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重い食堂の扉を開けると、酢の匂いが鼻をついた。
辺りを見渡しても、エイベル先生の姿が認められないことに安堵して、僕はアルマイトのお盆に手を伸ばす。
食欲というのが旺盛ではないため、僕の人生には意味もなく食べ物の並べられた長テーブルを周回する過程がある。平生の品を盆に取るのは不満だが、何も口にしないとまた叱られてしまうので、見慣れた硬いパンと野菜の酢漬け、最後に甘ったるい砂糖菓子をのせた。
そうして最後は、普段通りの席に浅く腰を据えるのだった。
しかし食べる気は相変わらずになく、ただ次の鐘が鳴るのを待ち、その間、僕は品々をカトラリーでつついたり嬲ったりしている。
四角いお盆の中で転がるそれらは、ちっとも美味しそうではない。
僕の舌の上に着地したとて、それは僕の口を冷ましたり乾かせるだけで、たまらぬ何かを持たらすようなことはないのである。
当時から僕は、漠然とご飯を食べなくても良いことを知っていた。
というより、人に生命活動を強要する権利がないことを承知していた。
言うならば、その術がないということだ。ああいう部類の人間には特に。
エイベル先生が僕に食べることを強いるのは、彼の逃げである、と思う。
彼は自分の手の中に、死体が生まれるのを恐れていたのだ。
そのために、中途半端な気遣いを突如僕に提示するし、食べ物も飲み込ませようとしてくる。
彼のような人は、自身の人を生かそうとする行動の向く先が、着実な死であることに気づくことができない。
教会にいる時、僕は常時彼にこの身の生死を握られている感覚があった。
それはひどく心細いもので、どんな物事にも悦びを得難くなる。
彼は折に触れて、僕の笑った顔から自身が想像した恐怖は訪れない事を認めたがった。
やはりエイベル先生は、僕の息を細くしてしまう人なのだ。
鐘が鳴ると、僕はを合口を呑むような手つきで食べ物を懐に入れ、席を立った。
熱を持った群衆の中にたった一人、僕だけが冷めた気を持っている。
そうして皆が昇っていくから、僕は底に落ちた。
周知の事実であるこの現状に違和感を覚える者はなく、それは教会という世界で横たえる不文律の一つに過ぎない。雑踏の中で押し退けられながらも、僕は日課をこなしに裏庭へ向かった。
外は冷えており、前髪が冷風に吹かれ、眼前の景色を映し出した。
褪せた空だった。灌木のそばに、僕は小さく座り込む。
湿った土に浮かぶ小さな穴の数々を指で突くと、黒光したものらの蠢然が窺える。
僕はその蠢く渦中に、先ほどの甘い砂糖菓子を落とした。
途端、均衡が崩れたように動向が一変し、暫く待つとまた彼らの目的が一部に集中する。これは僕にとってとても興味深い現象であった。
寄る辺なき虫たちの変動が及ぼす一興は、僕の心を靡かせる効力があるのだ。
こうして見蕩れている時間は、僕にとって僅かながらの道楽であった。
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