あの日、庭園で日課をこなしていた時、僕の手元に影が落ちて途端雨が降り出した。

虫たちが巣まで戻る間濡れぬよう、手で凌ぎを作ってやる。

 侍女は、雨足が強くならぬうちに中へ戻りましょうと、僕に声をかけた。


しかし、僕はまだ鳥たちに餌をやれていなかったので、少しだけ待ってくださいと侍女に申し立てた。侍女は顔に惑いを浮かべたが、結局その願いは受け合えないと僕を諭し、袖をひいてきた。

 鳥たちの世話を蔑ろにして、どうして戻ることができよう。

あの薄暗い牢固の中で、羽を広げることも叶わない鳥たち。彼らの人生において、鳥籠がただはためきを拒み続けるというのは、その生命をどれほど希薄なものにさせるのだろうか。僕は籠中しか知らぬ、無辜たちの目に映る幸せを思念して、幼いながらに胸を痛めた。見計らって彼らに食物を届けることを誓い、一先ず僕は侍女の後を追った。


 自室に戻った僕は、お茶の時間に残しておいたサンドイッチを、懐紙にくるみポケットの内に潜ませた。部屋に響く滂沱を横目に、好機の訪れを窺う。

僕の行動を憚る門番の内の一人、八時の交代に入る彼は、とても手抜かりな仕事を行う人だった。よって、その者が交代する際の隙を狙い脱するというのが、僕の算段であった。壁にかけられた時計の短針が八の数字を指し、扉の向こうで待ち侘びた晩餐に対する喜色が発露される。耳を欹て、彼の足音が限りなく遠のくのを確認した後、僕は窓からの外出に成功した。


 外気の冷たさに、全身の毛が尖る。空模様にやられ皆中にいるためか、想定通り鳩舎は伽藍堂であった。鳥たちは僕を覚えてくれたのかも知れない。

僕がきたとわかると、彼らは外に通ずる道がないことを承知して、生きるためにこの足元を目掛け、あまりに純な媚態をして見せるのだった。

 僕は自身の無力さに苛まれながらも、早速、サンドイッチを一欠片与えた。

籠中の彼らは一斉に食べ物へ群がり、それがお互いの羽毛に揉まれ消えるまで忙しなくなって、いずれまた僕を見上げた。

 僕は皆に食べ物が行き渡っているか嘱目し、それが確認できるまで食べ物を与え続けた。残滓は大抵鳩舎の裏に埋め、その際教会でしていたようにする祈りが、僕の習慣であった。膝をつき、救いたいもの、救われたいこと、全て心に連ね神を信じてみる。閉じていた目を開くと、まつ毛に撓められた雨粒が、雫となり頬を垂れた。


「バロンさん、やはりここにいらっしゃったんですね」

 渇いた侍女の声は、僕に虚しさをもたらした。何も発せずただ屹立していると、侍女は僕の手を引いてこの身を傘に収めた。

「このまま濡れていると風邪をひいてしまいます。お部屋に戻りましょう」

 侍女の長い裾をかわしつつ、彼女の手から僕の右手が抜けてしまわないように歩く。道中、侍女は僕の服にはねた泥模様を一瞥し、

「こちらへ。」

 と僕を手招いた。彼女は振り向かずに続けた。

「床を汚してしまっては大変なので、まず使用人の通路を通っていただきます。そこで服を変えましょう」


 侍女に連れられ、僕は初めて使用人の通路に入った。

網籠の上に積まれたタオルを渡してもらい、それに顔を埋める。侍女は方々の棚から衣類をかき分けるようにし、探し出した一着を僕に差し出した。その服は知見の深くない僕でもわかる程、デザインが古めいており、さぞ掘り当てるのは難儀なものだったろうと思った。

「靴は丁度良いものの用意がないので、部屋まではこちらをお召しになってください」

 あまりに懸命な侍女の働きぶりに、僕は呵責を覚えた。侍女は振り向きざま、紺地の裾を軽やかに揺らし、僕に告げた。

「そうでした、お伝えせねばなりませんでした。バロンさん。今日あなたが無断で外出したというのは、私達だけの秘密でございますよ。私が何も変わりないように振る舞いましたので、この事実は門番も知りません。これは私にとっても、もちろんバロンさんとっても、今後有利な働きをしますからね」

 真剣な眼差しを向けられた僕は、少々怖じながらも首肯してみせた。

それを見た侍女の満足げな笑みが、冷えた僕の頬に血を通わせて行くのがわかった。俄然彼女の名前を聞かなければならないと思って、僕は訊ねた。

「あなたの名前はなんと言うのですか?」

 侍女が息を呑み、僅かな空気の震えがこの心にこだます。思えば、僕はこの屋敷の者誰一人の名も記憶していなかった。

「私ですか、私はルーといいます。」

 ルー。僕はルーに連れられ、再び歩み出した。

使用人のための通路は、あの教会とも通う独特の匂いや暗がりを有していると感じた。

一帯が埃を帯び、煤けて、乾燥した床板はどこも汁気のある足形を持っている。

そして、そこに僕とルーの足形が加わっていく。


「バロンさん、この扉の先は邸宅の母屋になります。バロンさんは普段離れにいらっしゃいますから、少々見慣れないかも知れませんが、家主様などは通らぬ通路で参りますのでご安心ください」

 ルーの発した家主という言葉は、日々築いてきた欺瞞を崩壊させるだけの予感を宿しているだろうと僕は思った。身の内に高鳴る心臓が、もげそうなほど痛んだが、彼女は構わず母屋への扉に手をかけた。  


  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る