二百七十七話 厳しいだけが学びではない
翠(すい)さまを含めたお妃さまたち、そしてプリンス明晴(みょうせい)に会えるまで、さらに二日を要した。
もちろんその間も、新しい神台邑(じんだいむら)を強靭に造り直す議論の場に、私たちも参加していた。
決してボーっと待っていたわけでも、遊びほうけて過ごしていたわけでもない。
「麗央那と翔霏(しょうひ)は女官扱いだから、お宮まで入れていいよなァ」
「メェ~」
翠さまのお遣いである銀月(ぎんげつ)太監から「今日なら来ても良いとのことです」と、いきなり連絡をもらった朝。
同行できない軽螢(けいけい)とヤギは微妙に不貞腐れていたけれど、こればかりは納得してもらうしかあるめえ。
後宮も、正妃さまや翠さまが暮らす北の宮も、皇帝以外の男性は立ち入り禁止の区画だからね。
「お前も宦官になれば、宮城(きゅうじょう)のどこにでもに出入りできるぞ」
その手があったか~~~、と翔霏の提案に私は唸る。
「怖い冗談やめろよな……」
「ヒュィッ」
キュッと股を閉じて身を竦ませる軽螢と、震えるヤギ。
男性にとって、想像することすらも抵抗のあるアイデアに違いない。
てかこのヤギ、去勢してないんだよね。
取っちゃえばいいのに、別に要らないでしょ。
なあんて、あまりお上品ではない会話に区切りをつけて、私と翔霏は翠さまが暮らす花の園、北の宮へ向かう。
「おうっ! おうっ、おうっ!」
ドテドテドテ、と地を踏み鳴らして勇ましく突進する、可愛すぎる生きものに遭遇した。
明晴さま、もう立って歩いている!
……早くね?
「そうですよ~、央那ですよ~! ほら、皇子さまもう一声! お、う、な! って言ってみてください!」
「おーう、おう、おうぅ!」
呼びかけに応えるように気軽な感じで手をブンブンさせ、ついでにバシバシと私の足を叩いて来る。
幸せ……。
「腿州(たいしゅう)の三角州に、連れて帰りたい。籍(せき)先生と奥さんも、きっと喜んでくれると思う」
「やりたいなら止めはしないわよ。もう二度と生きて会えなくなるだけでしょうから」
私の馬鹿な望みに、冷静な母、司午(しご)翠蝶(すいちょう)準妃殿下がコメントした。
「そんなに赤子が好きなら、あなたも早く産めばいいんじゃないの?」
同じく北の宮に招かれていた、兆(ちょう)博柚(はくゆう)佳妃が、至極まっとうな突っ込みを入れて来た。
なるほど、完璧な計画っすね~。
子作りする相手がいないという最大の問題だけを除けばな~~?
「それはおいおい、勉強が一区切りしたら考えます。おほほ」
「今は忙しいでしょうからね。しっかり努めてくれているようで、私からはなにも言うことはありません。良い相手が欲しいならお見合いくらいは用意できるけれど」
優雅に微笑んでお茶を飲む兆佳人。
卓の上には、城壁の作り方について記された書物が置かれている。
彼女も立派なお父さんに恥ずかしくないように、頑張って勉強しているんだな。
私も興味ある分野なので、後で聞いてみよう。
「おっぶ、おっおぅおー」
明晴さまはもう私に興味を失ったようで、室内をぐるぐるどたどたと歩き回り始めた。
それを追いかけて捕まえて抱っこするゲームとかがあれば、廃人になって遊び倒せる自信がある。
あまりにも元気すぎる乳児を見て、翔霏が苦笑いしながら言った。
「これだけ力が有り余っておられると、お母さまも身が持たないでしょう」
話を向けられた翠さまは、編み物をする手元を停めず、声だけで答える。
「抱っこをせがむことが少なくなったから腕は楽になったわね。この子ったら勘が良いのかしら。今ではほとんど部屋の物にぶつからなくなったし」
スキンシップの機会が減ったからか、翠さまは少しだけ寂しそうに見えた。
皇族や皇子さまと言う特殊な環境のことはよくわからないけれど、男の子は一般的に母親の腕を抜け出すのも早いからな。
前に会ったときは、あちこちぶつかって這い回っていた、と言っていたはず。
本当に子どもの成長ってのは早いものだと、舌を巻かざるを得ない。
「宮中で他に、変わったこととかありますか?」
私の質問に、翠さまが平坦な口調で答える。
「正妃さまのところも男の子が生まれたわよ」
「え?」
「は?」
私と翔霏が、同時に驚きの声を上げた。
そんなビッグニュース、街でも全然聞かなかったし、ここに来るまでの間に会った偉い人、宦官さんたちも、誰も話してなかったぞ?
混乱する私たちに、少し深刻な表情を滲ませて兆佳人が教えてくれた。
「御子はご健勝という話です。けれど、正妃さまの産後の様子が芳しくなくて、ずっと床(とこ)で伏せっているらしいわ。主上は大いにお心を痛まれて、皇子誕生の発表を今はまだ止めさせているのよ」
「正妃の、柳由(りゅうゆう)さまが……」
私は、数少ない彼女との謁見を思い出す。
綺麗な人だったけれど、確かにいつも疲れたように顔色が悪く、難しい表情を見せている方だった。
あれは、私たちに悪印象があったとかではなく、単純に身体の具合が悪かったのだ。
それでも毅然として、正妃と言う立場にある自分を、貫こうとしていたんだな。
「早く、良くなるといいですね。私たちもお祈りしなきゃ」
縁は薄いけれど、同じく宮中にいて侍女を勤めていた私にとっても、家族みたいな相手なのだ。
しんみりしてしまった場の空気を換えるように、翠さまが明るめの声で別の話を始めた。
「ちなみにここにいる博柚が佳人から美人に位が上がるわよ。あたしが準妃になって西苑(さいえん)から出ちゃったから。繰り上がり人事みたいなもんね」
「あら、それはおめでとうございます」
普通にグッドニュースだ。
けれど、博柚さまの顔は渋い。
「翠さま。私がなにもしないで美人の座に収まったかのようなおっしゃり方を、やめていただいてよろしいですか?」
「そう言われるほどなにかしてたかしらあんた」
「翠さまが出て行かれて混乱していた、西苑の妃同士の連絡会を、私が中心となって組織し直したのですけれど……」
「そうだったかしらね。頑張ったのならいいんじゃない。その調子でこれからも『西苑の妃はこれだから』なんて言われないように頼むわよ」
「はあ……」
今は外、北の宮に出た身なれど、さすがは朱蜂宮(しゅほうきゅう)西苑統括のOGである。
翠さまは今でも後宮の首領(ドン)みたいな扱いらしい。
この人の下で働く苦労を私も深く深~~く知っているため、博柚さまへの同情を禁じ得ない。
そんな、後宮四方山の真面目な話の途中。
「おっおっ、おおぅ!?」
椅子に座って話を聞いている翔霏の足を、明晴さまが可愛らしい拳でぽかぽかとぶっ叩き始めた。
なかなか腰の入ったジャブとストレートで、私の中の拳闘トレーナーが「おめぇの拳は世界を獲れるぜぇ~~!」とだみ声で絶賛している。
けれど、彼の顔には明確な驚きが見て取れる。
まるで「このねえちゃんの叩き加減、他のやつと違う!?」ということが分かっているかのようだ。
ニコニコした笑顔で、打撃を甘んじて受ける翔霏。
多分、翔霏は筋肉の収縮を操作して、明晴さまの拳が当たる瞬間だけ、ふくらはぎをめっちゃ硬くしているのだろう。
「痛いですよ、皇子さま。翠蝶殿下、頭を撫でても?」
「それくらい一々断らなくても良いわよ」
実に珍しいほど、明晴さまにデレ~っとした笑顔を向けた翔霏。
まだ髪の薄い可愛らしい頭を撫でようとするも。
「ふぁっ!?」
しかし明晴さまは、なにかの危機を察したのか、一目散にその愛撫から逃げ出した。
そのまま猛烈な勢いで編み物をしている母、翠さまの胸に飛び込み、むぎゅーと抱くようにしがみつく。
「あらあらさすがにまだ『地獄吹雪の紺(こん)』と戦うには早かったわね」
よしよし、とあまり厚くないお胸に翠さまは、明晴さまの顔をうずめさせた。
「宮中でも、その通り名が広まってしまっているのか……」
一気に奈落へ突き落とされたような顔で、翔霏が凹んだ。
その後もしばらく私は、女性と赤子しかいないゆったりした空間で、ささくれ立っていた心のメンテナンスをたっぷりと行うのだった。
「央那」
帰り際、翠さまに呼び止められる。
「はい、なんでしょうか」
「大丈夫?」
眠った明晴さまを抱っこした翠さまが、私に短く問う。
私は嘘も誤魔化しも一切交えず、正直に答える。
「……けっこう、いろいろあってしんどかったんですけど。ここに来たら、元気出ちゃいました」
翠さまと明晴さまに会っただけで、エネルギーが満タン以上に充填されたのを感じる。
きっと翠さまは、邪魔ものが入らないで私たちに会える時間を整えるのに、今まで腐心してくれたんだ。
その気持ちを思えば、明日からもまたバリバリ頑張れるさ。
「いつでもあたしはあんたと一緒にいるからね。忘れんじゃないわよ」
それだけ言い残して、翠さまは赤子と一緒に寝所へ入って行った。
ええ、忘れませんよ。
いっときたりとて、忘れたことなどありません。
一人じゃないと思えることが、どれだけ私に力を与えることか。
本当の意味でそれを私に教えてくれたのは、他の誰でもない。
翠さま、あなたです。
「神台邑の立て直しがいい感じに進んだら、また宮中のお仕事に戻るのもいいかもなあ」
兆佳人から譲られた城壁の本を胸に、私は軽く思いついた独り言を放つ。
なんだかんだ、私の魂の還る場所は、後宮や翠さまの側なのかもしれない。
「麗央那がそうしたいなら、私も皇城で近衛兵にでも志願してみるかな。女を募集しているのかどうかは知らんが」
「翔霏だったらお城のみんな、泣いて喜んで歓迎してくれると思うよ。近衛兵がダメでも、後宮専属の女性武官とか、確かいるはずだし」
朱蜂宮の南門がそうだった。
外側は男性武官でも警護できるけれど、男性の入れない内側は、巌力(がんりき)さんのような腕自慢の宦官や、訓練を受けた女官が門衛をしていたからね。
そういう特殊な女官に変装して、この皇城でかつて、私の邪魔をしてくれた人がいる。
尾州(びしゅう)の策謀に従い、私の監視をしていた間者の、乙さんのことだ。
銀の龍に祈ったあの夜から今になって。
私と姜(きょう)さんの関係は、果たして改善したのだろうか。
それとも、余計に拗れてしまったのだろうか。
「翔霏ゴメン、明日は私、ずっと中書堂に籠りっぱなしになるかも」
腿州に帰る前に、どうしても調べたいこと、会っておきたい人がいることに気付き、翔霏に頭を下げる。
「構わんぞ。想雲(そううん)か誰かと適当に遊んでるさ。芝居でも見に行くかな」
親友は勝手な私に嫌な顔一つ見せず、涼しげに言ってくれた。
そう、この街にいるからこそ、知って学べることがある。
「円の外周はわからなくても、あんた一人のことくらい、私は知って、理解してやるからな」
建て替えられたピカピカの中書堂を眺める。
心の中で呟き、通い慣れた司午別邸へと私は帰った。
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