第4話
翌日の放課後、僕は宣言通り音楽室を訪れていた。
「まさか本当に来るとはね」
橘は半分呆れた顔で僕を見て、昨日と同じようにピアノの前に座る。
冬の音楽室は、意外と暖房が効いていてそこまで寒くはない。ただ大きな窓の向こうに広がる痩せた木々、閑散とした校庭なんかを一望すると今は冬なんだな、と漠然と実感する。
「もうすぐ冬休みだね」
「ああ、うん」
「橘は冬休みも学校来るの?」
何気なく聞いてみると、彼女はしかめっ面をして見せた。
「まさか。学校来てるついでに放課後音楽室借りてるってだけだから。ただでさえこんな寒いなか学校来るの億劫なのに、ピアノのためだけにここに来たりしないよ」
笑って橘は答える。言われてみればそれもそうだ。冬休みにわざわざ学校に来るなんて馬鹿のすること……。
橘が冬休みもここでピアノを弾くのなら、来ようとでも思っていたんだろうか、僕は。
「……まあ、それもそうか」
「もしかして、二週間も私のピアノから離れるのが寂しい?」
僕は思わず彼女の顔を見た。橘は面白そうな顔をしている。……そうかも、なんて言葉が僕の口から自然に出てくることはなかった。
「なんてね、冗談だよ」
橘はそう言ったあと、ふわぁとひとつ大きなあくびをする。
「そう言えばさ、昨日の面談どうだった? やっぱり進路のこと聞かれた?」
話の方向が変わったことにどこかほっとしている自分がいる。橘がこういうさっぱりはっきりした性格でよかった、と思っている自分も。何様なんだろう。
「まぁ、それなりに」
「やっぱりかー、めんどくさいなあ面談って」
僕は「岡崎」という苗字なので、出席番号順に行われる担任との二者面談では彼女の面談より何日か順番が早かった。何を聞かれたか情報提供していると、彼女は文字通りつまらなさそうな顔で言う。
「すでに進路決まってるから、相談とかいらないんだよね」
「ああ……やっぱり音大とか?」
「そう、ピアノ専攻。そう言う岡崎くんは? もう進路決まってたりするの?」
僕は口ごもる。唇が凍ったように動かない。冬の寒さを言い訳にできないことは、自分の中でとっくに気付いていた。だけど、また頭の中にある言葉を、思いをうまく吐き出せない。まただ。僕は結局、
「まだはっきりとは決めてない」
とごまかした。そんな自分にとことん嫌気がさす。
「ふーん、そうなんだ。まぁ、まだ一年の冬だしね~。って言っても来年の夏ごろには進路決めてないといろいろ言われそうだね」
「…………うん、まぁそれまでには考えるよ」
「のんきだなー」
彼女はけらけら笑った。のんき、とかじゃない。それよりもっとタチの悪い、ただの意気地なしだ。自分の未来に自信も希望も持てない意気地なし。僕は、弱い。
「橘はすごいな」
ふと、思ったことがそのまま口からこぼれ落ちた。そう言ってしまってから自分の言動にびっくりして、僕は思わず口元を手で押さえる。
「ええ、どうして? すごくないよ何も」
橘はまたまたぁ、と軽い調子で受け流している。いつも自分の気持ちを言い出せないくせに、何でこういうときばっかりぽろっと吐き出すんだよ、と自分にくぎを刺しながら、橘になんと言葉を返そうか悩んでしまう。「ピアノが弾けるところ」と答えようとしたけど、それをわざわざここで言うのは不自然な気がしてならない。
迷った挙句、僕は観念して本当のことを言うことにした。
「ちゃんと自分で自分の未来決めてて。僕は未来なんかどうでもいいって思ってて、どうなりたいとかもあんまり……ないしさ。やりたいことに自信が持てなくて、だからいつも言いたいことを言えなくて黙るし…………」
そこまで言ってから、あれ? と僕は思った。僕はいま、何を言ったんだろう。
「やりたいことはもう決まってるんだ?」
僕が見せたその隙を、鋭い橘が逃してくれるはずがなかった。橘はいつの間に椅子から立ち上がり、僕の目の前に立っている。
僕は「あ……いや、」と口ごもった。目を合わせられなくて、軽く俯く。
「なになに、何隠してるの~? 私に言ってごらん?」
「ぼく、は」
「うんうん」
その時何か。何か……今まで言葉をずっとせき止めていた防波堤みたいなものが喉の奥で決壊して。
そしてぐちゃぐちゃに濁った感情の塊が、勢いつけて口から飛び出してきた。
「……小説家になりたいんだ!」
室外に飽和する冬の静寂が音楽室の壁を貫通して、浸透する。自分の心臓の鼓動以外は、何も聞こえなくなった。
え? 僕、僕いま、なんて言ったんだ?
急に足に力が入らなくなって、膝ががくんっと抜けた。
「あっ……、」
立ってられない。僕、今、何を言ったんだ。だってまだここで会うようになってたった二日だぞ? 信じられない。
ダサい。醜い。情けない。
僕、女の子より女々しいんじゃないのか。だっていま目の前にいる女の子は、その両足を地につけてまっすぐ立っているんだから。僕みたいに、自分の未来に自信が持てないような人間じゃなくて、もっとまっすぐで、したたかで、
「うらやましいな…………」
か細い声で、それこそ自分以外の誰にも聞こえないだろうっていう声で言葉をこぼす。誰に充てるわけでもなく。きっと心の真ん中の、何も加工されてないまっさらな本音だ。僕、こんなに本音をボロボロこぼすような人間だったか。
「岡崎くん」
声が。彼女の声が聞こえた、と思って顔を上げたら、目の前にはしゃがんで僕と目線を合わせている橘の姿があった。
慌てて目をそらす。僕はドキドキした。引かれたかも、と。小説家になりたいっていうことは。それは小説を書く人間だってことで。それは、世間からは白い目で見られたりする人間だってことで。
「引いた?」
よね、
「引いた、よね。小説家になりたいだなんて」
そうに決まってる。
「だって普通の人間は、小説なんか書かないでまじめに生きてる。中学の頃、同級生に言われたんだ。小説を書くなんて、現実逃避したい奴がすることだ、って」
そうだ。現実がままならないから、妄想の中に逃げ込んでるだけ。
「ごめん、キモいよね。引いたでしょ」
小説家になりたい、なんて。
恥ずかしくないのかって。
「岡崎くん、こっち見て」
言われるがまま、ゆっくりと彼女の方を見る。その目はいつになく真剣で、僕は何を思えばいいのか分からなかった。
彼女の言葉を待っていた。そしたら彼女はゆっくりと口を開いて、
「待ってるから、いつかデビューしたら報告してね。私、岡崎くんの本買う」
笑った。
「えっ……」
「あ、せっかくだしサインも欲しいな! ねえ、その時は書いてね? 高校時代の友達としてさ、」
どうして、とかもうどうでもよくなって。
嬉しい、とか名前を付けるのも馬鹿らしくなって。
僕は、僕の中にあるこの気持ちの名前をまだ知らない。
「うん、……うん、ぜったいサイン書くよ」
涙を流すほど弱虫でもいられなくて。
僕も笑った。彼女につられて、
二人で笑った。
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