二百九十六話 シュレディンガーの乙女

 斗羅畏(とらい)さんと無事に合流した私たち。

 白髪部(はくはつぶ)の領地がある西方面へ向かいながら、斗羅畏さんが仲間に指示を出す。 


「北と南に分けて斥候を出すぞ。早駆けしながら情報を集め、なにかおかしなことがあったら報せに戻れ。なにもなかったとしても、途中の邑々に警戒を伝えながら進め。くれぐれも住民を混乱させるなよ」

「御意」

「お館さまも油断なきよう」


 ドドドと驚くべき速さで馬をおっつけて、先行部隊があっと言う間に遠ざかる。


「……なにか俺の顔に付いてるのか」


 私がボケッとその様子を注視していたら、訝しがられてしまった。


「ああいいえぇ、斗羅畏さんも立派になったなー、と」

「そうか、やはりお前は俺に喧嘩を売っているんだな」

「なんでそうなるのさ。せっかく褒めたのに。これだから男子ってやぁねぇ」


 カカカと後ろで老将さんが笑っていた。

 いやしかし、斗羅畏さんがこれだけ堅実な、地に足の着いた行動を取るリーダーになってくれて、本当に嬉しいよ。

 チッと舌打ちして斗羅畏さんは前を向き、小さい声で言った。


「……先陣を焦るなと、しょっちゅう親爺に言われたものだ。その意味が分かりかけて来たのに、今はもう俺を導く親爺はいない」

「斗羅畏さん、可愛がられてましたもんね……お悔やみ申し上げます」

「ならばこそ俺は、遺された言葉の意味を自分で考え続けるしかないのだ。心の中の親爺と対話しながら……」

「そっかあ」


 今度はからかわず、私も自分の胸の奥を見つめる。

 気持ちがわかるとは軽々しく言えないけれど、私も同じことをしたことがある。

 今はもう、会えなくなってしまった大事な人たち。

 けれど心の中に彼ら彼女らは確かに居続けて、ときに私を暗い迷路から出られるように導いてくれるのだ。

 最近は夢の中に懐かしい人たちが登場することも、めっきり減ったな、とふと思った。

 私と斗羅畏さんが珍しく真面目になっているというのに、後列からは軽い雑談が聞こえてきた。


「いやいや、それはさすがに嘘だろ。姉ちゃんのどこにお嬢さま要素があんだよ」

「メエ!」

「こんなことでフカシこいてもしょうがないだろ。あたしだって司午(しご)のお屋敷ほどじゃないけど、あの半分くらいにはおっきな家に住んでたんだからね。使用人の娘としてだけど」


 どうやら軽螢(けいけい)と乙さんが、他愛のない身の上話で盛り上がっているようだ。

 多少は興味があるけれど、あの乙さんのことだからなあ。

 話半分、いや九割はデタラメだと思うのがいいだろう。

 私と同じ不自然さを抱いた軽螢が、突っ込みを入れる。


「そんないいところのお屋敷に奉公してた姉ちゃんが、なんだってこんな物騒な仕事をしてんだ? 故郷(クニ)に帰って金持ちのお手伝いでもやりゃいいじゃんか」

「ま、そこは色々あってね。今さら地元には戻れない複雑な事情があるのさ。あたしみたいにいい女はたくさんの厄介ごともついて回るんだよ。あんたも大人になればわかる」

「テキトーなこと言ってらァ。世間知らずのガキだと思ってバカにしやがってよ」


 実際に軽螢が、世間知らずの田舎少年であるのは間違いないです、はい。

 人懐っこさほどには、世慣れ、世間擦れしていないと言おうか。

 それだからこそ、多くの人に可愛がられるのも確か。


「大方、勤めていた屋敷から金を持ち逃げでもしたんだろう。手癖の悪さがむしろ除葛(じょかつ)に見初められて、間者として雇われてるとかだろうな」


 斗羅畏さんがひどい……と言っても半分ほどは私と同じ推測を、ぶっきらぼうに放った。

 乙さんは「へえ?」と言うような、少し面白そうな顔をして、自分にかけられた失礼な嫌疑に答える。


「堅物だと思ってたけど、なかなかどうして想像力があるじゃないの。芝居作家にでもなるといい。女の客にきゃあきゃあ言われるよ」

「グッ…………!!」


 黙殺した斗羅畏さんの顔が閻魔さまのように赤らみ、こめかみにはビキビキと血管が浮いていた。

 こりゃあ突骨無(とごん)さんのところに着く前に、乙さんは舌を抜かれちゃうんじゃないだろうか。

 斗羅畏さんの無言の怒りに気付いていない軽螢が、会話の続きを受ける。


「でも金持ちの家に奉公したけど飛び出してきたなんて、なんか麗央那に似てるな」

「いやいや私は別に戻れないほどやらかしてないし。なんなら一回やっちゃった気はするけど、でも戻れてるし」


 後宮放火犯のどうも私です。

 自分が火を点けた立派な建物にもう一度戻ったときのあの感覚は、経験しないとわからない特別なものがありますよ!

 世界中の誰に対してもお勧めできないのが残念。

 フフッと笑って乙さんが、いつにない優しい声で言った。

 あまりに声色が違うので、別の誰かがしゃべっているのかと思うほどに。


「あたしも戻ってみたら案外、なんてことないことなのかもしれないね……」


 それきり乙さんは無駄話に乗らず、馬の背で景色だけを楽しみ続けていた。


「今日はここで休むぞ。お前らもほとんど寝てないんだろう」


 途中で立ち寄った、比較的大きな邑。

 確かここは私が皇太后さまのお遣いとして訪れ、斗羅畏さんに挨拶土産を渡したところだ。

 蒼心部(そうしんぶ)で中心的な都市の役割を担っている場所である。

 明らかに人も包屋(ほうおく)も多いし、木造やレンガ建築の家々もちらほらと見える。

 ここで戦略物資を補給し直すと同時に、別のところにいる兵隊さんたちを呼び集めて合流し、再出発するようだ。


「孫ちゃんのことだから、もっと急ぐのかと思ってたぜ。今日のメシはなにかな~?」

「メェ~」


 軽螢とヤギは夕食までの間、邑の中を散歩するようでフラフラと歩いて行った。


「ばたんきゅー」


 私は体力の限界、気力もなくなり引退、ではなく休息を決意し、大包屋のフカフカ絨毯にごろりと横になる。

 戌族(じゅつぞく)のこう言った大型テント住居は、寝室とトイレ以外の男女の区別がそれほど厳密ではない。

 お客さんはこっち、偉い人はこっち、という大雑把な区分けがあるだけで、相互の出入りも比較的自由である。

 特に斗羅畏さんはまだ自分のハーレム、覇聖鳳(はせお)にとっての「奥宿」を築いていないので、男子禁制の空間と言うものがほぼ存在しないのだろう。

 昂国(こうこく)では「雌雄雑庫(しゆうざっこ)せし禽獣(きんじゅう)の如き」とバカにされがちな習慣であるのは、余談。

 今も私の近くには乙さんの他に、巌力さんと老将さんたちがいて、交流なり情報交換なりを交わしている。


「西から賊徒が来るっちゅうことは、最初に荒らされるのは赤目部(せきもくぶ)の町かのう」


 老将が指す地図では、昂国の西側から白髪部の領地に行く途中に、赤目部と呼ばれる別グループの支配地域があることを示している。

 突骨無さんのお母さんの出身地であり、今の白髪部とも緩い同盟関係にある勢力だ。


「ご老人。浅学な奴才にお教えいただきたいが、赤目部には賊徒集団を防ぎ得るような強力な軍隊がおありですかな」


 膝を突き合わせて地図を睨む巌力さんが質問した。

 老将は諦めたように伏し目で首を振って、溜息とともに説明する。


「さすがに無理じゃろう。赤目部は前から身内のイザコザが多くての。一枚岩になって外敵と戦うような体制を作ることが、そもそも間に合わんわ」

「左様でござるか。であれば、強く攻撃されれば蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うやもしれませぬな」

「うむ。突骨無さまと近しい一派は、白髪の領内に逃げて助けを請うじゃろうが。他のもんがどう動くかは、まったく読めんわい……」


 事態はカオスに陥ることを避けられない、ということだ。

 もちろんその混乱と混沌こそ、姜(きょう)さんがまさに目指しているところである。

 とにかく戌族の地域をずったずたに切り裂き荒らし回って、彼らが経済的に成長する基盤を崩壊させたいと狙っているのだからね。


「くそう、答えから逆算して考えれば、姜さんが東の船団を囮にして、西から北上する作戦を読めたかもしれないのに……」


 絨毯の優しい感触に触れたせいで、後悔と弱音が口を突いて出てしまった。

 涙を見られまいと目に腕を当てて隠している私に、乙さんが憐れみをかける。


「泣くほど悔しいって凄いね。央那ちゃん、あのモヤシに太刀打ちできると本気で思ってたんだ」

「そうですよ。悪い? 笑いたいなら笑えばいいじゃん」


 悔し涙は、勝算があると信じて、そこまで本気で頑張ったからこそ、流れるのだ。

 最初から「今回のテストは俺、全然勉強してなかったから」と後ろ向きな言い訳をするやつには、負けて泣く資格すらない。


「良し悪しじゃなくて、単純に凄い子だなって思っただけさ。あたしがあんたくらいの年の頃は……」


 言いかけて、乙さんは話題を変えた。


「いや、これは言わないでおこうか。うっかりモヤシの情報も混ざっちゃうかもしれないからね。雇い主の情報は漏らさない。一流の情報員の鉄則だから」

「はいはいそうですか。どうせ信用してないからいいですよ」


 と言いながらも私は、貴重な情報を一つだけ拾う。

 おそらく乙さんはティーンエイジの青春時代から、姜さんの下で働いているのだろう。

 肌のハリや手の皺などを見るに、乙さんが30歳以上だとは思えない。

 おそらく彼女の間者稼業期間は、十数年というところだろうな。

 なんだろう、その数字になにか気になることがあるような、ないような。

 ま、乙さんは大人しくしてくれているみたいだし、今はいいや。

 これからのことを、考えねば。


「赤目部の勢力が抵抗して来ても、姜さんは容易く蹴散すことができると計算しているはず。ならそこにガツンと一撃、喰らわせられれば。いや、調子に乗って進撃しているところを後ろから突くのが良いか……」


 うーんうーんと寝転がりながら考えていると、斗羅畏さんが「飯だぞ」と知らせに来た。


「わ、スッポン鍋だ! 翔霏(しょうひ)が聞いたら羨ましがるだろうな~」

 

 鼻の利く軽螢が食事どきにちょうど戻り、豪勢な晩餐に舌鼓を打つ。

 ずいぶんと奮発してくれたようで、斗羅畏さんに素直に感謝!

 お客さんをしっかり饗応するのも、大人(たいじん)としての務めなのだな。


「翔霏、前にここのスッポン食べたことあるよ。もちろん何回でも食べたいだろうけど」


 塩と香草を利かせたくにゅくにゅのスッポンをかじりながら、私は翔霏の健淡ぶりを思い出す。

 私と離れて、あえて別方向を走ってもらっている翔霏。

 重要な局面が西域に集中しそうだとすれば、いよいよ派手にブチかましてもらわなければなるまい。


「乙さんも捕まえたことだし、そろそろ翔霏に連絡しようかな。ついでに椿珠(ちんじゅ)さんにも」


 翔霏が今どこでなにをしているか、正直言って私にも正確に予測はできていない。

 彼女の存在は今、存在すら不確定なジョーカーだ。

 それこそが、計算高い姜さんの隙を突く一手になるのかもしれないと期待して、あえて今までそうしてきた。

 山のように積まれた切干大根を食べながら考えを巡らせる私。

 その様を、乙さんが複雑な顔で見ていた。

 自分に与えられた食事にもろくに手を付けず、しばらくずっと彼女はそうしていた。

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