第2話
□
「大丈夫か?」
そんな声をかけられていたことに気が付いたのは、あらかたの話が終わった後だった。
朝のホームルームが終わってから、担任は私のことを個別で呼び出した。
その呼び出しに職員室へと移動をした後は、私が休んでいる間の授業の資料や家庭向けに配布された書類であったり、学級委員が書き留めていたらしいノートのコピーなどを渡された。きめ細かく記述されたそのコピーを見て、学級委員になる人はなるべくしてなるのだな、とかどうでもいいことを思った。
それらの紙を受け取った後、私は担任に会釈をして、用を済ませたつもりで教師に背中を向けた。
そんなときに声をかけられた。声をかけられたことに気が付いたけれど、何を言われているのかはわからなかった。耳の中に残っている言葉を集めて、そこでようやく担任が、私の何かを心配する台詞を発しているのだと気が付いた。
大丈夫か、とそんなことを問われていることに気が付いても、その言葉の意味をとらえることはできなかった。
何を大丈夫だと心配しているのだろうか。何に対してその言葉をかけているのだろうか。対象が私であるにしても、何について心配をしているのかがわからなかった。
私は適当に、大丈夫です、とだけ返答した。それくらいの言葉しか思いつかなかったし、もしそれ以外の言葉を思いついても、その場面では今以上の言葉を吐くことは難しいことに後から気づいた。
ここで、大丈夫じゃない、という言葉を返したとしても、何かが変わることはない。心配をかけさせるだけに終わり、それから何か変化が訪れるような出来事が巻き起こるわけでもない。ましてや、大丈夫じゃない、という言葉もよくわからないし、私としてはなにも変わっていないのだから、大丈夫でしかない。
私は担任とのやり取りが終えたことを確認すると、職員室にいる先生方に背を向けて、足音を鳴らさないように気を付けながら部屋を抜け出していく。
引き留める声が聞こえてきたような気がする。気がするだけだから、私はそれを無視して、そのまま歩いて教室へと戻っていった。
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それから何か特別なことが起こるわけでもなく、変わることのない日常が営まれていく。
普遍的でしかない時間割の中、特に身にならない学習が行われていく。教師が黒板に記していく白色の文字を、何も考えないまま白紙のノートに書き写していく。どうでもいいとしか感じない教師の雑談と解説を耳に入れながらの、ただの作業の繰り返し。彼らの言葉を頭の中に浸したとしても、結局私には彼らの言葉など理解する気概がないし、教師もそれで困ることはないゆえに滞りなく授業は進行していく。そんな時間の流れに、私はため息を吐きながら外のほうを眺めていた。
廊下側に位置する私の席から窓のほうを覗こうとしても、街の景観や空なども部分的にしか見ることはできない。外の景色についても目立つようなものはなく、高く感じるような遮蔽物もない、つまらないだけの景色が広がっているだけ。
そんな景色を眺めて、時間を過ごした。秋の空が広がっているな、とか、そんなことを思った。
暑苦しい存在の太陽を、雲は覆い隠している。夏の季節を忘れさせるように世界はどうにか演出を繰り返している。秋という季節をなんとか見出そうと必死になっているようにも感じる。教室の中に蟠る乾いた空気に指先が滑るような感覚を覚える。曇天の空の下、私は何をやっているのだろう、とか、やっぱりもう秋になったんだなぁ、とか、そんなことを呆然と考えていた。
□
昼食の時間になって、私は居場所を求めようとした。
固定された友人や間柄もいないから、教室に独り残っていても苦しいだけだ。だから、せめて購買で何かしらを買って、誰にも目立たないようなひっそりとした陰気な場所で食事をたしなむ。きっと、これからはそれが日常になるのだろう。
いつもであれば、父が早朝に作ってくれたお弁当があって、たまに固い感触のままになっている煮物なんかを食べて笑っていたのだろう。帰れば小言のように、固かったことを父に伝えて、苦笑する父の反応を悪戯をする子供のように楽しみにしていたのかもしれない。
だが、手元に弁当などはない。父が弁当を作ってくれることなど、この先の人生においてはもうない。
父はもういない。父はもういないのだ。その事実が覆えることはない。
私は、はあ、と大きなため息を吐いて、購買部にあるサンドウィッチを手に取って、適当に会計を済ませる。
たったこれだけの食事でも値段が嵩むのだな、と認識して、どこまでも金がかかることに虚しさを感じずにはいられなかった。
□
屋上前の階段の踊り場は絶好の場所で、誰かが立ち寄ることもない。そもそも屋上には鍵がかかっていて、誰かが昇ろうとすることもないのだから、こんな場所に寄りつく人間なんていやしない。
私は購買部で買い上げたサンドウィッチの包装を剥いた後、決められたようにそれを頬張っていく。
食べてから「あっ」と声を出してしまった。そういえば二日前から食事を摂っていなかったことを、なんとなく思い出した。
親戚に食事を勧められたけれど、食べる気にはならなかった。別に父の食事にこだわっていたわけでもなく、単純に食事をする気分にはならなかっただけだ。叔母は何度か私に、食べなさい、と声をかけたけれど、私は、すいません、とだけ返して、食事場となっていた部屋を抜け出していた。ただ独りの時間だけを味わって、それ以外のことはなにもしなかった。
久しぶりの食事というわけでもないはずなのに、そのことに気づいて声を出してしまった。舌の上でサンドウィッチを転がして、咀嚼をした。静かすぎる空間で、自分が食べ物を飲み込む音は耳に小さく響く。ごくん、という音を何度か聞き届けた後、私は手に持っているサンドウィッチを視界に入れて、ぼんやりとそれを見つめる。
味がしない。
紙を食べているような気分だった。生地をそのまま食べているような感覚だった。あまり好きではないレタスの感触だけが舌へと障った。挟まっているハムの味も、卵の風味も感じることはできず、ただ舌の上でなにかが残るだけの感触が、嫌に頭へと響いているような気がした。
不味いとも感じない。美味しいとも感じない。それでも、食欲は進まないから、それ以上食べることはしない。
それから私は、昼休みが終わることを知らせるチャイムを呆然と待つことにした。
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