チャイニーズナイト 快速服務
井荻のあたり
ライク ア バージン
1994年12月。
中国のとある町。
「今日、深夜未明のわずかな時間、ある特別列車がこの町の駅に停まる」
「そ、それってまさかスリーナ……」
「シッ。兄ちゃん、チケットはこれだぜ」
などという繊細なやり取りをぼくが中国語で行えるわけもなく、ただ単に駅の時刻表で確認した列車の切符を窓口で購入しただけなのだが、ぼくは夜行列車に乗るため、その町の鉄道駅にやってきていた。
もう30年も前のことだから、いくら中国といえど、その町を特定して人々を駆逐するなんてことは起きないと思うけど、でも中国なのでやっぱり心配だから詳細な情報は伏せておきたい。
深夜と呼べる時間帯に一人で大きな鉄道駅にいるなんて、ましてや駅前広場で姿をさらすなんてことは、たとえ日本国内であっても絶対に避けるべき危険行為だ(あっという間に、カツアゲしようなんて
若さが冒険心を狂おしいまでに搔き立てていた。
駅舎の柱の陰から広場を見ると、軍服姿の若者たちがぽつぽつとあちらこちらに立っている。そこに、当時の日本のOLさんさながらにボディコンスーツを着た若いお姉さんたちが、近寄って行っては少しの間おしゃべりしていた。
中国ってさ、社会主義だから売春婦なんていないのだ、なんてよく聞いた話だけれど、あれ、あのお姉ちゃんたち……売春婦だよなぁ。
お姉ちゃんの一人が親指と人差し指で丸を作るところが見えた。軍服男は首を横に振っている。あの手のサイン、3てこと。たぶん30元と言われて男は断った。当時、都市部の工場で8時間働いた日当が15元あったかなかったかのはずだから、そう考えると日当の2倍となる。売春婦の相場って肉体労働賃金の倍からなのって、日本もそんな感じじゃなかったかな、知らんけど。
ということで、あのサインはたぶん30元。売春で間違いないと思うのだ。
(ちなみに当時の中国のお金には人民元と外人兌換券の二種類があって、外国人は外人兌換券を使わなければならないことになっていた。だからぼくたちが合法的に入手できるのは外人兌換券で、当時1元約20円。人民元の価値はその半分の10円だったから、この100%アップという差に、巨大なブラックマーケットが存在するのは必然だった。それはさておき、8時間の工場労働が当時のレートで約150円。売春の相場300円。それがその頃の中国だ)
次々に軍服の若者に声をかけているお姉ちゃんたちを観察しているぼくに、お姉ちゃんの一人が近づいてきた。にこにこと愛想よく何か話しかけられたが、中国語などわからない。
「チンプドン、カンプドン」とぼくは答える。
ティン(チン)が聞く? カンは観光の観なのかな? ドン、が解るという意味でそれに不(プ)をかぶせてプドンで「わからない」。
聞いてわからないチンプドン、見てわからないカンプドン。聞いても見てもわからなければ、チンプドンカンプドン、で、全然わからん。
「チンプドンカンプドン? ククク。あなたどこから来たの?」
「我、是、日本人だよ」
「へー、日本人? 初めて見たわ」
(これくらいまでのやり取りなら何十回も経験するからわかる)
お姉ちゃんは楽しそうに笑って「ライライ」と手招きした。
おお! 来々軒のライライだ。これは初めて聞いた。ぼくも楽しい。
お姉ちゃんについて行ってみることにした。
狭い路地が入り組んで、しかしひたすら小さな商店の軒先が続いている。路地中に張り巡らされた裸電球の明かりが、闇夜の世界を煌々と浮かび上がらせていた。深夜というのに開いている小さな店がぽつぽつとある。不思議な空間。不思議すぎて、お姉ちゃんの後ろをついていったことも理由と思うが、どこをどう通ったのか全然記憶に残っていかない。幻想の世界をふわふわと歩いているようだ。
「ここよ。ライライ」
建物の外観は、ぼくの中では西遊記で
すでにこのお姉ちゃんが日本人を連れてきたという情報は、内部に伝わっているのだろう。大部屋には
学校とか公民館とかにあるような長テーブルの前、パイプ椅子に座れという。ぼくの正面に、エースらしき賢く腕っぷしも強そうなアニキが座る。左右もオジサマやワカイモンが囲んで座る。
テーブルには紙とボールペンが用意され、漢字の筆談でのやりとりが始まった。
うん、さらっと書いてはいるが、これはすでに命がけの駆け引きに突入している。彼らにしてみれば最初からラストカードを切ってもよいのだ。ぼくの存在など闇から闇だ。ネギも鍋もコンロまで背負い、塩コショウどころか羽まで自分でむしった鴨が、のこのこと自分で厨房までやってきている。筆談に付き合ってくれたのは、初めて見る日本人を面白がっての、ちょっとした余興に過ぎない。
「あんた、本当に日本人なのか?」
「是。我是日本人」
「なぜ中国に来た?」
「我、欲、知、道教的房中術(仙人になるためのさ、ハウツーセックスが知りたいのです)」
ちょっとオジサマたちがクスッとなった。
「
「多少銭(いくらなの)?」
「100元でどうだ」
ほう、広場で見た最初の言い値が30元だから(実際はもうちょっと安く値切れるだろうが)、100元と言ってきたのはどういうつもりだ? ぼくなんかぶっ殺して根こそぎ取ってもいいところ、100元なんて、ずいぶん刻んでくるではないか。遊んでるなぁ。
「我要至火车站(でもぼくね、鉄道駅に行かなくちゃ)」
列車は火车、電車は电车、汽车だと自動車。この车っていう字、手書き文字だとわかりやすいが、牛だよね、牛。牛に屋根ついてんのが車なの。
「まぁまぁ。若くてピッチピチが選り取り見取りだぞ。この娘はどうだ」
「是、ぴゃおりゃん(うん、きれいだね)」
「じゃ、この娘はどうだ。とっておきだぜ」
「
高校生くらいの女の子たち、マジでかわいい。今夜がデビュー戦って感じの初々しく緊張している
「日本人来てるんだってぇー?」
どれどれー? とはしゃぎながら飛び込んできて、アニキにじろりと無言で睨まれ、肩をすぼめて舌を出しながらすごすごと、でもちらりと横目でぼくを覗き見ながら部屋を出て行ったちょっとお姉さんなあの娘とか、とにかく日本人に興味津々な女の子たちが次々に覗きに来るのがホントかわいい。100元ね、千円ね。
(だが断る)
だってさぁ、たとえば「いただきまーす」と言ったとしようよ。で、裸になってるとこに踏み込まれたら完全に終わっちゃうでしょう? 文字通り、こんなところで裸になるわけにはいかんのよ。
ぼくを連れてきたお姉ちゃんが「あんたポケット膨らんでるじゃないの。いっぱいお金あるんでしょ!」みたいにちょっと切れた。
ああ、これ? 衛生紙(トイレットペーパー)だよ。
これは緊急事態に備えて「我的胃腸虚弱」ゆえ。
お姉ちゃんは怒って席を立ったが、オジサマたちは少し笑った。
「あ、そうだ。ちょっとトイレいいかな」
ぼくは小便するため席を立ち、隠し持っている現金から、お札の種類と金額をいくらか分けて右のポケットにいくら、左にいくら、後ろにいくらと振り分ける。
まだどう使うかはわからないが、例えばその頃のアメリカでは常にポケットに20ドル札を入れておけと言われていた。路上で強盗にあった時に投げ捨てて逃げるための20ドル札。多くても少なくてもだめだという。10ドルでは「ヤクが買えねぇ」舐めんじゃねぇと殺される。100ドルでは殺して盗る価値ありと判断されて殺される。50ドルもダメ。20ドルじゃなきゃ。20ドルがちょうどいい。
さて、この場を切り抜けるための最適解はいったいいくらだ? できれば五体満足、平和に生きて帰りたい。
席に戻って交渉再開。
「我要乗深夜火车」
「何時火车発?」
アニキはまだこの筆談に付き合ってくれてる。けっこう優しい?
「〇時〇分。故に我無し時間」
アニキ「我ら有、快速服務」
あははー!
か、快速サービス有りだって! ぼくは思わず吹き出しかけた。それを見たオジサマたちは怪訝な表情。
「あなたは何故知っているのか、我の快速」
部屋全体がクスッとなった。
ここだ!
ぼくは机の上に50元札を1枚置いた。値段は賭け。命がけのギャンブルだ。
500円!
「不要返却。我要至駅」
広場で見た初めの言い値が300円なら、もともときっと250円でも買えると踏んでの、何にもせずの倍額でどう⁉
アニキが文字に目を落とす。一瞬緊張。
立て、というしぐさとともにザッとアニキが立ち上がり、ぼくを取り囲んでいた全員が立ち上がる。
さっきアニキに睨まれたお姉ちゃんが呼ばれて、
「こいつ駅まで連れてってやれ」
うおお、切り抜けたあっ!
ぼくを駅まで送ってくれた彼女はすごく陽気に「次来たときはさ、あたしとしようよ。あたしねあたしあたし。ね? 約束ねー」
と、んー、この
それにしても、ふー、今回はちょっと冒険が過ぎた。終わってみれば楽しい時間だったと言えるが、紙一重のすれっすれをすり抜けたのにすぎないだろう。
☆ ちなみに中国語の文法はかなり英語に近いので、ぼくはまず英語で文章を考えてから、
中学で古文の授業をするとき、また英語の授業のとき、「古文と英語は連動しとるで」、的なアドバイスを一言してくれる先生がいたのなら、どちらももっと伸びる生徒がきっといたのに(ぼくだったらそうだった)、と思う。
(余談。牛に屋根で車だが、飛ぶ机、「飛行机」と書くと飛行機なのだ)
チャイニーズナイト 快速服務 井荻のあたり @hummingcat
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