三
僕が初めて教会に来たのは、秋口の頃であった。ことが起こったのは感謝祭の夜で、遅くになっても街が明るかったのを、微かながらに覚えている。当時から僕は例の白痴というやつで、歳も上手く数えられないような子だったので、何もかもが不透明なのだが、隣には僕の髪を撫でてくれ、後ろ姿を引き留めてくれるだろうというだけの女がいたと記憶している。僕は彼女を母のように慕っており、子供特有の信頼を全幅に寄せていた。その夜も、僕は横に眠る彼女の寝息に耳をすまし、時期にハグをねだった。すると、半分夢の中の彼女は柔らかな手つきで僕を包み込み、いつも通りの体温を感じさせる匂いで、この心に安らぎというのを教えてくれた。僕はその温もりや匂いを、今でも鼻腔の奥や爪の先で捉えることがある。そんな彼女は、僕が外に出ることをとても嫌がる人だった。そのために、彼女と僕は感謝祭の夜、家を空けなかったのだと思う。しかし残念な僕は、深夜お手洗いに立った後、もう二度と彼女の温もりを求めることができなくなってしまった。僕が住んでいた民家は、お手洗いが外に設けられており、そこへ向かう道中、僕は賑わいだ街並みに非日常を望んでしまったのだ。楽団の楽しげな音色や苦い酒の香りが、幼い僕を手招く。人々は笑いさざめき、それを見た僕は良い気になった。僕はその場の全てを体内に注いでしまいたい気持ちになって、一際色めいた大通りに取り巻くものたちを、深い息で一身に落とした。今思えば、僕が初めて帰属からの解放を覚えたのは、この瞬間だったのかも知れない。しけったものを取り払い、抜け出した僕は、踊る心にうつつしていた。暫しの間、人の群れに混じり、あちこちを見てまわった。初めて見た夜景は、無論の輝きを誇っていた。今もなお、僕の眼裏にはその煌めきが残っているように感じられる。二時間ほど歩くと足が疲れてしまい、僕は茂みのそばに腰を下ろした。そよ風が心地よく、場の熱気に酔ってそのまま眠りに落ちそうだった時、男は現れたのだ。
「こんばんは、坊や。」
彼はしわがれた声音で、僕の眠りを誘った。
「おじさん……、こんばんは。どなたですか。」
僕が眠い目を擦り誰何を問うと、彼は
「僕の名前はバロン・サヴァナク。風船売りの人さ。」
といたずらに名乗った。見上げれば、油の塗り固められた黒髪を帽子の隙間に覗かせ、長身痩躯を紺地の外套に包む、五十がらみの男が立っている。
「ふうん、おじさん僕と名前同じなんだね。僕もバロンっていう。」
僕は彼のおどけた様子に楽しくなって、少し笑った。すると、彼は懐から取り出した葉巻を口に、その落ち窪んだ目の端を緩ませた。葉巻の先に火が浮かばれ、枯れ葉を燻したようなじっと苦い香りが、僕の鼻梁をなぞる。
「ん、。」
おじさんは葉巻の先を僕の口元に差し出した。辺りを漂う濃い匂いが、僕を狼狽えさせる。
「これ吸っていいの?だめじゃない、高いの知ってるよ、僕。」
これは僕なりの意思表示であったのだが、その道を遮るように、彼は再度葉巻の距離を僕の口先へと詰めた。固唾を飲む。ぎらついた祝宴の明かりが街にわたり、その中で葉巻の細やかな灯りが、儚くも僕を照らしていた。今日という日に、尻込みするなんていうのは馬鹿けている、そう心中で説いて、ただ自身を鼓舞した。僕は目を固く閉じて、その葉巻を吸った。火がついているので熱いかと思ったが、そんなことはなかった。彼が僕の顔を覗き込んでいる。息をすれば肺に満ちる紫炎が、目交いで揺れる世界を遥か遠いものとした。
「ごほっ、おえ。」
咳き込むと、彼は弱々しく保たれていた葉巻を僕の口から抜き取った。そうしてそれを自身の口に咥えなおす。彼はとてもとても、深い息を吐いて、帰属からの解放を夢見ていた。葉巻が彼の指を掠め、地に落ちる。その光景を最後に、僕は彼を知らない。
教会に来る前の記憶がこんなものだから、僕はあの葉巻にでもやられたのではないかと疑っていた。思い返せば、彼の名が本当に僕と同じなのかだって怪しい。少なくとも、僕をこの教会に連れてきたのが彼であることに誤りはなさそうだが、その正しさが僕を救うことはないのだから、今の僕にとってそれは何も知らないことに変わりはなかった。
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