第2話

 CDデッキの「再生/停止」ボタンをかちりと押し込んで、橘は流れていたその曲を止めた。

「ピアノ教室の先生が演奏した音源を聴いてたの。本当は手元が見える動画が欲しいって言ったんだけど、先生は恥ずかしいから動画を撮られるのは嫌なんだって」

 苦笑まじりに言ってから彼女はピアノの前に座り、鍵盤の蓋を押し上げた。

 白と黒の規則的な羅列が姿を現して、その美しさに僕はごくりと息を飲む。

「『月光』って聞いたことある?」

 彼女は姿勢をすっと正してから、立ちすくむ僕の方を見て言った。その横顔とも正面ともとれない顔は、彼女のミステリアスな表情から真意を読み取ることを妨げるのには絶妙だった。

「いや、初めて」

「そっか。けっこう有名な曲なんだけど、知らない人も多いよね」

 橘は視線を鍵盤の上に落とした。その長いまつ毛の下に隠れる瞳は柔らかな光を真下の芸術に注いでいる。

「ベートーヴェンは知ってるでしょ? 彼が当時の想い人──まあ、結局その恋はかなわなかったんだけど、その相手に贈ったとされる曲なんだ」

「へえ」

 彼女は鍵盤を右手で優しくそっと撫でる。その手つきに夢中になって、僕は彼女の話を片耳でしか聞いていなかったと思う。

「まぁ、聴いてみてよ」

 彼女は一瞬だけ笑って、そのあとすぐに瞳の色を変えた。先ほどの柔らかい印象とは打って変わって、彼女の瞳は冴えている。ここまで変わるものなのか、と僕は彼女がピアノに懸けているのであろう何かを垣間見た気持ちになった。


 すぅ、と深く短い呼吸音の後に、音が流れ始めた。……いや、流れたんじゃない。溢れたんだ。この真っ黒なグランドピアノから今、音の奔流が僕を呑み込もうとしている。

 その音色は一言ではとても表しきれない不思議な力を持っていた。音楽番組で流れる似た通ったかでありふれたメロディとは比べ物にならない、圧倒的な引力。こんなに静謐で神秘的なのに、僕の心臓を掴むばかりか音の深淵に引きずり込もうとしてくる。

 さらにその音に抵抗する術を僕は一切持っていなかった。あるいは仮に持っていたとしても、そのどれもが役に立たなかったと言ってもいい。例えようのない音の神秘性に呑み込まれ、僕は何をすることもできなくて、その場に立ちすくんでいた。

 音楽、ましてクラシックを聴いてこんな気持ちになったのは初めてだ。まるでピアノから声が聞こえてくるかのような。そんなリアルで限りなく幻想的な体験がいま目の前で起きている。

 旋律は暗い夜のように深く、悲しく、絶望的な音色だ。だけれども、彼女の口からこぼれた『月光』というその曲名まさしく、確かに見える。暗い夜の底にさす一筋の月明かり。決して明るくはないがたしかに存在している。その穏やかな慈雨のごとき光が僕の目には確かに見える。

 絶望の中に、希望が仄かに輝いているのだ。不思議な感じがする。時間だけが静かに流れて、乾いた痛みもすべて奪い去っていってしまうような、温もりがある。


 曲を弾き終えた彼女は閉じていた目をそっと開けてから僕を見た。

 見るなり、その目をぎょっと大きく見開く。

「えっ、泣いてる!? どうして泣いてるの、何かあった?」

「…………あ」

 彼女に言われて頬の湿った感触に気付く。僕は知らずのうちに涙を流してしまったらしい。それは感動とは決して言い難い、むしろ僕の心は静かに静かにぎゅうぎゅう押しつぶされて、息もできないほどに苦しくなっていた。この気持ちの名前を、僕はまだ知らない。

「……本当だ、なんでだろう」

 本当に理由がわからなくて、でもこれがただの感動でないことだけは確信していて、僕は自分の気持ちがよく分からなくなっていた。音楽を聴いて泣くなんて初めてのことで、いまだ実感が湧かない。上手に涙を抑える方法も知らず、目の前で橘が慌てているというのにぽろぽろ雫を流してやまなくなってしまう。

 ──心が、優しく壊されていくみたいだ。

 つぎはぎだらけで、見てくれも不格好な僕のこの心が。橘の奏でた音色によって。『月光』という、曲によって。

「理由は分からないけど。分からない、けど」

 なんとなく、救われた気がする。

「…………よく分かんないけど、いい演奏だったってとらえてもいい?」

 いつの間に僕のすぐそばに立っていた橘が、僕の顔を覗き込んでそう言った。

「ふふ、ひどい顔」

「……うるさいな」

 僕が目元をこすりながら顔を背けると、彼女は愉快そうにふふふっと笑う。

「聴いてくれてありがとう。最近はずっと一人で練習してるだけだったから、退屈してたんだ。岡崎くんが来てくれてよかったぁ。やっぱり人に聴かせてあげられるっていいもんだね。一人で弾くよりよっぽど楽しいや」

「毎日ここでピアノ弾いてるの?」

「そうだよー、コンクールが近いんだ」

 放課後はいつも用事がなければすぐに帰ってしまうから、気づかなかった。今日はたまたま担任との二者面談があったから残っていただけで──。

「……あっ」

「ん、どうした?」

 僕はそこで、思い出した。

「今日、先生との面談があるんだった」

 そうだ、この音楽……『月光』に誘われて、すっかりその存在を忘れていた。僕が今日学校に残っていたのは、先生との面談があるためだった。

「ごめん、橘。僕もう行かなきゃ」

「えっ? あ、ちょっと」

「ピアノ聞かせてくれてありがとう、明日も聞きに来るから!」

 僕は早口に彼女に別れを告げて、音楽室を足早に去る。

「う、うん! ……明日、も?」

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