雨の社宅、兄の話

 ともかく目覚めるまでの付き合いだ、何、ひどいことなんかしない。俺はお前に痛いこともむごいこともしないとも。そんなことをしたって甲斐も意味もないだろう、だったら理由がない、それならするわけがない。そういう理屈は分かるだろう、お前。だからそんなに布団を握るものじゃない、手が痺れてよくない。寒いというなら仕方がないが、今の時期ならそうでもないだろう。

 それにしても雨の音がよく聞こえるな。

 昼も降ったり止んだり、日暮れて夜には静かになったと思ったが、夜半を過ぎればこの有様だ。どうもこの頃の天気はあれだな、はっきりしない……今の時期ならよくあるものだと分かってはいるが、だからといってそのやり口を何もかも了解できるかといえばそうでもない。理解と受容はまた別の理屈だろう、違うかね。だから一方だけでも成立できる、それで不便も不満もない。俺はそこまで欲が深いものでもない。

 さて。

 それでは、始めよう。


 これは俺がお前の兄だった頃の話で、やっぱりこんな雨の降る頃の話だ──何、そんな身構えることは少しもないんだ。思い出話だ、するだろう、家族ならそういうのを。何にも不自然なことはない。そうだな?


 二階建ての左右に一室、一棟四室でそれが二つ。表から見れば狭いベランダとガラス戸が二枚、玄関の扉は細かな傷まみれの金属製だから夏になると人肌みたいに温くなる。お前も覚えているだろう、小さい頃に、幼稚園の頃に住んでいたアパートだ。

 あれは父さんの勤めていた会社の社宅だったか、まあそんなことはその頃のお前には関係がなかったな。育ち盛りの子供に夫婦、家族で暮らすには風呂も寝室も少しばかり狭かったが、そんなに悪いもんでもなかった。少し歩けばスーパーも駅もあったし、暖簾に龍を飛ばしているようなラーメン屋だってあった。近くのガソリンスタンドの店長さんが子供好きで、お前も父さんとのドライブの帰りに給油に寄るたび飴玉をもらっていたな。レモンのやつが好きだったか、けれどもお前酸いものは嫌いだろう、それなら色が好きだったのか。気持ちは分かる。綺麗なものを食べるのは嬉しいからな、飴玉なら尚更、舐めて溶かすも噛んで砕くも好きにできる。

 周りが便利だったのもそうだけども、何より家賃が安かった。色の白いは七難隠すとは言うが、銭の安いはおよその諸々を隠す。そういうものだろう。

 お前は元気のいい子だったから、晴れた日は大方外で遊んでいたな。シュウヤ、カズキ、ミオ、同世代の子供はいくらでもいた。俺はほら、お前たちとは年が離れすぎていたからな。わざわざ遊びに混じるような真似はしなかったが、何をやっているかくらいは気にかけてはいたんだよ。子供っていうのは、少し目を離すと妙なことをやるだろう。

 そうだな、管理人棟の階段、どれだけ高い段から飛べるかって遊びが流行ったろ。カズキとシュウヤに唆されて、お前が四段から飛んで、着地したのにそのまま前のめりに倒れて地べたで顔を擦って、血だらけのまま家に帰ってきたんだから覚えているとも。あれで歯も鼻も折れなかったのは運が良かった。その上お前の帰った後で、カズキが五段から跳んできちんと着地もこなしたからますます面目がない。……ああ、それは覚えていたか。何、気に病むことはない。子供は馬鹿なことをするものだし、馬鹿なことなのだから成果がないのも当たり前だ。悔やむものでも恥じるものでもない、そうだろう。俺はそう思う。弟が元気で無事ならそれでいい、兄とはそういうものだろう。


 だからお前、雨が嫌いだったろう。簡単だ、単純だな、だって雨の日になると表で遊べないから、それだけのことだ。


 狭い社宅、とさっきは言ったが、あれは少しばかり正しくはなかったな。部屋数は多かった、その分割を食って部屋が狭かった、そうだな? 寝室に居間、台所と食卓、風呂に洗面所にトイレ、物置──そうだな、父さんの楽器部屋があった。そこまで広くもないのに、道楽で一部屋潰してたんだから大したものだ。

 楽器部屋、というのも別に正確な名前じゃない。キーボードやらアコギやらやけに大きくて重たいカセットデッキやら、そういうものが置いてあった部屋だ。あとは……パソコンがあったな。お前が大学のレポート用に使うような、そこのテーブルの隅にあるようなうすっぺたいやつじゃあない、もう少し立派で場所を取るやつだ。それから本棚。絵本から図鑑に画集に文集、高さを揃えて本が詰めてあったな。それでも上から二段目の棚だけ本が入っていなくて、空いたところに小物が飾ってあった。今だとお前の実家の二階、廊下のところに壁代わりに置いているだろう。


 その部屋で鳩が鳴いたのを、覚えているか。

 まあな、田舎だったから鳩ぐらい鳴くと言ったらそうだ。

 ただお前、覚えているだろう。あそこで鳴いていたのが本当の鳩じゃなかったこと、きっと忘れていないだろうに。


 雨の降る頃、それも春のじとじと降るような雨の日だ。

 カーテンから染み透る暗い真昼の気配、薄暗い部屋の中、大きな本棚の空いた一段。その一段に絨毯みたいに赤いフェルトの布を敷いて、群れ集うように飾られていた鳩笛。そいつらが、雨の降る日は鳴いただろう。


 お前はいつも怖がるくせに見に行きたがったな。雨が降るたびおっかなびっくり本棚の前まで椅子を引きずって、鳩笛の前に伸び上がって眺めていた。それでいて土くれの鳩が鳴くとはたき落とすのだからな、随分な真似をすると思ったよ。

 面白かったろう。目の前の土笛が、触りもしないのにぼうぼうと鳴くのだから。

 あの部屋は絨毯張りではあったが、落ちどころが悪ければちゃんと割れる。土笛だからな、そこまで大きさもないし、割れるときは首やら尾羽やらのくびれたところから折れて分かれる。だから皿や硝子ほど危なくはないが、それでも子供に割れ物を近づけるのは嬉しくない。それからお前も落としておいて泣くからな、そうすると母が来る。椅子の上で泣いているお前と、床の上で割れて砕けた鳩の残骸を見て、溜息をついてから居間までお前を連れ出すんだ。割れ物を片付けるのなら、子供を先に安全な場所にしまった方がいいからな。

 置かなければいいと思うだろう。勿論お前の父だってそう言った。鳩笛は母のお気に入りだったからな。それが割られて嬉しいわけもない。つまりみんなうっすら損だ。

 けれどもそうして言われるたびに、母はどうにも困ったような顔をしてから「鳩笛を置かないと、もっと面倒だから」とだけ答えるんだ。

 母に責があるわけではない、つまり面倒の候補があったんだ。

 そうとも。

 お前が怖がるから言わなかったけども、他にも色んなもんが出たからな、あの社宅。

 どうしても角の一つに水の溜まる脱衣所、いつの間にか指一本分だけ開く寝室の押し入れ、夜の八時から十五分だけ音量がどうやっても二十から下がりも上がりもしなくなるテレビ。お前の両親が知っているのはもっとあるだろうし、俺はそれより余分なものも知っている。お前は知らない、気づかずに済んだのだろうけども──ああ、もしかしたら気にも留めなかったのかもしれないな。何、別にそれでもいい。怖くなかったなら、お前が怯えなかったのなら、それで十分だろう。幼児ってのはそういうところがあるものだ、それでこうして健やかに育ったのなら何の問題があるものか。だからこれはただの思い出話、それ以上でも何でもない、そうだろう? だからそうして眉間に皺を寄せるものじゃない、若い内からそんな痕をつけても、不憫なばかりで少しだっていいことがない。


 そうだな。お前の思っている通り、あの部屋で鳴いていたのは鳩じゃない。吹かない笛が鳴る訳がない。土笛の鳩がただ置かれてどうして鳴くものか、当たり前だろう。お前はただ本棚の鳩を見て、声を聞いて、鳩が鳴いたと思っていた。それだとしても何も困らない、どれもこれもはただ存在する──紛らわしい、と言えばそうだが、それだってお前が勝手にやったことかもしれない。向こうの意図はともあれ、な。

 何が鳴いていたかったら、まあ……候補は幾つかいただろう。それが何かを知ったところでどうにもならない。そうだな、お前の考えている通りだ、というだけで十分だろう。藪をつつく理由がない、委細を穿つ意味がない。


 一度目が合ったろう。

 お前が気まぐれを起こして上を見上げたときだ。ざらざら雨の音が伝う天井近くに、滴りそうな零れそうな溢れそうな有り様のそいつと、目が合ったろう。あれは子供だ。

 あの時はお前、ひっくり返って肘を打ったろう。ちょうど棚の角があって、少し大きい傷になった……ああ、まだ痕になっているのか。今押さえた右の肘、攣れたように肌が着いてしまったからな、寄って見ればそれなりに目立つ。

 理由なんて忘れていたろう、ただの傷だと思っていたろう。けれどもこれで思い出したな、だって俺が覚えていたから。お前の傷も由縁が分かって満足だろう。

 もうこれで忘れないだろう。傷を見るたび思い出せる。あの社宅も、荷物部屋も、薄く光る昼の雨に暈けた暗がりを。


 お前が鳩笛を割り終わる前に、あの社宅を出てしまったからな。父も、母も、勿論お前も起こるはずだった面倒なことには出会えずじまいだ。今でもお前の実家には、名残りの鳩がいるだろうよ。本棚の一段、絨毯の上にただ飾られて鳴くこともない──当たり前だな、ただの土笛なのだから。あれを鳩だと思っていたお前も、そう扱っていた社宅のそれも、もういない。


 どうしてあのとき教えなかったかってのは、何だ……子供の頃にあの部屋に何がいるかを、ということか。父も、母も、俺も、知っていたのに誰も教えなかった理由は何だと。そう聞きたいのか。

 親の気持ちは知らないが、俺の理屈はちゃんと話せる。

 わざわざ怖がらせてやることもないだろう、知ったところでどうにもならない。親どもだって同じだろう。そうしてお前に言うまいと、口を閉ざしてなかったことにし続けて、結果皆が忘れてしまったというだけのことだ。語られないものは忘れられていく、そんなのは俺が言うまでもないだろう。


 疑うような顔をしているな。そんな話に覚えがないと、そんな話は誰もしてくれなかったと、鏡に映る自分の顔がどうにも他人に見えるのを不安に思うような目だ。けれどもどうだ、こうして俺の話を聞いて、それでもまだ思い出せないなんて──そんな愚かなことは言わないだろう、お前。

 他の連中が忘れてしまった話、知らなかった話、なかったことにされた話だ。けれども俺は知っていた。だからこうして教えてやれた。

 どうしてそんな真似ができたかったら、俺がお前の兄だからだよ。

 昔のことも、弟のことも、ちゃんと知っているに決まっているだろう。違うかい、そういうものだろう。


 さて。

 随分長く話したようだが、未だ夜も明けていない。物足りないと詰られそうだが──そうだな、お前も疲れただろう。初めてならば尚更だ。

 それでは今日はここまでだ。お前にはいくらも話したいことがある。けれども一度にずっと話しても、お前も疲れるばかりだろう。それでは意味がない、甲斐がない、それならやるだけろくでもない。

 夜は何度だって来る。焦ることはひとつだってない。だから今夜はこれまでだ。

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