二百九十七話 正直者の目眩まし

 思い立ったが吉日。

 翌朝に私は斗羅畏(とらい)さんの許可を得て、遠く離れた西域にいるであろう翔霏(しょうひ)へ渡す手紙を、若手の部下さん二人に預けた。


「あの娘ならよく覚えてるよ。ハチャメチャな強さだったな。女の顔は一度見たら忘れねえ。なんとしてでも見つけてみせるさ」

「俺たちがノロマをこいてると事態がいよいよ悪くなるなんて、責任重大だな……」


 爽やかさと苦さの香る笑顔をそれぞれ残して、急使のお二人はやはり魂消るような速度で、任務へと走って行った。

 今の私たちに明確に与えられたアドバンテージは、この連絡の速さだろう。

 加えて蒼心部(そうしんぶ)の面々は、ただ単に馬の扱いが達者なだけではない。

 斗羅畏(とらい)さんが旧知の仲間たち、一人一人の個性を深く理解しているからこそ、必要な状況に応じて適切な人材を選抜し、効果的に動いてもらうことができるのだ。

 今ほど出立した二人も、一人は陽気でイケイケであり、もう一人は慎重派で思慮深い。

 実に良いカップリングで、色々と妄想もはかどるというものである、愚腐腐。


「やはり斗羅畏どのは、人の上に立ってこそ光る大器でござったか」


 巌力(がんりき)さんがお世辞や阿諛追従の微塵も混ざっていない、素の声で称賛する。

 斗羅畏さんは、気不味そうにそっぽを向いて自嘲した。


「やめてくれ。いつもこれで良いのかと自問自答するばかりだ。事実、俺はまだなにも領主としての結果や実績を上げていない」


 偉大な父、阿突羅(あつら)さんや優秀な親戚連中とつい比べてしまうせいで、斗羅畏さんの自己評価はおおむね低い傾向にある。

 けれどそれを励ますのではなく、ただ事実を述べているのだという真摯さで巌力さんは付け加えた。


「己がまだ足りぬと反省し改めんとする姿勢は、どれほど教えられても身につかぬと申します。それを自然と持っておられる斗羅畏どのは、やはり収まるべくしてこの地の主に収まったのでござろう。奴才だけでなく、角州(かくしゅう)公の猛(もう)閣下も同じことをおっしゃるかと」


 今をもっと良くしようという向上心は、今がそもそも良くないのだと認める反省的自己認識から来る、という哲学だな。

 憤せざれば啓せず、悱せずんば発せず、と孔子先生なら言ったところだ。


「だと良いがな……戦(いくさ)が終わったら、また市場を開きたいものだ。角州に戻ったら州公閣下に話しておいてくれ」

「ええ、是非にとも」


 男気の塊しかない二人の熱い会話を横で聞いて、心がポッカポカ。

 麗央那ちゃんなんだか元気になってきちゃったぞ。

 斗羅畏さんは良くも悪くもシンプルな人だから、結果や功績のような目に見えるものを強く求めているのだろう。

 けれど、いてくれるだけで、いつも変わらず頑張ってくれるその姿だけで、周りのみんなが安心する、元気付けられる親分と言う在り方も、きっと素晴らしいものだと思うんだ。

 いつか、自分でその美点に気付いてほしいと願う。


「グルル……バウ! ワウ!」

「なんだいこの犬、こんなに人がいるのにどうしてあたしにだけ吼えるのさ。発情期かい?」


 と、せっかく私が良いことを考えているのに、脇では乙さんが例の野良犬と言い争っていた。

 離れていても一緒にいても厄介なのは、もうどうしようもないな。

 どうせ捕まっちゃったのだから、可能な限り私の精神をげんなりさせて、思考を鈍らせる作戦なのかもしれない。


「で、結局目的地はどこなんだよ? すぐに白髪部(はくはつぶ)まで行って、末っ子ちゃんと合流するのか? それとも先に襲われそうだっていう、赤目部(せきもくぶ)の連中を助けに行くのか?」

「メエメェ?」


 昨夜の食事後の会議、途中で寝てしまった軽螢(けいけい)が、作戦を確認するために質問した。

 今日の昼には出発できる準備は整っているのだけれど。


「私は赤目部の邑を調子に乗って荒らしてる反乱軍を、後ろから強襲した方がいいって言ったんだけどね」


 要するに突骨無さんと姜さんが本格的にぶつかる前に、姜さん側の戦力を削っておこう、という作戦である。

 斗羅畏さんたちの機動力があれば突撃&離脱戦法を繰り返すことができるし、いざとなっても逃げられるので味方側のリスクは少ないはずだ。

 けれど、斗羅畏さんの部下のお歴々が、その作戦にウンと言ってくれなかったのだ。


「突骨無どのと連携せず、そのような勝手をこちらが仕掛けても良いものか……」

「そもそも本来は、白髪部との盟に則っての救援であろう。なにはなくとも白髪の大都に馳せ参じるのが筋道ではないか」


 言ってることはもっともだし、そもそも私たちは余所者なので彼らの決定に否を出す権利はない。

 難しい顔でヌーンと唸っている斗羅畏さんや側近たち。

 少し離れたところで、退屈そうにその様子を眺めている兵たちがいる。

 軽螢が彼らを見て、私を庇うように前に立って、言った。


「……覇聖鳳(はせお)の、部下だったやつらだ」

「えっ」


 ドクン! と一気に心臓が激しく脈打ち、私は短い呼吸を連続させた。

 大きな戦があるからと斗羅畏さんが招集した戦力の中に、青牙部(せいがぶ)の遺臣も加わっていたのだ。

 彼らから半ば嘲るような視線を向けられているのに気付いた斗羅畏さん。

 決して怒るではなく、冷静に歩み寄って、意見を訊いた。


「なにか思うところがあるか。遠慮なく言ってみろ」


 直接に声をかけられて驚いたのか、若い兵たちは少し焦った様子を見せる。

 けれどすぐに、へへっと強がって笑みを浮かべ、一人ずつ答えた。


「隙を見せてくれてる獲物がいるなら、喰ってやらなきゃかえって失礼ってもんでしょうよ」

「ああ。選り好みするのは、贅沢なやつらの特権だ。俺たちは貧乏人らしく、目の前のエサに飛びつかないとな」


 彼らの言葉の中には、確かに覇聖鳳の残り香を感じられた。

 やつなら迷わず、体面や義理など後回しで、実質的な勝利を狙うだろうから。

 斗羅畏さんの反応はどうか、と冷や冷やしながら見守っていると。


「なるほど一理ある。お前ら二人、軍議に加われ。決まった作戦を旧青牙部の一団で実行してもらう」


 二人は半ば強引に促されて、重鎮さんたちとの話し合いに加わった。


「おいおい、どうなっても知らねえぞ」

「ははは、面白いじゃねえか」


 斗羅畏さんはかつての敵もその懐にまるっと受け入れ、自分の新しい力へと変えようとしている。


「おい、お前らもだ。ボケッとしてないで来い」

「アッハイ」


 のん気に観察していたら、怒られちゃった。

 いくつかの意見を交わした後、斗羅畏さんは全員の顔を見渡して言った。


「斥候を南北に分けて出したのが幸運だった。俺はあえて軍を二分したいと思う。一軍は突骨無とともに南下して迎撃を戦う。もう一軍は、昂国(こうこく)から侵入して北上する反乱軍を、背中から追う。挟撃の形を作るのだ。お前たちはどう考えるか」


 百戦錬磨であろう古参の武将たちが、腕を組んで押し黙った。

 兵法として、部隊を小分けにすることはあまり好ましい選択とは言えない。

 けれど相手を包囲あるいは挟み撃ちにしたり、陽動と伏兵の役目を持たせるのであれば、非常に高い結果を得られる局面もある。

 主部隊が突骨無さんに連絡を行うことで同盟としての義務も果たし、別働隊が有利な戦局を裏で作り出そうとすることが戦場の主導権を握る鍵になるかもしれない。


「妥当、いえ、それ以上の妙策に思われますな」


 重鎮の老将さんが短く言い、周囲の全員が無言で頷いた。

 私はふと、この決定に乙さんがどういう反応を示すのだろうと思い、そっちを確認してみた。

 南北二方面作戦が、敵対する姜さんにとって不利になるか、有利になるか。

 けれど彼女は巌力さんに手綱を握られたまま、興味なさそうにそっぽ向いているだけだった。

 その行動自体が、自分の心を読まれないための演技なのかなと思う。

 なので私はもう少しだけ、乙さんに揺さぶりをかけてみようと試みる。

 斗羅畏さんたちが出陣の最終準備にかかっている間、お茶を飲み飲み、あえて軽い雰囲気で。

 巌力さんは目を光らせてもらいつつ、少し離れた場所に。


「タダで姜さんたちの情報を貰おうとしても、さすがに無理だとわかっています。ですからこちらから乙さんへ、先にとっておき情報を渡そうかなと思うんですよ」

「貰えるもんならなんでも貰うけど、あたしがそのお返しをすると信じ込まれても困るよ」


 私の提案に興味があるのかどうか、相変わらず彼女の心中を察するのは難しい。

 けれど、別に話して減るものではないので、私は気前よく秘密情報の一部を開示する。


「乙さんたちがどんなに調べて探っても、神台邑(じんだいむら)に来る以前の私の情報には到達できなかった。そうですね?」

「さあどうだか。あたし以外の誰かが細かいことを、すでにモヤシに報告してるかも知んないよ」

「それはありえません」


 私が断言したのに対し、乙さんはほんのわずかだけ、眉をピクリと動かして反応した。

 少しは彼女の胸に波風を立てられたかなと期待し、私は続ける。


「ハッタリでもなんでもなく、それ以前の私を知っている人は昂国にも北方にも、もちろん東や南の海の向こうにも、西方の小獅宮(しょうしきゅう)にもいません。私、しょっちゅう嘘ばかりついていますけど、こればっかりは本当です」

「……いきなり空から降ってきたわけでもあるまいし、そんなわけないじゃないのさ」

「あるんだなあ、それが」

「その顔で『実は天女でした』なんて冗談はやめてよ。あたしの腹筋にも限界ってもんがあるんだ」


 天下一罵倒会に出場するためのトレーニングでもしてるのかよ、この姉ちゃんの言葉の切れ味ったら。

 信じてもらえないのはわかっているけれど、それでもなにかしらの動きを期待して、私は説明を止めなかった。


「私の故郷は埼玉県入間市という場所で、お母さんの名前は美香です。お父さんは小さい頃に事故で亡くしました。父方のおじいちゃんが秩父と言うところで一人暮らしをしています」


 ここまでのことを話したのは、実は乙さんがはじめてである。

 神台邑のみんなには、私の家族友人の個人名を教えたことがなかったから。


「聞いたこともない地名だね。もし本当の話なら、あたしたちも知らないような辺鄙な田舎の小国なんだろ」

「埼玉は田舎じゃねえ!」


 思わずムキになってしまいました。

 いかんいかん、私が乙さんに揺さぶりをかけているターンなのに、取り乱してどうする。

 呆れ笑いを浮かべた乙さんは、むしろ可哀想な子を見る目でこう言った。


「未知の国から来た不思議少女の央那ちゃんだから、得体の知れない力でモヤシとも渡り合えるってかい? あいつがキリキリ舞いして取り乱すところを、見たくないかと聞かれれば、ぜひ見たいよ。せいぜい頑張りな」


 ちぃっ、ガキだと思ってバカにしやがってよォ。

 まあいいや、信じてもらうことよりも、乙さんの心と、そして間接的に姜さんの心にノイズが混じることを期待しての作戦だし。

 個人情報を開陳したのに反応が薄くて悔しい私は、もう一つだけ小さな爆弾を仕掛けることにした。


「じゃあ、もし乙さんが私たちのところから逃げおおせて姜さんの下に帰ったとき、姜さんが喜ぶようなお土産を増やしてあげます。これを言えば『ただ無駄に捕まっとったわけななかったんや~』と、姜さんも喜んでくれるでしょう。罰や折檻を受けずに済むんじゃないですか」

「それはありがたいね。年下の子にそんな気を遣わせちゃって申し訳ない」


 緊張感なくニコニコしている乙さん。

 短いフレーズだけれど、しっかり覚えてくださいよ。

 きっと姜さんは大喜びするか、目を剥いて驚くはずだから。


「円周率の近似値は、113分の355です。姜さんが頑張って計算したどの結果よりも、さらに真の値に近いはずですよ」

「……なんだい、そりゃ?」


 いきなりわけのわからないことを言われたからか。

 そうではなく、乙さんが本気で警戒するに足る領域に、私が足を踏み入れたからだろう。

 明らかに雰囲気を変えた、真剣な表情を彼女が見せたからだ。

 きっと彼女も姜さんの薫陶を受け、数学を勉強した時期があったはず。

 今見せた顔は、その数字が意味するところをまったく分からない人間のものではなかったのだ。 


「姜さんの好きな数学、円の公理ですよ。あの姜さんよりも細かい正解を、なぜこの私が知っているのか。宿題にしときますので、よく考えといてくださいね」


 ひらひらと手を振って、私は軽螢とヤギのいるところへ戻る。

 敵と戦うには、まずその敵を見て知ること。

 ならば私は、見ても見えぬ、知ろうとしても知りえないモノになってやろう。

 実際に私の素性を、この地の誰も知らないのだから。

 ふと、歩きながらねっとりとした視線を感じる。

 かつて覇聖鳳の部下だった若い兵士たちが、私を見てコソコソと話しているのだ。


「ねえ!」


 急に声をかけた私に驚き、男たちは明確にうろたえ、目を泳がせた。

 私は気にせず、一つの質問を飛ばす。


「覇聖鳳が神台邑を焼いたとき、なにしてた?」


 短い沈黙の後で、答えは帰って来た。


「重雪峡(じゅうせつきょう)にいたよ。お袋さまの警護してた」

「そう。じゃあ今日のところは勘弁してやるわ」


 偉そうに言い放った私を見て、斗羅畏さんがこめかみを押さえていた。

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