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開催前最後の仕事を終えた僕は、暮れかける太陽を背に鐘塔までの道を進んだ。
エイベル先生から預かった鍵を錠前に差し、苔むしたのぶを捻る。
塔内に螺旋する階段が顕になり、どこか煤けた匂いが鼻腔を満たした。
諸所に設けられた小窓からは、仲睦まじい信徒たちや家族連れの楽しげな様子と、黒い湖の静けさが交互に窺える。上まで登り終えれば、日はすっかり沈みきって、街は夜の帳に包まれていた。始まりの鐘を鳴らすまでもう少しだ。
賑わいだ街の温かみを高くから見下ろすと、孤独がいかに暗澹であるのか、僕は思い知らざるを得ない。街の人々は飾られたランタンや互いの笑みに照らされているというのに、僕は遥か遠くの月明かりだけが頼りなのだ。
しかしそれでも、顔を月に向ければ僕の浅黒い肌が青白い光に洗われているようで、気は安らいだ。人目を憚らずにいられる時を過ごしたのは久しぶりで、僕は心地よい月光の下目を瞑ってみる。
そうしていると、僕のような子でも幾ばくか神聖なものになれた気がした。
下方から忍び寄る人籟に、僕は意識を起こした。張り詰め冴えた頭で、目まぐるしく思考する。
誰だ、エイベル先生か? 僕を揶揄いにきた信徒か? いや、彼らはそれぞれの持ち場を離れられないはずだ。そして誰もこんな日に鐘塔へ用はないだろう。
状況を認識して鼓動が加速するのは実に一瞬であった。僕は可能性のある人物を、記憶の底から求めるに徹したが、その余地もなく扉は開かれた。
静かな鐘塔に、僕と、老人が立っていた。
老人の顔は骨秀で、萎びた白髪が夜風に揺らめいている。残忍な表情によって、彼のところどころ茶色く線を走らせた歯が剥き出しになり、僕を恐怖に陥れた。現前の光景を免れなければならぬ事実から目を背けたく、
「どなた様ですか?」
と縋る思いで問う。
老人は僕を穿つほどの眼差しで睨み続けた。僕はどうしたら良いのか分からなかった。
暫し対峙したあと、老人は持っていた杖の頭を捻り、光る銃口をあらわにした。
突然のことだというのに、僕はもうこの顛末を受け入れていたようで、溜飲の下がる具合を覚えていた。
来る日も来る日も、全身が死に浸かる心地を抱えて生き続けた所為だろうか。
僕はまるで、未来から来た者がやっと知り尽くした過去を生き終えたような、そんな充足感すら味わっていたのである。それ程に満ち足りていた。
大抵、人は人生という大所業を生きながらえるにあたって、数度死を願う時が来る。
僕もそうだ。この心に跋扈する死への希求が、今僕に選択を迫っている。
生か、死か。僕によく似合っているのはどちらだろうか。
僕は身を投げた。
僕は嘘をつかないことで、背かぬ人という理想を終末に夢見たのだ。
夜空には数多の花火が光っている。
まだ目を開けておくべきか、もう瞑ってしまおうか。
そういうくだらない考えが脳裏を領していた。生暖かな風のもたらすまどろみが、意識を空に浮遊させる。
何も引き止められないこの心が、死際に飽和を迎えた。
幸せだと思った。
か細い生の灯火が、こうして朽ちてしまえるのは、どれほどに美しいのか。
僕の体は水上に叩きつけられた。
背骨をわたり指先までも衝撃に呑まれてしまう。滴ることのない涙を、僕は地球上に落とし続ける。
祭りの始まりを示す鐘の音がこの耳に響いた。
あの男の勝利を告げるように、身体中を巡って止まなかった。
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