帰り道

 スーツの求める花を買ってもらって、店長が少年に任せた作業台へ帰ってきた。何もできていないのに、「ありがとう」と言って店長は自分の持ち場に戻る。次の掃除をするべきガラスケースに取り掛かろうとする少年の足取りは家に向いていた。


 母の日ということもあり、その日は男性の客が絶えなかった。幸い、あのスーツのように無責任に言葉を放つ客はそれ以降来なかった。一昨日なら「次何覚えればいいですか」と、少年が自分から仕事を覚えようと聞いていた閉店の十八時を時計は指そうとしている。


 「あの…、僕この仕事向いてないかと思いまして…。」


 明日からバイトを飛ぼうとも思ったが、最低限のラインは超えるまいと、せめて辞めることぐらいはほのめかそうと少年はする。


 「ん?もしかしてあの人から言われたこと気にしてんの?」


 図星であるが、うなずくことは少年には憚られた。


 「よく来てくれる人なんだけどね。正直私、あの人嫌いなのよね。そりゃ、お客さんだから丁寧に接してるけど。あんな人の言葉なんて気にしちゃだめよ。楽しみにしているんだからね。」


 「本当に思ってますか?」

 

 少年は、店長が本音を言っているのか調子のよいことを言っているのか分からず、張り詰めた糸を反射的に切ってしまった。


 「ほんとにそうよ。そんなに私のこと信じてないの?少し残念だわ。」

 「すいません。生意気なこと言って。」

 「新人なんてそんなもんよ。ジャンジャン知らないことでも仕事していって、いろいろなこと覚えていって。」

 「はい。」


 店長の言葉を少年は、自分がこの店にとってお荷物な存在になっているのだと受け取った。明日また、ここで制服を着る自分の姿が想像できなかった。


 「よし。だいたい片付け終わったから、そろそろ帰っていいよ。」

 「はい…。お疲れ様です。」


 少年はバックヤードの扉を開く。これでバックヤードの扉を開くのが最後だと考えると少年は悲しく思う。指で数えられる回数ぐらいしかこの扉を開いていないにもかかわらず、こんな感情を抱くものなんだなと不思議にも思う。


 バックヤードに入って自分の服を取ろうとする。少年の普段着は、ハンガーに乱雑にかけられていて、店長の服は、急いで着替えている割には几帳面にかけられている。


 少年は店長が店じまいでまだ忙しくしていることを踏んで、更衣室には入らずその場で素早く着替える。勢いそのままに制服をリュックに詰めて背負って扉を開く。これが最後だ。


 扉を開けてはいけないような気もする。開けてしまったら最後、少年は何かの氾濫を許してしまう、そんな気がするのだ。だけど、扉を開けなければ家路につくこともできない。この目の前にある扉を、少年自身の手で開けなければいけない。


 「カチャッ」


 少年に後戻りはできない。慣性に従うのみである。開けると、氾濫を防ぐかのように店長がこちらへ向かって来ていた。


 「おつかれー。そういえば、明日もササキ君シフト入ってたよね?」

 「…はい。」

 「うん。じゃあ明日もよろしくねー。ササキ君はうちの大型新人なんだから。期待しているわよ。」

 「…はい。明日もお願いします。お疲れさまでした。」

 「お疲れ。」


 少年は、明日も来てもいいのだと許されたと感じた。いや、自分自身を許した。

 機械的に応答しただけの店長の言葉に、少年はただひたすら掴まる。甘える。寄り縋る。


 ふと発した言葉は、往々にして人を傷つけるためにあるように思われる。だが、その言葉は少年の自ら抉った傷を癒した。恐らく、店長はその言葉に心を込めていない。それだからこそ、治癒力があった。


 少年は店前に置いた自転車に跨り、もう一度、誰もいないシャッター閉めかけの店内を見る。照明の落ちた店内の中、花々は日中の活動をやめている。こうして外から見ると、思っているよりも店はこぢんまりとしていた。


 少年はコンクリートで舗装された道に轍を刻まんとペダルを踏みつける。同じ道をまた明日、たどるために。

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