輪廻の記憶

山崎

輪廻の記憶

 冷たい雨がアスファルトを叩く音が、耳に心地よく響いていた。朝のラッシュが終わった後の電車の中は、湿気と人の気配が混ざり合い、どこか古びた匂いが漂っている。春斗は、窓の向こうを流れる景色にぼんやりと目を向けていたが、彼の心は別の場所をさまよっていた。


 昨夜見た夢のことだ。


 暗がりの中、知らない場所で知らない自分が立っていた――それは確かに「自分」だったのに、鏡の前にいるような違和感があった。白い着物に身を包み、目の前に立つ少女が頬を涙で濡らしていた。少女が何かを言おうと口を開きかけたその瞬間、春斗ははっとして目を覚ました。


 夢の残像が頭にこびりついて離れない。少女の名前を思い出そうとするが、うまくつかめないまま指の間をすり抜けるような感覚に苛まれる。


 「どうしてあの子のことが、こんなに懐かしいんだろう?」


 つぶやいた言葉は誰に向けたものでもなく、ただ自分の胸に沈んでいく。


 会社までの通勤路にある小さな神社にさしかかると、ふと足が止まった。境内に並ぶ石灯籠や苔むした鳥居――見慣れたはずの風景が妙に鮮やかに思えた。


 「ここで……何かあった?」


 自分でも訳の分からない言葉が口をついて出る。思い返してみても、この神社に特別な思い出などあるはずがない。けれど、どうしてもそう思えない何かが胸の奥に引っかかっていた。


 その時だった。鳥居の向こうから、白い着物を着た少女がこちらをじっと見つめていた。雨に濡れた黒髪が頬に張り付き、かすかな微笑を浮かべている。


 ――あの夢の中の少女だ。


 驚いて二度見する間に、彼女の姿は消えていた。まるで幻を見たかのように。


 春斗の心臓が高鳴る。頭の中に浮かんだのは一つの疑念だった。


 「この人生は、本当に一度きりのものなのか?」


 それから数日間、春斗の頭の中はあの夢と神社で見た少女のことでいっぱいだった。会社のデスクに向かっても、手元の仕事は一向に進まない。デジタル時計の秒針が無情に時を刻む音だけが耳に残り、意識はいつも宙を漂っていた。


 夢はあの日を境に、さらに鮮明に、そして繰り返されるようになった。夢の中の自分は、遠い昔の時代――それはどうやら江戸時代のようだった――で、木造りの小さな家に住んでいた。白い着物を着た少女と一緒に暮らしながら、彼女を何かから必死に守ろうとしていた。

 

 夢の最後はいつも同じだった。

 自分は少女の名前を叫びながら、彼女の手をつかんで逃げている――だが、逃げ切れない。何者かに追われ、少女の手は無惨に引き裂かれ、自分の腕の中から消えてしまう。その瞬間、凍りついたような悲しみが心を貫き、目を覚ますのだ。


 夢から目覚めるたび、春斗は抑えがたい罪悪感に苛まれた。

 「なぜ彼女を守れなかったのか?」

 答えのない問いが、現実世界でも彼を追い詰めていく。


 ある休日、気が付くと春斗は無意識のうちにあの神社の前に立っていた。静まり返った境内には誰の姿もない。雨上がりの空気がひんやりと肌を撫でる。どうしてここに来たのか、自分でもよく分からない。ただ、この場所に引き寄せられるような感覚があった。


 社務所の隣に小さな由来碑が建っているのを見つけた春斗は、無意識のままそれを覗き込んだ。そこには、この神社が古くから「守れなかった約束」を悔いる者たちが参拝に訪れる場所であることが記されていた。


 碑文を読むうち、春斗の背筋に冷たいものが走った。


 「……白い着物の少女。」


 夢で見た少女と同じ特徴が、古くからの神話としてここに残されている。何世代も前、この神社である約束を守れなかった男と、そのことで犠牲になった少女の物語――それが、この地に伝わる因縁だった。


 不意に、頭の中で雷のように何かが閃く。

 「俺が、あの男だったんじゃないか?」


 その時、背後から小さな足音が響いた。


 振り返ると、そこには白い着物を着た少女が再び立っていた。神社の鳥居の向こうに佇み、まっすぐに春斗を見つめている。その瞳の奥には、言葉にならない何か――悲しみ、安堵、そして再会の喜びのようなものが入り混じっていた。


 春斗は、声もなくその場に立ち尽くす。少女の瞳を見つめた瞬間、全ての断片が頭の中で繋がった。自分は何度も生まれ変わりながら、彼女を救おうとしてきたのだ。しかし、どの人生でも失敗し、輪廻の中をさまよい続けてきた。


 少女は何も言わない。ただ、少しだけ微笑んだように見えた。


 「今度こそ……」


 春斗はそう呟き、彼女に手を差し伸べた。しかし、手を伸ばしたその瞬間、少女の姿は再び霧のように消えてしまった。


 残されたのは、胸の中にぽっかりと開いた穴と、忘れかけていた使命感だった。


 それから、春斗は何かに取り憑かれたように「少女を救う方法」を探し始めた。手がかりを求め、夢で見た断片的な情景や神社に伝わる伝承を調べ続ける。歴史書や地元の古文書を読み漁り、町の図書館や資料館を訪れるたびに、いくつかの点が線となって結びついていく。


 そして、ついに一つの手がかりを見つけた。

 少女の死が伝承として語られるようになった日と、数日後にこの神社で行われた「供養祭」の記録――そこには、ある儀式で「亡くなった者の魂を輪廻に留めないための封印」が施されたことが記されていた。


 「この封印が……彼女を閉じ込めていたのか?」


 春斗の心は激しく揺れた。自分の過去世である「彼」は、少女を守るために命を賭して戦ったが、結果として彼女を救えなかった。それだけでなく、彼女の魂は輪廻を断たれ、永遠に魂だけの存在としてこの世に縛りつけられてしまったのだ。


 「だから彼女は、あの夢の中で俺を待っていたんだ……」


 それが春斗の確信だった。あの少女の魂は、自分が再び生まれ変わってくるのをずっと待ち続けていた。そして今、ようやく自分がその記憶を取り戻したのだ。


 その夜、春斗は再びあの神社を訪れた。手には線香と、神社の裏手で見つけた古びた封印の巻物を握りしめていた。それは、供養祭の儀式に使われたもので、解くことで魂を輪廻に戻すことができるとされている。しかし、それを解くには犠牲が必要だった。


 「もし封印を解けば、俺は……」


 春斗は迷いを断ち切るように、巻物を握りしめた。彼はもう逃げないと決めたのだ。これまでの人生、いくつもの過去世で守れなかった少女を、今度こそ解放するために。


 雨が降り出した頃、春斗は境内の中央に立ち、封印の儀式に挑んだ。巻物に記された古い言葉を口にし、線香の煙が夜の闇へとゆっくりと溶けていく。心の中に湧き上がる不安と後悔、それでもその奥に確かに感じるのは、今度こそ全てを終わらせるという静かな決意だった。


 すると、鳥居の向こうから白い着物を着た少女が再び現れた。

 少女は春斗の目の前に立ち、どこか優しげに微笑む。彼女の瞳には、これまで見たことのない穏やかな光が宿っていた。


 「……ありがとう。」


 少女の声が、風のように耳元で響く。それは言葉というより、心の奥に直接届くような不思議な感覚だった。


 春斗は静かに頷き、巻物を封じた最後の言葉を口にした。


 その瞬間、少女の身体がゆっくりと光に包まれていく。白い霧のような光が彼女の輪郭を薄れさせ、やがて空へと溶けるように消えていった。


 彼女の姿が完全に消えた瞬間、春斗の胸にぽっかりと空いていた穴がふっと埋まるような感覚が広がった。少女の魂は、ついに輪廻の流れに戻ったのだ。


 しかし、その安堵の直後、春斗の身体にも異変が起こり始めた。視界が急にぼやけ、全身から力が抜け落ちるように感じる。足元がふらつき、その場に崩れ落ちた。


 「……やっぱり、そういうことか。」


 封印を解く代償――春斗自身もまた、次の輪廻の輪へと戻ることが決まっていたのだ。だが、不思議と恐怖はなかった。ただ、静かに目を閉じながら、これでようやく彼女を救えたのだと思うと、深い満足感が胸に広がった。


 「今度こそ……また、どこかで……」


 最後に浮かんだのは、少女の優しい笑顔だった。

 雨音が遠のいていく中、春斗の意識は静かに途絶えていった。


 目の前が、真っ白な光に包まれていく。春斗の意識は深い水底へと沈むように遠のいていき、次第に自我の輪郭さえ溶けていった。雨音も風の冷たさも消え、全てが無に還ろうとしていた――その瞬間。


 「ありがとう。」


 少女の声が、どこか遠くから微かに届いた。胸の中に温かな何かが灯り、それは安心と安堵の感覚だった。春斗は、もう何も恐れるものがないことを理解した。


 どれほどの時が過ぎたのか分からない。ただ、気づくと春斗はどこか柔らかな光に包まれていた。

 開けたばかりの瞼の先には、見知らぬ天井が広がっている。部屋の窓からは、初夏の爽やかな日差しが差し込み、鳥のさえずりが聞こえた。


 「……ここは?」


 ゆっくりと上体を起こすと、自分が見知らぬ病室のベッドに横たわっていることに気づく。腕にはまだ小さな体温が残っている――まるで生まれ変わったばかりの新しい身体のようだ。


 「転生……したのか?」


 春斗はぼんやりとその考えを巡らせた。夢の中で追い求め続けた少女を救ったこと、その代償として自分もまた輪廻の流れと戻ったはずだ。


 しかし、今のこの感覚――目覚めた瞬間から胸の奥にある穏やかな充足感は、これまで味わったことのないものだった。


 その時、病室の扉が音もなく開いた。


 「ごめん、お待たせ!」


 明るい声と共に、若い女性が姿を現した。白いワンピースを着た彼女は、花束を抱え、微笑みながらこちらへ歩いてくる。春斗は、その瞬間に全てを理解した。


 あの少女だ。

 生まれ変わった彼女が、今度は同じ世界に生きている――この瞬間に。


 「久しぶりだね。」

 彼女は自然な笑みを浮かべ、ベッドのそばに腰掛ける。その仕草は、どこか懐かしく、二人が何度も再会してきたかのようだった。


 「ずっと……会いたかった。」

 春斗は言葉にならない感情を胸に抱え、ただ彼女の姿を見つめる。


 少女――いや、今はもう違う。彼女は春斗と同じように生まれ変わり、新しい人生を歩んでいる。そのことを、春斗は自然に理解していた。


 「今度こそ、ちゃんと一緒にいられるね。」

 彼女はそう言いながら、春斗の手をそっと握った。その温もりが二人の間に静かに広がり、これまでの孤独や後悔を全て癒していくようだった。


 窓の外では、初夏の風が木々を揺らしている。二人は、これからの未来に何が待っているのか分からないまま、ただ一緒にいられることの喜びを感じていた。


 そして、春斗は心の中で静かに誓う。

 「今度こそ、最後まで守り抜く。」


 過去の失敗も、苦しみも、輪廻の記憶も全て乗り越え、二人は新たな人生を歩み始める。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

輪廻の記憶 山崎 @kou192

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ