第6話
私は吐き気を飲み込んで正門へ向かいます。あくまで偶然を装うことを忘れずに。下衆男爵の前に出ると、私は一礼しました。声を掛けられなければそのまま立ち去るのがマナー。ですが彼であれば。
「これはこれは。ノアマジリナ・プルーシュプ殿。弟君のお披露目パーティー以来でしょうか。相変わらず。ハッ、貧相なお身体と血色の悪いお顔ですね」
丁寧に馬鹿にしてくださるのはいつものことです。他の人たちがルイの能力を知ってから手のひらを返したことに比べれば、元々悪態ばかりのこの巨漢は清々しい限りです。
「ヴァルガー・マイナハイマ男爵様。お久しぶりでございます。本日は如何なさいましたか?」
「ノア殿に用はありませんよ。ルイ殿へはありますが」
「ルイに、ですか?」
下衆男爵はフガッと鼻を鳴らします。ちょっと鼻水が飛んできたので避けさせていただきます。
「セト様とルーナ様がお亡くなりになったと知らせが届きましてね。そうなると、後継者はルイ殿でしょう?」
「嫡男は私なのですが」
「フガッ」
また鼻水。お誕生日にはティッシュの山をプレゼントしたいですね。
「プルーシュプ家は実力至上主義。セト様は既にルイ殿を後継者とすると決めていたんだ。それを記した文書もある。まあ、ノア殿は今後、ルイ殿の手足として働くことになるだろうな。いや、その前に両親殺しの罪で処刑かな?」
敬語を使うことすらしなくなった下衆男爵。ルイが後継者として望まれていたことは知っていましたが、文書まで残しているとは思いませんでしたね。まあ、好都合ですが。
「そう、なのですか……」
「ハッハッハッ、残念だったな」
下衆男爵はたっぷたぷの腹を揺らして笑います。どれだけ税金を無駄遣いすればここまでの腹になるのやら。なんて、そんな悪態は心に仕舞っておかなければなりません。上位の貴族への不敬は不敬罪で即お縄です。
「いえ、ルイが優秀なことは私も存じております。彼の手助けができるよう、誠心誠意精進いたしましょう」
「フガッ」
鼻水!
「まあ、良い。ところで、ルイ殿は本当にいるんだよな? 全然出てくる気配がないのだが?」
「両親の死を知ったショックで寝込んでいるのです。本日はお目通しさせることはできないやもしれません」
「ふむ、そうか。まあ、それであれば仕方があるまい。今日は失礼するとしようか」
「後日ルイの体調が回復しましたら、ご連絡させていただきます」
「ああ、任せたよ」
下衆男爵は使用人たちを引き連れて帰って行きます。彼らと並ぶと、下衆男爵の巨体が目立ちます。使用人たちですら痩せ細っているあの屋敷。我が家の使用人たちへの待遇はそれほど悪くはないですが、少々改善できるようにしましょう。
さて、私は地下のリオンとルイを迎えに行きましょうか。私は屋敷の中を堂々と歩きます。使用人たちは私に礼をすることもなく淡々と仕事をこなします。正直礼をされても困ってしまう日本人男性なのでこれは助かりましたね。
魔術を使って通路を開いて地下へ下りると、簡易ベッドにルイが眠っていました。
「リオン。ありがとうございます」
「ノア様。どうでしたか?」
「大丈夫です。追い返しましたから。それと」
私は言葉を切りました。私を慕ってくれているリオンには真っ先に伝えたいことではありますが、慕ってくれているがゆえに、伝えづらいことでもあります。私は深く深呼吸をして、真っ直ぐに緊張している様子のリオンを見据えました。
「プルーシュプ家の跡取りはルイになるそうです」
リオンは目を見開きます。そして、その身体がわなわなと震え始めました。
「なぜ、ですか」
絞り出したような声に、私は笑顔をみせてやることしかできません。これ以外の表情では、きっとリオンをもっと悲しませてしまうでしょうから。
「父様が文書を遺していたようなのです」
「文書、ですか?」
「はい、他の貴族たちの勧めだったのでしょう。貴族には毎年遺言を書き換える慣習がありますから」
いつ命を落としても確実に家を守るため。そのための慣習です。貴族の腐敗が囁かれる現在でも、というよりはだからこそ、でしょうか。それぞれの家がそれぞれの利益を守るために続けているようです。
「つまり、今年のものを破棄して二年前のものを置いておけば、後継者はノア様になる、ということでしょうか」
リオンは据わった目で私を見つめます。
確かにリオンの言う通りでしょう。ルイの能力がはっきりしたのは去年のことです。それから今日までの間に私の身体がすっかりボロボロになっているのでもっと長い時間が経ったように感じていましたが、思っているよりは最近のことです。
「リオン、そんなことをしてはなりませんよ」
「何故ですか! プルーシュプ家の嫡男はノア様です! これまであんな扱いをされて、その上後継者の座すら奪われるなど……」
リオンはその場に泣き崩れました。本人である私よりも、リオンの方が傷ついていたことをようやく知りました。きっとリオンは私が痛みを感じる間、不甲斐なさに震えていたのでしょう。彼は人の痛みを自分のものとして考えられる、優しい人ですから。
「リオン」
私はしゃがみ、リオンの肩に手を置きました。
「私は確かにこの家の後継者となることは適いません。ですが、私には他にやるべきことがあります」
「やるべきこと、ですか?」
「はい。私はこれから、少々用事を済ませてきます。その間、ルイを守ってください。そして今夜、湯あみを終えたら私の部屋へ来てください。リオンには全てを話しておきたいのです」
リオンは困惑した様子で私を見上げました。不安に揺れた瞳は、私をジッと見つめるとその揺れを止め、ゆっくりと頷いてくれました。
「かしこまりました。ボクは何を聞いても、ノア様の味方です」
「ありがとうございます、リオン。信頼しています。それでは、私は少し出かけて参りますね」
「どちらへ?」
「森へ」
私の答えにリオンが目を見開きました。
森。それはこの国の西端、私が目を覚ました神殿のすぐそばに広がる深く暗い森のこと。名を魔物の森と言い、立ち入るのは上級の冒険者くらいです。彼らも好きで向かうというよりは、魔物による侵攻を抑えるための数減らしに向かっているだけです。
「何をするのか、それも今夜必ず話しますから」
「……かしこまりました。お気をつけて」
危険だとか、無茶だとか。きっと言いたいことはあるはずです。ですがリオンは、その全ての言葉を飲み込んで深々と一礼してくれました。やはり彼は、私が信頼できる忠臣です。
「行って参ります」
私はローブを羽織ると、一人で屋敷を出ました。周囲の人々からの視線を感じますが、彼らのもぞもぞと動く口が何を語っているのは見ずとも、聞かずとも分かります。
私はそそくさと路地裏に隠れ、周囲を確認します。眼鏡を外し、先ほどいた神殿をイメージします。流石に行ったことのない魔物の森をイメージすることはできませんから。
パチンと指を鳴らすと、再び内臓が掻き回されるような不快感と吐き気を感じます。それを一度ゴクリと飲み干して目を開けると、そこはやはり神殿でした。
「ぐぇ……」
眼鏡を掛けて嘔吐きながらフラフラと西門へ向かうと、門番である警備兵が数名いました。私は近くの路地へ身を隠し、再び眼鏡を外します。自らの姿が消えるイメージをしながらパチンと指を鳴らします。
眼鏡を掛ければ魔力が封じられますから、赤い角と黒い翼を生やしたまま恐る恐る裏路地を抜けます。周囲の人の視線を注意深く観察しても、誰も私を見てはいません。
魔法の成功に安堵して、私は西門を抜けました。そこからしばらく歩いた先で眼鏡を掛け直し、のんびりとさらに歩きます。そして夕陽が沈み始めるころ、魔物の森の入り口に到着しました。
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