「おい……。聞こえるか。」

うっすらと開かれた瞼が、柔らかな木漏れ日と男たちの顔をとらえる。体が重い。骨以上に血肉がこの地へ馴染んでしまい、筋肉はもう僕のものではないのかもしれない、そんな感覚が襲った。肩を揺さぶり、呼びかけ続ける彼らに半端な相槌を返すと、安心したのか息をついて、その広い背に僕をおぶった。


 目覚めた時、僕はビロードの天蓋の下に横たえていた。

初めて目にする形の寝台でも、それが実に豪奢なつくりであることは瞭然だった。羽毛布団に顔を埋めて、死にきれなかった僕を抱きしめる。脈を感じる温もりが、体内に流れ込んだ。僕としてみればあの逝き心地はほんの数分前のもので、何故こうして寝かされているのか、現実を飲み込むには時間を要したが、どこへ行こうともあの教会よりは幸せであれるような気がするので、僕はこの況かに汗を握ることはなかった。寝台を抜け出し、重い扉を開いてみる。軋む音に振り向いた門番と目が合った。彼は猛々しい眉の一方を上げ、僕を部屋に連れ戻した。横になるよう促され、先程となんら変わりない位置に落ち着いてしまう。門番は僕に一杯の水を差し出した。銀食器の中で揺れる湿潤に、僕は喉の渇きを思い出し、それを勢いよく傾ける。一杯の水は、僕に久しく味わいを見出させた。門番は僕の様子に満足したようで、僕はまた一人になった。暫くすると、医者や数人の女の人たちが、僕の状態を診に訪れた。医者は金属製の器具を大きな革鞄から取り出した。生肌に鉄の感触が染みる。医者は僕の額に手をあて、唸ったり頷いたりを繰り返しながらカルテを埋めていった。医者は女の人に何かを言いつけたあと、僕に向き直り、水に溶いた苦い薬を飲ませた。口内に嫌な唾液が満ちる。寝台を囲む大人たちの注意深い視線が、僕の嚥下に蟠りをきたした。それでも、あの硬いパンを腑に落とす行為よりは、幾分も容易いことであったが。

 その日から、僕の生活は見違えて整いを持つようになった。

きたる朝に部屋は曙光を浴び、昼は勉学に明け暮れ、夜になれば湯浴みをする。相変わらず口にものを詰めることは避けられないが、出されるもの全てに物珍しさがあるためか然程苦行ではなかった。この本が欲しいと侍女に言いさえすれば、次週にはそれが手元に入るし、外でご飯を食べたいと頼めば、敷地内ではあるにせよ、砂糖菓子に群がる虫と共に食することも許された。僕はこの邸宅にいる人たちの優しさが僕に向けられている訳や、あの老人の行く末を知らぬままいるべきだと思っている節があった。人は蜜の味を知ることにより、弱さも強さも持ち得る生物である。そして僕は、自身が前者であることを確信していた。この僥倖が僕に憂懼を見出させるのは簡単であり、守りを知り死を享受する強さを失った僕は、待ち受ける運命に道化を築いておくことしかできないのだ。何より侍女らも、屋敷の事情や僕に対する感想をまるで口にしなかった。思案することを拒んだ僕は、読書や勉学に没することで脳に少しの隙も与えまいとし、去り行く日々を過ごした。

 だがしかし、日ねもすこの屋敷で息をしているのだから、多少の打ち聞は脳に募っていた。

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