『幻想即興曲』
第5話
窓越しでも、その太陽のジリジリと照り付けていることが肌を焼かれるように直感できた。季節は夏。僕らは高校二年生になった。二年生になっても僕たちは相変わらず同じクラスの生徒だった。
「すずし~、音楽室サイコー!」
僕たちの着る制服も冬服から涼しげな夏服へと変わり、彼女のセーラー服の裾からのぞく無防備な白い肌がまぶしく光る。
「ねぇ、律」
名前を呼ばれる。お互いに名字で呼んでいたのが、下の名前で呼びあうようになったのはいつ頃からだっただろうか……そう思いながら僕は窓の方にそらしていた視線を彼女へと向けた。
「『アレ』、読ませてくれる気になった?」
美音はいたずらっぽく笑って僕を見る。僕は彼女の口から出た言葉、『アレ』の存在を頭に思い浮かべた。そしていいや、と頭の中でかぶりを振る。
「まさか。まだ書き終わってもないし」
「えー。途中まででもいいからさぁ」
食い下がる彼女を横目に、僕は再び窓の方に視線をやった。蝉の鳴き声が、炭酸の泡のはじける音のようにしゅわしゅわしゅわと街全体を包んでいる。夏の盛り、土曜日の校舎内は季節感にそぐわぬ静けさで、遠くから蝉の声と部活動に励むたくましい生徒たちの掛け声が届くだけだ。
真夏の喧騒から隔離されているみたいに、僕らの立っている空間は誰にも侵犯しようのないものだった。
「ちょっと、聞いてるー? ぜったい聞いてないよね」
「聞いてるよ。隣の市の水族館で子アザラシが生まれたってニュースね、僕も今朝そのニュース見た」
「ぜったいに聞いてなーい! そんな拡張性のない話するわけないでしょ!?」
「そう? 可愛くない、子アザラシ?」
「可愛いか可愛くないかで言えば、可愛い。……て、そうじゃないんだってば!」
わんわんと犬みたいに喚く彼女を見て、僕はおもしろがって笑い転げた。「はーおなかいたい、」って笑いすぎて出てきた涙を何度も拭いながら。
僕はあの冬、自分の本音を彼女に吐露してから。それまで手をつけることさえ少なくなっていた小説の執筆を再開していた。長いことまともに書いていないとその感覚はやはり腐っていくもので、小説を書くことを純粋に楽しんでいた頃とは比べ物にならないほど執筆のスピードが落ちていた。それでも久々に言葉を紡ぐことの楽しさを再認識し、冬から半年たったこの夏も、僕はしばらく小説を書いていた。もちろん意気地なしなのは一朝一夕の心の動きで変わるはずもなく、小説を書いていることを知っているのは美音ただ一人だけだ。
だけどあの冬から成長したこともあって、それは──。
「律っていつオープンキャンパス行くんだっけ?」
「来週、夏休みの直前だよ。文学系の学問が有名な大学でいちばん気になってるところだから、今のところはそこが第一志望かなって思ってる」
それは自分の進路をはっきりと定めたことだ。親や教師に「小説家になりたい」とはっきり言えたわけではないが、「文学に興味がある」と伝えてそのあたりの学部を志すことを決めた。本当の自分をひた隠しにして自分のやりたいことにすら自信が持てなかったあの頃の僕に比べれば、それは確かな前進と言える。
「そっかー。ああもう夏休みか~。あんなに待ち焦がれてたのに、時間が過ぎるのは早いね」
「どうせこの調子で夏休み自体も一瞬で過ぎ去ってくんだよ。……美音は夏休み、」
「また『学校来るのか』って聞きたいの?」
美音にぴし、と指をさされて、僕はハッとする。……そうだ、たしか半年前の冬休み前も、僕は彼女に同じことを聞いた。「冬休みに学校に来るのか」って。
きっとこうやって同じ質問を繰り返してしまうのは、それだけ僕が望んでいるからだ。美音のピアノを、一秒でも長く聴いていたいと。あの時も今も、全く変わってないこともあるんだな、と僕はわずかばかりの感傷に浸る。
「来るよ、学校」
「え、」
僕は美音のその回答に驚いた。いや、自分で質問をしておきながらそれはおかしいのだけれど。だって去年の冬彼女は、休みにわざわざ学校に来るなんて嫌だって言っていたから。てっきり今年もその考えは変わらないものだと思っていた。それならなおさら、どうしてそんなことを聞こうとしたんだと自身に問うべきだと思えてならない。
「まぁ、来る理由が増えたしね、ピアノ以外にも」
「え? それって──」
僕が「どういうこと?」と聞く前に、彼女は流れるような動作で椅子に座る。いつもの彼女の定位置だ。この音楽室において彼女は常に、コンサートホールのステージに立つピアニスト。彼女に、ピアノの前以外に座る椅子は用意されていない。
一度目を閉じてゆっくりと開いてみたときに、突然彼女をその椅子に縛りつける糸のようなものが見えた気がした。驚いて慌てて目をこすってみるが、もうその糸は見えなくなっていた。いったい何が、僕にその一瞬の糸を見せたのだろう。答えは絶対に見つからないなと思って、僕はふっと軽くため息をついた。
「次のコンクールでは、『幻想即興曲』を弾くんだ」
僕のほんのわずかな憂いに美音は気づかないまま、鍵盤を眺めながらそんなことを言った。
「え、っと……?」
「『幻想即興曲』。ショパンが作曲したの。ショパンも、さすがに聞いたことあるでしょ?」
「あー、あれだ」
僕はショパンと結びつく数少ない記憶の因子を手繰り寄せて引っ張り出す。
「『子犬のワルツ』の人?」
「そうそう、その人。でもその曲と彼を結び付けてるなら、『幻想即興曲』を聞いたらびっくりするかもね」
彼女は不敵な笑みをこぼして、鍵盤に両手を這わせた。そのピアノを弾き始めるときの手のしなやかな動きに、いつも僕は惹かれてしまう。
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