第3話

「どうしたの、そんな息切らして」

 約束の時間の数分前になんとか教室にたどり着き、僕は膝に手をついてぜえはあと盛大に息切れしていた。

 それを見た担任の橋井はしい先生は驚いた様子で固まっている。

「すいません……ちょっと……、走ってきました……」

「随分アクティブな登場の仕方ね……」

 彼女はくすっと笑う、と言うよりかはほぼ苦笑して、僕に目の前の席に掛けるよう促した。

「さて、岡崎りつくん。面談を始めます」

「は、はい」

 椅子に座って、先生の声を合図にぴしりと背を伸ばす。

「岡崎くんは、何系の学問に興味があるんだっけ?」

 先生は僕の進路調査資料を探しているのか、ファイリングされた何十枚という書類をパラパラとめくっていた。その様子を眺めながら僕は何かを言おうとして。

 だけど急に頭の中が真っ白になって、いや、頭の中に浮かぶ言葉はたったひとつだったけれど、それがうまく口から出てこなかった。

「……まだ、迷ってます」


 面談を終えて家に帰った僕は、自室のパソコンであることについて調べていた。

 曲名はピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 『幻想曲風ソナタ』。主に第一楽章を中心に『月光』と通称される。

 彼女の、橘美音の奏でるあの旋律を耳にしてから、僕はその音を頭の隅に追いやることができなかった。

 頭の中でおぼろげながらに旋律を流してみる。目を閉じれば、瞼の裏に夜の月の淡い輪郭が浮かぶようだ。

 調べたところ、この『月光』という曲名は正式名称ではなく、ドイツの詩人ルートヴィヒ・レルシュタープが第一楽章を「スイスのルツェルン湖の月夜の波に揺らぐ小舟のよう」と形容したことばに由来しているらしい。のち、この曲は本来の名称である『幻想曲風ソナタ』ではなく『月光ソナタ』という通称で広く知られるようになる。

 インターネットで得た情報によると、ベートーヴェンはその通称を気に入っていなかったようだ。だがレルシュタープの喩えはまさにこの曲のイメージに合致していると思った。荘厳でいて美しく、もの悲しい音色は、不思議と夜の月の歪な光を思い起こさせる。

 橘が言っていた気がするけど、ベートーヴェンはこの曲を結ばれなかった想い人に贈ったらしい。ジュリエッタ・グイッチャルディという伯爵令嬢。彼らは身分の違いにより、互いを思いあっていても結ばれることはなかった。

 この暗く、哀しげな旋律はベートーヴェンのやり場のない想いから生まれているのだろうか……。

 たまたま見つけた月光の演奏動画を再生して、調べたことを脳裏に思い浮かべながら聞いてみる。そして気づく。僕は『月光』に心奪われたと言うよりは、橘美音の演奏する『月光』に魅せられたんだろう、と。

 彼女の音とその他の演奏動画を比較して、素人ながらに感じたことがある。彼女の弾く『月光』は、重苦しくない。『月光』は短調であって、そのメロディはいかにも絶望の二文字を張り付けているように思う。だけど彼女のピアノはどこか違った。絶望はあれど、その中に希望の光が──それこそ月のように淡く穏やかな光がたたずんでいるように思うのだ。

 それは僕の錯覚か、思い違いなのかもしれない。それでも、直感的にそう感じてしまった以上、僕は再生していた演奏動画をそれ以上聴く意味がなくなってしまった。

 母親に「夕食だ」と呼ばれ、けだるげな返事をしてからパソコンの電源を落とし

 て、僕は部屋をあとにした。

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