がいただろう。学生が勝手に設えた本棚から、やっぱり勝手に置かれた漫画やら小説やら雑誌に部誌やらをとり出して読んでるやつとか、奥の方に置かれたテーブルで延々とトランプやってるやつらとか、そういう類だ。冬だとあれだな、ストーブで調理してたやつらもいた。ストーブの上にアルミで巻いた芋だのりんごだのを置いてたの、覚えているだろう。中には作ったはいいが忘れて帰る鳥頭もいたからな、そういうのは最後まで生徒会室に残っていたやつらが戸締りの手間賃代わりにもらっていたな。何、放っておいても痛むだけなら食べてやるだけ功徳だろう。食いものを無駄にするのはよくない、祟りがある。そういう話が好きだろう、お前ら。
そうだ、戸締りも当番やら役割みたいなものは決めてなかったろう。何しろ集まる連中が好き放題だ、当番表なんてものを作ったところで大してあてにもならない。最後まで残っていたやつが、責任を以て点検と戸締りを終えるのが暗黙の了解だったな。
自主、自立、自治の精神だったか。生徒手帳にあったろう、お前の高校の校訓だったな。何だかお題目は随分高尚だったが、何、やるべきことをやれというだけのことだ。義務さえ果たせるならば、多少の好き勝手は大目に見てもらえる。無遅刻無欠席、成績は常に上位、委員会の仕事も率先してこなしていれば髪が真っ青だろうが右耳がピアスまみれだろうが注意されるようなこともない。他者に対する好意的な無関心、そういう芸風はお前も嫌いじゃなかったはずだ。
そうだな、あの日もそんな具合で帰るのが遅くなった日だった。お前は会計の業務で、出納帳をつけていたな。ちまちまと手間のかかる仕事ではあったが、それでも処理の件数はさほど多くなかったから、終わった後は知り合いと適当に遊んでいたな。
血が出たろ。
いや、物騒な話じゃない。およそお前の血でもない。江崎と高田先輩がトランプのスピード勝負をして、白熱したのか不注意だったかは知らないが、右手の人差し指をざっぱり切った。皆して心配するべきか笑うべきか困って、どうしてか花札に切り替えてたのは面白かったな。遊びたかったんだろうが、そこまでして継続するもんでもないだろうに。お前はスピードが苦手だったから、
そうやって各々が馬鹿な遊び方をしているうちに、他の連中はぽつぽつ帰っていった。高田先輩も花札で三連敗したあたりで帰り支度を始めた。あんまり遅くなるなよと、会室の出入り口で怪我した指を握り込んだ右手を振ってくれた。拳を振られるとなんだか間抜けな絵面になるなと思ったが、お前は黙っていたな。悪口でもないが、言ったところでそう面白くもない。そういう分別があるのはえらいことだ。
そういうわけで生徒会室から皆いなくなって、帰りそびれたお前と江崎が戸締りをすることになった。
生徒会室といってもそこまで広い部屋でもない。普通の教室より少し狭いくらいだ。けれども妙に捗らなかった、いつもよりどうしてか手間取った。そこの理由は俺も知らない、けれどもそういう巡りの日というのはあるだろう。
その日は夕焼けがやけに綺麗で、窓に映り込んでカーテンに伝う赤が目を灼くように鮮やかだった。
それには覚えがあるだろう、お前はあんまり見とれていて、江崎に叱られたな。あいつも早く帰りたかったんだ。六時を回っていたからな。どうしてってほら、玄関が、校舎は六時半には施錠される。実質的な締め出しだな、とにかく本校舎から生徒を追い出すために、設定された門限だ。
つまりだ、帰る帰らないはともかくとして、その時間までに正面玄関から靴を回収しないと上履きのままで帰ることになる。それを避けようと、お前も江崎も慌てて戸締りをしていたわけだ。
なあ、覚えているだろう。結局その日はお前、上履きのまま帰ったな。右足の緩んだ紐も結べず、朽ちた夕日の染みた黒いアスファルトで靴底を削って、隣の江崎と口さえ聞かずに駅まで家まで帰ったはずだ。
あのときどうして上履きのまま帰ったのか、自分たちは正面玄関を使えなかったのか。──その理由を
簡単な話だ。あの日お前たちは玄関に行けなかった。天井から通せんぼされてた、からな。
玄関までの廊下、その天井から真っ直ぐに下がるそいつを見た。這い回る女生徒だったか、逆さ吊りの軍人だったか、それとも首を括ってぶら下がる新任教師だったか──そういうものを、お前は見ただろう。
それは何だと聞くか……俺の思い付きじゃないさ。先に言ったろ、お前の高校の七不思議だ。真夜中に廊下を這い回る女生徒、放課後に校舎に居残っている生徒の前に吊り下がってくる軍人、ただあちこちでぶら下がって縄を軋ませる首を括った新任教師、他にも四つ──何、番外の
今時七不思議ってあるもんですかねしかもそんな陳腐なやつ、初めて聞いたときにお前はそうやって鼻で笑ったな。無理もない、無理もないがそうなんだから仕方がない。地元の名門校、由緒正しい伝統校、土地も人も古いのだから、怪談だけ新しい道理もないだろう。一度根付いたものは、なかなかどうしてしぶといものだからな。
生徒会室の鍵を閉めて、江崎と一緒に外廊下を歩いて、まだ開いていた出入り口から校舎に入って、
そこまでだった、そこで止まって引き返した。そうすべきものを見てしまったから。
何を見たか、それを思い出そうとしているのか。どれでもいいさ。どれであっても大差ない。そこはそれほど大事でもない、し──そうだな、楽しいものでもない。だからそう拳を握るのは止めた方がいい、傷になる。手のひらの傷は治りづらい、治らなければ長く痛む、それはお前も辛いだろう。
結局お前はそれに遭って、玄関まで行きつけなくて、引き返して上履きのままとぼとぼ帰った。その覚えがあるかどうか、お前と俺にとってはそれこそが──ああ、その顔を見ればよく分かる。
どうやら覚えていたみたいだな、お前。
どうして知っているのかって、それは俺が先輩だからだよ。
そう怪訝そうな顔をするものでもないだろう。俺は先輩だったから、後輩がどんな目に遭ったかぐらいはちゃんと知っている。何ならお前が話してくれたから、そう答えてやってもいい。だからこうしてお前に話すことができる。
後輩が大事なことを忘れているなら、ちゃんと教えてやるのが先輩の役目だろう。違うかね。俺は後輩思いの先輩なんだ。
随分辛そうな目をしている。
乾いている、充血している、眩んでいる。眠たいのは無理がない、何しろ
それなら今夜はこれまでだ。無理をさせてもどうにもならない、それは俺の本意ではない。
それでは次の夜まで待とう。だからお前も、どうか俺の話を聞いてくれ。
二度まで許してくれたなら、もう少しばかりは期待してもいいだろう。
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