第1章 第3話
今日の夕食は、白湯にキムチを入れただけと思えるほど味の薄いキムチクッパ、食べてもほとんど肉が入っていない唐揚げだった。誰しも入学時はとにかく不味く感じるが、一年も経てばその味に慣れてくる。
榎田が宮前と食べているテーブルに千代という食堂のおばちゃんがやってきた。
「あんたらはまたテレビばっか観て。早くたべなさいよ」
「はいはい。もう出るよ」
そう言って宮前は残った唐揚げを食べ始め、千代は榎田にもひと睨みしてから厨房に戻っていった。
榎田と宮前は一年生の頃から食べるのが遅い。二人は胃が小さいことで苦労しているのではなく、テレビに夢中になっていたり、話が長くなってしまったりするが故に、食べるのが遅くなっている。気づいたときには、二人が最後まで食堂に残っていることも少なくない。
宮前は、背後で写っているテレビに身体を半身で向きながら、食器に残っていた最後の唐揚げを口に入れた。それから水を一つ含んでから宮前は話を始めた。
「なあ榎田、幽霊って信じるか?」
これまでオカルト的な話は全否定だった宮前にしては珍しい話題だった。
「見たことないから、僕は信じてないかな」
「そうか」
「最近幽霊でも観たの?」
「いや、そういうわけじゃないんだが」
宮前は首を振って周りを見渡した。食堂には苦しそうに白米を食べている一年生がいたが、榎田たちの会話は聞こえない距離にいる。
一年生の位置を確認した宮前は少し声を抑えて話し始めた。
「昨日の練習で黒田から聞いたんだけどさ、昔この野球部で事故があったらしい。その幽霊が夜中に三保の海岸に出るっていう噂があるんだけど知っているか?」
「事故?」
「ああ、だいぶ昔の話らしいけど、海で溺れていた子供を助けようとして野球部員も子供も亡くなったんだってよ。その部員の霊が海岸沿いの遊歩道で出るらしいんだよ」
野球部のグラウンドと寮は隣接していて、さらにそのすぐ横の堤防を越えると駿河湾が広がっている。その海辺は、三保の松原という世界遺産に登録された文化遺産で、それなりに観光客も多い。海には近いが、野球部内では入水禁止というルールがある。そのルールを破る部員もいるが、すぐに深くなる水深と波の荒さから「死ぬかと思った」と口を揃えて言う。
「僕の父さんもこの野球部出身だったけど、そんな話初めて聞いたよ」
榎田の父親は東浦大清水の前身である東浦大折戸の野球部出身であった。榎田が入学したのは、決して父親のコネのおかげではなく、中学時代に東浦大清水のコーチから声を掛けられたからだった。父親は野球をする環境が悪いと入学に反対していたが、最終的に榎田はその反対を押し切った。
「どうせ黒田の嘘でしょ。ほら、いつもあいつって大袈裟に言ったりするじゃん」
「ああ、俺もそう思っているけど、榎田は聞いたことあるかなと思ってな」
「あ、分かった」
「何がだ?」
「もしかして、宮前って幽霊とかそういう類のものが怖いんだろ?」
先ほど穂乃果について茶化してきた仕返しと言わんばかりに榎田は笑ってみせる。
宮前は少しムッとして「そんなわけねえだろ」と否定した。
「実はさ、この噂聞いたのって一回だけじゃねえんだ。しかも、死亡した原因が色々違っていてな」
「例えば?」
「浜でランニングしていたら高潮に襲われた、遊んでいたら帰ってこられなくなったとかだ。普通、こういうのって一つに限られてくると思うんだが、こうもバラバラだと気になるんだよな。俺は海で遊んでいたら死んでしまった、だから今でも遊泳禁止っていうルールが出来たんだと思うんだけどな」
「ほらほら、食べ終わったんなら早くどきな」
布巾を持った千代がぶっきらぼうに言いながら、榎田たちの周りのテーブルを拭く。
「ちよちゃんは何か知ってる?」と宮前が訊いた。
「何がさ」
「幽霊の噂話だよ。昔の野球部員が海での事故で亡くなったっていうやつ」
「……知らないね」
一瞬手が止まった千代の動きを見逃さなかった宮前が質問を続ける。
「ちよちゃんとみいちゃんって昔あった東浦大折戸の生徒だったんだよね? 何か知ってることないの?」
みいちゃんとは千代と同じく食堂で働いている海色のことである。二人は東浦大折戸の同級生だった。
「そういう噂話って昔っからあるからね。もうさっぱり覚えていないよ」
「例えば、海で遊んでいた野球部員が亡くなったとかさ、聞いたことない?」
「だから、何も知らないわよ。ほらさっさと片付けてきなさい」
榎田と宮前がいる場所を拭いてきたので、二人は逃げるようにして席を立ち食器を洗う海色のもとに向かった。
「あれは何か知ってんな。いつかまた聞いてみよ」
「珍しく動揺してたよね」
「今日のところはいいや。あの人怒らせると面倒だし」
「みいちゃんに聞いてみれば?」
シンクでは青色のエプロンをつけた海色が食洗機に皿を並べていた。
元気が過ぎる千代と比べると、海色は物静かな人である。いつも千代のマシンガントークに付き合っているが、海色が自分から話題を振ることは少ない。
「ちよちゃんに聞いて無理なら、みいちゃんでも無理だろ」
「だね」
空になった食器をシンクに流すと、海色がそれを受け取り、ゴシゴシとスポンジで擦る。千代と同じピンクのバンダナの下に付けられた、青色の花柄が描かれたヘアピンが蛍光灯の光に反射した。
「ご馳走様です」と二人が言うと、海色は「ありがとうね」と言い、穏やかに笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます