異世界・ネイオード

「……っ!」


 世莉架は目が覚めた瞬間に、即座に周囲を確認し、姿勢を低くした。

 謎の存在、アウストラリスに異世界へと転移させられたことは明白である。即死するような場所へは転移させないと言っていたが、それでもどんな危険が待っているか分からない。


「草原……?」


 そこには美しい草原が広がっていた。世莉架はこのままだと世界が滅ぶと聞かされていたため、いきなり地獄のような光景が飛び込んできてもおかしくないと思っていた。

 しかし、そんな予想に反して、とても穏やかで美しい光景に驚きを隠せなかった。


「というか、本当に次元の違う存在だったのね……」


 世莉架はアウストラリスをまだ完全に神のような存在とは信じられてはいなかった。確かに、地球の様々な物理法則や原理を無視しているような真っ暗闇の空間での出来事を考えれば、まるで創作物かのような存在であるアウストラリスを信じてしまいそうになる。

 しかし、それでも異世界への転移などというのはあまりにも突拍子のない非現実的すぎる話であり、実際に転移させられないと実感が湧かない。


(こんな草原……、まだ地球という可能性はないかしら)


 世莉架はまだここが地球である可能性を捨ててはいなかった。今目に入ってくる光景は地球上にも存在するだろう。


(仮に地球だとしても、転移させられたことに変わりはない。本当に不思議でとんでもない体験をしたわね……)


 自身に起きた異常事態を改めて噛み締めつつ、世莉架はひとまず歩き始める。

 ただ、本当に異世界だった場合、どこに行くべきかなど何一つ分からない。

 すると世莉架は空に何かがいる気配を感じ、なんとなしに見上げる。


「……、はぁ」


 世莉架はため息を吐く。何故なら見上げた空には、明らかに地球には存在しない大きな鳥のような生物が飛んでいたからだ。


「あんなの地球じゃ恐竜時代でしか見られないような生物じゃない……」


 実は地球にいたままだったなどという淡い期待はすぐに消失してしまった。いよいよ異世界で生き抜いていく覚悟をするべきだろう。


(荷物一つない。まさか異世界に身一つで放り出されるとは。こんなの即死はしなくとも一週間生き延びられるか分からないわよ)


 世莉架は自分が生き延びる術を考えながら草原を歩いていく。


(世界を救うだとか、そんなレベルの話じゃない。まずは私の生活を確立させないといけない)


 常に思考を働かせながら歩いていくと、草原の端であろう森に到着する。

 異世界に来てから最初の景色の変化である。


(やっぱり、人間がいるという話からしても予想していたけれど、地球と似ている部分も多そうね。生態系に関しては違う部分が多そうだけど)


 そこまで深い森という訳ではなく、対して暗くもない森の中へ世莉架は入っていく。


(人間がいるという時点で察していたけれど、人間が普通に過ごせるくらいの気温帯のようね。今の気温的には地球の季節で言うところの春か秋あたりかしら。太陽はあるし、普通の星であれば球体だから、四季はあるんでしょう)

 

 地球と同じように人間が存在するというところから、この異世界ネイオードの自然環境は地球と似通っているという予測は簡単に立てられる。

 可能性として、特殊な技術で人間がなんとか生きられる範囲を作り出し、その中で細々と暮らしているというようなまさにディストピアのような世界が広がっていることも考えられた。

 しかし、現状の穏やかな森の中を見ていると、あまり過酷な世界が広がっているようには思えないのは普通のことだろう。


(重力も地球と同じくらいかしら。呼吸も特に問題なし。まぁ、地球と同じような世界じゃなきゃ人間は生まれないわよね。ほぼ間違いなく海もあるでしょう。塩分濃度は違ったりするかもだけど)


 異世界になんだか親近感のようなものを覚えつつ、世莉架はしばらくの間歩き続けた。まずは小さな村や集落でもいいから人との交流を図りたいと考えていた。

 世莉架が異世界転移したタイミングは太陽の位置的に昼であったが、現在は日が落ちてきて夕方になっている。

 その間飲み食いなしで歩き続けている世莉架だが、世莉架の体はあらゆる部分で常人とはかけ離れているため、特に問題なく歩けてしまう。

 途中からペースも早めており、かなりの距離を移動している。

 

(ん、空気が……)


 世莉架は段々と空気が変わってきていることを感じていた。


(川があるわね)


 近くに川があることを察した世莉架は、そちらへ向かって歩いていく。川の周囲に人の文化が栄えることは地球では当然の常識であり、それは異世界でもそう変わりないだろうと思い、川に沿って進むことを決める世莉架だった。


「綺麗そう……」


 やがて川に辿り着く。そこまで大きい訳ではないが、それでも下流へ進んでいけばそれなりの川幅になるだろう。

 世莉架は穏やかに流れる川に近づく。


(川の水……。普通の水であるように見えるけれど、どうかしら。地球では人間によって汚染された川が沢山あったけれど、流石に大丈夫そう。ろ過装置……、は必要ないくらいに綺麗に見える)


 まずはほんの少し、世莉架は水をすくって飲んでみる。


(人間の体に害のあるような毒素はなし。まぁ、大丈夫でしょう)


 数えきれない程多くの毒の免疫と耐性を持つ世莉架はそう結論づけた。事実、ほんの少しの毒でも感じ取れる世莉架のその結論は間違っていない。

 この川の水はなんてことない、普通の水である。勿論、飲むのであればろ過するのが理想ではあるが。

 そうして川に沿って歩いていく世莉架だが、ついに求めていたものを見ることができた。


「やっとね……」


 世莉架は森を抜けていた。そしてその先にはかなり先まで続いているように見える大きな街が見えていた。森を抜けた場所は少し標高が高いため、街を見下ろす形になるのだ。

 確実に人間の街だとは言えないが、ひとまず行ってみないと何も始まらない。

 少し早歩きで世莉架は街へ近づく。特に城壁などで囲まれている訳でもないため、普通に入れてしまいそうだ。


「人……」


 そうして世莉架の異常に視力の良い目が、街の中の人をはっきりと捉えた。

 そこでようやく世莉架は一安心すると共に、この異世界での初めての人との交流に警戒心も抱いていた。

 

(言語が違うらしいし、この世界での文化や価値観は何一つ分からない。下手な真似をして捕まるようなことにならないようにしないといけない。まぁ、多分逃げられるけど)


 そうして世莉架がいよいよ街の中に入っていく。まだ街の端の方なので人は少ないが、それでも世莉架のたまに人とすれ違う。異世界の人間が普通に道を歩いている。

 そのことに不思議な感覚を覚えながら、周囲をしっかり観察する。


(見た目は本当に普通の人ね。農業をやっていそうな服、森の中にでも入っていくような服、服装も色々。若い女の子は私みたいに肌の露出面積が結構広かったり……)


 観察をしていく中で、段々と人通りが多くなってくる。街の中心へ向かえている証拠だろう。


(街の建物の外観は西洋と東洋どちらの特徴も思わせる部分があるわね。中心の方には結構大きい建物も建っていたし、少なくとも原始時代のような文化レベルではないわね。あと、特徴的な格好の人も普通にいるおかげで、私だけ浮いてしまうことは案外無さそう)

 

 沢山入ってくる情報を処理しつつ、世莉架はいよいよ一番の課題に向き合う。


「□□□□□□□□□□」

「□□□□□□」

「□□□□□□□□□□□□□□」


 人通りが多くなったことで聞こえてくるのは人の会話である。しかし、その全てが全く世莉架の知らない言語であった。


(地球にはない言語というのは本当だった。とりあえず言葉が話せないと仕事を探したり安定した生活を確立させるなんて無理。目下の目標は言語の習得ね)


 普通に考えれば全く知らない言語をすぐに覚えることはできない。しかし、世莉架は別だった。


(私は地球の言語であれば十五ヶ国語ほど話せるけれど、これらの言語の中に少なからず似通った部分があるはず。その部分を探しつつ、まずはひたすら耳を慣らす)


 世莉架は地球の言語であれば使用人口の多い言語はほとんど習得しており、外国に行ってもほぼ問題なく流暢にコミュニケーションを取ることができていた。

 そして、いくら地球には無い言語といっても、人間が話す言語である以上、単語や文法、それらを構成する上でのルールなど、そういった部分が地球の言語と同じなのは当然である。

 世莉架の考えていた最悪のパターンは、アウストラリスの言っていた神秘の力とやらを使用することで人々は会話する、といったようなどうしようもない事態だったが、そうではないことに一安心する。


(今日……、いや、明日も含めて、言語の習得に集中するしかないわね。水さえあればある程度生き延びられるし、夜は危険だけど街を出て野宿かしら)


 世莉架は既に街の中で夜を越すことを諦めていた。そもそもお金がなく、お金を稼ぐための仕事をするには言語が不自由である。

 周囲にはお店が多くあり、人々で賑わっている。買い物をしている客を見ていると、物々交換ではなく、きちんとこの世界のお金であろうコインを渡しているところを確認していた。

 街を見ているだけでも得られる情報、推測できる情報は無数にある。世莉架はそういった情報収集をしつつ、周囲の人々の会話に意識の大部分を集中させる。


(まずは単語、それと話している様子や状況からどんな時に使われる単語なのか推測、会話に頻繁に使われる部分から文法の構成を推測。あとは単語を構成するアルファベットや平仮名といった表音文字についてだけど、こればっかりは言語に関する本を見ないと全部を把握することはできないわね)


 世莉架は凄まじい速度で言語に関する理解を深めていく。世莉架は視覚だけでなく、五感全てが超人的であり、耳も地獄耳である。更には聖徳太子の逸話のように、多くの話を同時に聞き取ることができるため、世莉架に入ってくる情報量は常人のそれを遥かに超えている。

 しかし、その膨大な情報をきちんと処理できてしまうのが世莉架なのだ。

 それから世莉架は市場や大通りを中心に歩き続け、周囲の会話や状況について集中を切らさずにいた。

 気づけば、日はすっかり落ちてしまっており、街は夜の賑わいを見せていた。


(明るい……。人間が夜を克服したのは電気によって人工的に明るくすることができるようになってからだけど、この世界でも夜は明るい。あの街灯は電気によるもの……?)


 大通りを逸れると街灯は一気に少なくなってしまうが、街灯があるということは電気が通っているのかという疑問を抱く。


(電気があるならこの世界の文明レベルはかなり進んでいることになるけれど、自動車や電車のような機械は今のところ見当たらない。馬車は普通に通っているし、移動手段に関してはまだまだのようね)


 それから更に時間が過ぎ、人通りもまばらになってきた頃、世莉架も言語の習得や情報収集を切り上げることにした。


(さて、今日はこれくらいにしましょう。この街の治安レベルがどの程度か分からないけれど、夜に一人で外を歩く女は色々と標的にされそうだし、街の外に撤退ね)


 世莉架は元々決めていた街の外での野宿をするため、来た道を戻っていく。

 ちなみに、世莉架はこれまで歩いてきた道は完璧に全て覚えており、どこに何があったのか、何を売っている店があったのかなども全て記憶している。この異常な記憶力も世莉架の超人的な部分の一つである。


(……、ここまで大きなトラブルもなく、情報収集や言語の習得も捗った。けれど、やっぱりそう上手くいかないこともあるわよね)


 世莉架の並外れた気配察知能力と状況把握能力により、自身に害意を向けている存在が複数いることに気づいた。

 ある程度の距離を保ちつつ、明らかに世莉架を尾行している。


(動きだけ見ればお粗末な点が多いし、大したことのない悪党でしょう。多分、私の見た目や雰囲気から、初めてこの街にきた観光客か浮浪者、くらいに思っていそうね。しかも女一人だし、絶好の獲物に見えてもしょうがない)


 世莉架はその尾行者達にどう対処するかを考える。


(恐らく、私であれば撒くのは簡単。闇の中で獲物を狩るのは私の専売特許だし、直接対処してしまうのも簡単。けれどそれは、この世界の神秘の力とやらを度外視した場合の話)


 世莉架の実力を考えれば、どう対処するのも容易であるはずだ。しかし、この世界の神秘の力のことを全く理解できておらず、どんなことができるようになるのかも分かっていない。

 もしも世莉架の力でもどうにもならないほど凄まじい力だった場合、状況は相当悪いと言える。


(このまま街を出て森に戻ったとして、そこまで追ってくるかは不明。仮に追って来なかったとしても、明日もこの街を散策する訳だし、それだとまた狙われることになりそうね。危険は承知の上で、街の中で対処できるか試してみましょう)


 そうして世莉架はあえて人通りの少ない狭い路地の方へ入っていく。

 これは世莉架にとって、異世界ネイオードに来てから最初の害意への対処となる。

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