いつかお前の■になり

目々

夢縁:嘆願と算段、並びに雑談

「これは俺がお前の──だった頃の話なんだが、どうか聞いてはくれるだろうか」


 ぶつりと途切れて繋がるその問いは、仄暗い闇に滲む雨音よりも掠れて甘い声だった。

 不躾な手に撫で回されるような生温い薄暗さに満ちた初夏の夜、閉め損ねたカーテンの隙間から覗く闇より黒々とした目で俺をただ見つめるそいつは、当然のような口ぶりで何事かを切り出そうとした。


「あんた誰だ」


 浮かんだ疑問を反射的に口に出せば、そいつは咳き込むような短い笑い声を上げた。


「乱暴だ、短絡だ、けれども大変適切だ。誰で何かということは、全てにおいて最も大切だからな、そうだろう佐倉康貴さくらやすたか、全く道理だ、違いないな」


 やけに芝居がかった言い回しで俺の名前を呼んでから、そいつはぴたりと口を閉じた。目玉だけは逸らされる気配もなく、じっと俺を見つめている。


 本名をフルネームで知られている。親し気な声音で語りかけられている。

 けれども俺は目の前のに全く見覚えがない。


 不審なそれを視界に入れたまま、俺は視線だけで周囲を確認する。自室だ。起き上がったベッドも、足元に縺れた布団も、大学進学を機にこの部屋で暮らし始めたときに買い揃えたものだ。

 PC置き場兼食卓として使用されているローテーブル。とりあえず詰めているだけで分類も整頓もされていない本棚。配信サービスの再生機器として扱われているテレビ。だらしなく閉じ損ねたカーテン。見慣れた部屋はただ夜に満ちている。

 ──夢だろうな。

 この状況をまとめて夢だと判断したかった。なにせ目の前にがいるのだ。一人暮らしの部屋、鍵もチェーンもきちんと掛けて寝ていたはずの自分がいつの間にかベッドに起き上がり、そいつと一対一で顔を合わせているのだ。そんな状況は夢だと判断したいのが人情だろう。

 勿論夢ではない可能性もある──というより、起きたら知らない人間がいたというだけなら、まだ変質者や強盗といった犯罪者の方が状況としてはあり得るだろう。進学のときに家賃と大学への通学時間を第一に借りたこの部屋は、標準的な防犯対策は取られているとはいえ、所詮は学生アパートだ。やろうと思えば侵入して寝込みを襲うぐらいは造作もないだろうとは予想できる。一人暮らしの学生の部屋など漁ったところで大した稼ぎにはならないかもしれないが、取れるところから取るのはどんな商売でも基本だろう。


 けれどもどうしてもこいつが犯罪者の類だとは思えなかった──つまり俺が今この状況が犯罪沙汰人間の仕業であるという可能性を捨てて現状を夢だと判断したのは、


 この表現も正しくない。夜に満ちた部屋の中でも、暗さに慣れた目は徐々に存在の輪郭を捕らえようとする。目がある、鼻もある、口もあるしどうやら笑顔らしい表情を浮かべているのも分かる。なのに、俺にはそれらを顔として認識することができないのだ。

 認識しているのに見えていない、というべきだろうか。例えばこちらを見ている目の印象を言語化しようとすると、どうにも思考が動かなくなる。目がある、白眼と黒目がある、こちらを見ている──それが限界だった。目玉の数も吊り目垂れ目一重二重、目に纏わる情報が一切分からない。明らかに目が合っているのにも関わらず、だ。部屋の暗さのせいにするのはさすがに無理があるだろう。

 性別も、年齢すらも闇に暈けて判断ができない。ベッドの傍らに立つそのなりはどうやら人型に見える。口調と声から辛うじて男なのかもしれない、と曖昧な想像ができるだけだ。


 いつの間にか部屋に侵入していた、何だか分からない誰か。家探しをする様子も殴りかかってくる気配もなく、つまり目的すら判然としない。投げかけられた問いは電波不良のラジオの語りのように欠けている。

 そんなものと対面しているような状況は、夢であるべきだろう。


 黙り込んだままの俺に焦れたのか、それとも待つことに飽きたのだろうか。

 そいつは俺を真っ直ぐに見たまま、ゆっくりと二度頷いてみせた。


「誰だというより何かというより、そうだな、お前の……どれだろうな、どれでもいい。とにかくお前に会ったもので、お前の近くにいたものだよ」

「だから、」


 ぞろりとそいつが動いた。一拍遅れて右腕が上がったのだと理解する。

 死んだ魚の腹のように白い指が目の前に突きつけられた。


「益体もない、甲斐のない、意味のない──ああ、どれがいいかなどれが。ともかくそういうことだから、そこまでにしてくれないか」


 穏やかな、平坦な、冷やかでさえある声だった。

 焦れて吐こうとした怒声は喉に貼り付いてしまい、俺は咳き込みそうになるのをどうにか堪える。

 迂闊な物言いをすれば、取り返しのつかないようなひどい目に遭う。その予感だけを直に脳に差し込まれたような気分だった。

 やけにゆっくりとした動きで、そいつが指を下ろす。そのまま腕を組んで、いかにも何かを考えているとこちらに伝えるように大仰に首を傾げた。


「だとしても、なんにせよ、不実と不義理はとてもよくない。脅したいわけではないからな、そんならただ黙らせても先がない……」


 確認すべき手順を読み上げるように、そいつはぶつぶつと声を夜に落とす。

 濡れた白眼の中で、ずるりと黒目が動いて俺を再び捉えた。


「そうか。俺が何か、誰か、何をしに来たのか。そういうものが分からないのが不安なのだろ、お前」

「──それは、まあ、」

「そうだろう、けれどもそう言われても。何せ俺も未だ知らない。だからお前に頼りに来たのに」


 頼りに来た。

 ふざけたような物言いの中に放り込まれた予想外の言葉に目を瞠る。

 暗闇の中、何もかもが曖昧なそいつがなぜか嬉しそうな顔をしていると分かった。


「頼るったって、俺に何ができると」

「俺に、というかお前にしかできない、俺にはお前しか選べない」

「だから分かるように」

「分かるように話しているな、分かるべきだと思っている。そうだろう、


 氷柱つららを背骨に打ち込まれたような感覚だった。

 指を突きつけられたときよりも凄まじい悪寒が背筋を走った。恐らくこいつは俺を見たのだ。これまでのようにただ目を向けたのではなく、視線と意識を俺に定めたのだ。

 叫び出さないように息を吐く。肺が空になってから、夜を詰め込むように息を吸う。煙草が欲しいと思ったが、取りに行く度胸はなかった。

 努めて呼吸の音だけを聞きながら、どうにか思考を動かす。こいつは俺に危害を加える気はない、何故ならしてほしいことがあるからで、それは俺にしか頼めない。要するに懇願の類ではあるのだろう。立場としては向こうの方が弱い、そう判断していいはずだ。

 ただ──それは必ずしも存在としてのを保証するものではない。先程背を伝った冷ややかな戦慄、その感覚を貼り付けたまま俺は唇を噛んだ。

 そいつはひらひらと右手を振ってみせる。暗闇の中で閃いた指先は不自然なほどにしなやかに揺れた。刃物のようだと考えて、物騒な思い付きからどうにか気を逸らす。

 頷けはしなかった。だからといって首を振るような真似もできなかった。どちらにしても無駄だというのは分かっていた、というのもあった。

 射るようにこちらを見ている目が、数度暗くなった。瞬きをしたのだと少し遅れて理解する。


「ああ──そうだな、言うまでもないから言わずにいたな。約束しよう、俺はお前にひどいことはしない。話を聞いてくれさえすれば、分かってくれさえすれば、何にも手出しはしないんだ」


 声に僅かな色が滲んだ。懐かない猫を呼ぶような、人見知りの親戚の子供をあやすような、卑屈なふりをしているのにどこかしらに自身の優位を疑いもしないような、そんな蕩かすような色だった。

 濡れて軋んだ音が、夜に充ちた部屋に響いた。俺の喉が鳴ったのだと、他人事のように理解する。

 目の前のそいつはがくりと深く頷いて、隙間風のような音を立てた。溜息をついたのかもしれない、と思った。


「いいさ、いいとも、まだそういう目をするだろう。それは仕方がないことだ、そういう目だから甲斐もある、そうだろう?」


 仄白い首が投げ出すように傾げられ、勢いよく元の位置に戻った。

 人間の動作を規格の違うものに調整もしないまま適用したような動きに思えた。


「けれどもどうせ変わらない、お前が選んでくれて構わない。そうして俺は親切だから、あても幾つも示してやろう。そうして好きにすればいい。遠慮することはない、それが功徳と言うものだ」


 鎌の刃のように細められた双眸が、じっと俺を見る。返答を待つような、それでいてひとつきりの言葉だけを求めているような、そんな目だ。

 いかにも話を聞いていますというように頷いているのに、その実こちらの言うことなど何一つとして聞き入れる気などないということがその視線の昏さから分かった。

 何を選べって言うんだ?

 流し込まれた言葉の意図が読み取れない。俺がこいつの何を選べるのか。飲み屋で次の一杯を日本酒とハイボールのどちらにするかをいつまでも悩んでいる先輩に雑なお勧めを提示するようにはいかないだろう。それ以上のことを任されるのは荷が重い。というより他人──目の前のこいつが人間かどうかは限りなく怪しいが──のことに介入するような行儀の悪い真似をしたくない。

 黙り込んだままの俺に向かって、そいつは唇を吊り上げてみせた。

 古びた血の滲むような、朽ちた花の散るような、廃屋の窓を伝う雨のような、そんな笑顔だった。


「何、難しいことは一つもない。


 俺が望むのはそれだけだ、と囁くようにして男が結んだ。

 ──それだけしかできないだろうな。

 諦めではなく、ただそうなのだと理解ができた。夢でも現実でもどちらでも、現状を解決する手段が見当たらない。

 逃げ出そうとは思えなかった。

 それだけは駄目だとばかりに、布団に覆われた足は頑なに動こうとしなかった。


 やけに迂遠で過剰な喋り方ではあるが、こいつの要求は明確だ。

 俺に話を聞いてほしい、ただそれだけのことを延々と繰り返し懇願している。


 雨音の滲む薄闇は既に人肌の温度にまで煮えている。この部屋と俺はまだの底にいる。そうしてこの夜は目の前のこいつが俺に話を聞かせるために誂えたものだとすれば──こいつの望みを叶える話を聞くまでは、夢から、この得体のしれない存在から逃れる術はないのだろう。

 雨曝しの墓石のように黒々とした目を見返しながら、俺はそんなことを思った。

 縋るように布団を握る。薄いタオルケットはざらざらと手のひらを撫でた。


「……じゃあ、話せよ。俺が、聞いてやるから」

「そうか。──そうか、そうしてくれるのか」


 やはりお前は物の道理が分かっていると満足げな嘯きと共に、軋むような音が聞こえた。爬虫類の腹じみて白々とした喉が上下しているあたり、恐らくは笑ったのだろう。双眸はいよいよ研がれた刃物のように細くなった。


「俺の頼みだ、お前の厚意だ、それが何よりありがたい──それでは始めよう、昔の話で、俺の話で、そうしていつかのお前の話だ」


 始まった語りを前に、俺はただ聞く。そうしろとこいつが望む以上、それに応えたからには、そうするべきだと思ったからだ。どのみち夢の覚める終わるまでは、足掻く術すらないのだから。


 何もかもが闇に暈けるその中で、そいつの口が傷のように赤々と開いた。

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