戦慄
夜海ルネ
『月光』
第1話
僕の通う高校は三学期制で、もう二学期も終わりに差し掛かっていた。担任との二者面談を放課後に控えた僕は、特にすることもなく教室の自分の席でぼーっと暇を持て余していた。
教科によっては冬休みの課題が配られているものもあったけど、そのどれも家にあるなどして自分の手元にはなかった。お気に入りの小説は数少ないクラスの友人に貸してしまって、僕は本当に面談までの待ち時間をつぶす方法をなにひとつ持っていなかった。
それじゃあ図書室に行って読書でもすればいいやと思っていたのだが、学期末ともなれば図書室は閉館中。本当に運がなくて、あと小一時間ほど誰もいない教室で時間をつぶさなければいけなかった。
はぁ、とため息をつくと窓にもやぁ、とくもりが広がる。幼い子供のように窓に指をつけてつう、と線を一筋描いてみる。バカみたいだって思ったけど、伝える相手もいないから独り言ちさえしなかった。
その時、どこからともなく音楽が聞こえてきた。お世辞にも明るいとは言えない。だけど幻想的で、うまく形容できない音色だ。しばらくぼんやり聞いていて、ピアノの音色だろうか、と気づいた。思えばその音は、自分のいる教室と同じ階の最奥、東側に位置する音楽室の方から聞こえてくるようだ。
誰が弾いているんだろう。純粋に気になった。音楽の先生かなと思ったけど、あの派手で声の大きな女性の先生はたしか非常勤講師で、この放課後に校舎には残っていないだろうとかぶりをふる。
なら生徒だろうか。同学年か、先輩か。知り合いか、初対面か。男子か、女子か。気になる。そして僕は、のそりと椅子から立ち上がった。ぐ、と控えめに伸びをして、教室を出る。
廊下を一歩一歩進んでいくたびに、音の波は強く、はっきりと僕の耳に届いてくる。強いのに優しい音色だ。不思議な感じがする。
そして音楽室の前にたどり着いた。僕とピアノの音色を隔てる障壁は、目の前に鎮座する建付けの悪い木製の引き戸一枚だけとなった。
ここまできて僕は、少し怖気づいた。ピアノの音色に引っ張られるようにして音楽室の目の前に来たけど、全然知らない人がピアノを弾いていたとして僕が急に扉を開けて「やあこんにちは、君のピアノに惹かれてここまでやってきたんだ」などと宣言しようものなら、次の日には僕は学校中の笑いものになっていることだろう。ドアに手をかけて、その手を引っ込めて。そんなことを数回繰り返す。こんなの不審者だ。
……そういえば先ほどから、聞こえてくるのはずっと同じ曲のような気がする。そんなに長い曲なのかと思ったが、同じフレーズを数度耳にしているのでこれはきっと同じ曲を繰り返し弾いているのだなと思った。こんなに暗い雰囲気の曲を何度も弾くなんて相当な物好きなんだろうか、とやはり僕は音楽室に入るのを躊躇っていた。
「
その時、背後から声がした。振り返ると、そこには女子生徒が立っている。その人とは面識があった。
僕は人の顔と名前を覚えるのは割と得意な方だ。だから彼女の名前も、顔を見た瞬間にすぐに分かった。
同学年の、知り合いの、女子生徒。同じクラスの橘美音だ。
彼女はクラスの中でも、その明るい性格からみんなに好かれている存在だと思う。よくある少女漫画のヒロイン、なんて安っぽい形容をしたら怒られるだろうか。
「ああ、いや。別に用事はないよ。ずっとピアノが聞こえるから、誰かが弾いてるのかなと思って」
彼女と口を交わしたのは移動教室で席が隣になった時ぐらいだったので、ふだん話し慣れていない人との会話に僕は多少緊張しながら言葉を返した。
彼女はふーん、と言いながら僕のほうに歩いてきて、こう囁く。
「今、音楽室には誰もいないよ」
「へっ?」
僕はその場で凍り付いたように身を固めた。寒いからってわけじゃない。音楽室に誰もいないなら、どうして中からピアノの音が聞こえるんだ? その疑問から、ある信じられない可能性にたどり着いてしまったからだ。
「じゃ、じゃあなんで音が聞こえて」
「……音って、なんの?」
おいおい、冗談はやめてくれよ。と僕は半笑いで、だが明らかに体温は下がっていく。いやまさか。嘘だろ。僕は、幽霊の──。
「……ふ、ふふっ、真に受けすぎでしょ。冗談だよ」
完全に肝を冷やした僕はその場で踵を返して逃げようかと思った。がその時、彼女が急にふっと笑い出した。
「もしかして幽霊がいるって思った? 思ったでしょ」
「いや、だって中に誰もいないって」
「いないよ。でもこの音は、CDデッキで流してるだけ。私さっきまでここで曲流してたんだけど、お手洗い行くのにわざわざ音楽止めるの面倒でさ。だからずっと流してただけだよ」
僕が唖然としている隣で、彼女は淡々と状況説明をしていった。そして同時に扉を開けて、机の上に置かれたCDデッキを「ほらね」とでも言わんばかりに指し示す。
「もう……もう、なんなんだよ……焦ったあ……」
「ふふふっ、イタズラが過ぎたかな? ごめんね」
彼女にからかわれたということよりもなかなか体験することのない心霊現象への恐怖が勝ってしまい、僕は上手に何かを言い返すことができなかった。こういうものに、僕はめっぽう弱いらしい。今日はひとつ僕自身に関する知見を得た。
「それで結局何しに来たんだっけ、岡崎くんは」
彼女は首を傾げてさらっと何でもないことのように尋ねる。
「ああ、誰がピアノを弾いてるのかなって気になったんだ。まあその正体はCDデッキだったけど」
僕は疲れた顔でぼそりとつぶやく。それに対して、彼女は何が面白いのかにこにこしながらこう言った。
「あはは、なるほどね。それじゃあ驚かせちゃったお詫びに、聞いてく? 私の『月光』」
その時僕は、一瞬の静寂を聞いた。彼女の口からその『月光』という音を耳にしたとき、それが何なのかは全く分からず、だが自分の口からその正体を聞き返すことはしなかった。実際にはできなかった、のほうが正しい。
ほんのわずかな静寂ののち、『月光』という音がぴたり、と。音楽室の中に流れるその暗い夜のような旋律にぴたり、と。まるでシンデレラのガラスの靴のように、一寸の隙も許すことなく、完全に合致したのだ。その音色に名前を付けるのなら、それは間違いなく彼女の発した『月光』という音なんだろう。そう、僕は確信した。
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