二百七十六話 幸福な城都

 今朝は変な夢を見た気がするけれど、覚えていない。


 晩冬の節句である希春(きしゅん)のお祭りが、豆撒きとともに楽しく終わって、その少し後。

 私と翔霏(しょうひ)は馬に乗って、皇都の河旭城(かきょくじょう)に向かっていた。


「農業研修の中間報告のために、なんていきなり言われたけどさ。きっと翠(すい)さまも私にしばらく会ってなくて寂しいんだよ」


 と、私は都からの召喚命令を、自分に都合の良いように解釈する。

 

「ヒメさんは赤ちゃんの世話でいっぱいだから、麗央那のことなんて気にしてないと思うぜ」

「メエ、メェ」


 横から要らぬ突っ込みを入れられた。

 あ、軽螢(けいけい)とヤギもいたわ。

 そう、都に行けば翠さまの赤ちゃん、明晴(みょうせい)皇子もいらっしゃる。

 また会えるかな~、どれだけおっきくなってるかな~、とワクワクが止まらない。

 

「勉強の成果はその都度、朝廷にも翼州(よくしゅう)にも文書で送っているが、会って話し合いたいこともあるのだろうな。難しい話は麗央那に任せる」


 浮かれている私の真ん前。

 同じ馬をタンデムしている鞍上で、翔霏が冷静に考えを述べる。

 確かに籍(せき)先生のもとで勉強している農学の情報に関しては、子細漏らさず公的機関に報告をしている。

 けれど、シャチ姐の船に乗って東海をアドベンチャーしたあたりのことは、わざと話をはぐらかして、私たちの関与を曖昧な状態にしているのだ。

 あくまでもあれは椿珠(ちんじゅ)さんと、シャチ姐たち東海船団の仕掛けた商売。

 私はよく知りません、と言う態度でしらばっくれている。

 腿州(たいしゅう)でのんびり勉強していても、お役人が私たちに干渉して来ない、ということは。

 姜(きょう)さんの側でも情報を握り潰してくれているんだ。

 けれど、勘のいい翠さまあたりには、色々とバレて疑われても仕方がない。

 一応、角州公(かくしゅうこう)の得(とく)さんには、口止めしておいたのだけれど。

 あまり効果はないだろうな。


「河旭に来るのも久し振りだなあ。相変わらずでっけぇ城壁だ」

「メエェ!」


 軽螢が懐かしさとともに嘆息する。

 首都を取り囲む巨大城壁が視野に入ったのだ。

 この都城にはちょっとした秘密、と言うほどでもないのだけれど仕掛けがある。

 私たちが今来た南側の城壁と、翼州(よくしゅう)方面に構えられた東側の城壁は、一段低いのである。

 反対に北側と西側は高く、ぶ厚く、武器を発射するための穴や、見張り櫓が多い。

 これは明確に「北にいる戌族(じゅつぞく)」と、過去に反乱を起こした「西南の尾州(びしゅう)」を警戒しているというポーズだ。


「外からあの壁を見ると、厳めしくて冷たそうな街だと最初は思ったがな」


 翔霏も過去の記憶を探り、最初の印象と今とでずいぶん心境が変わったと話す。

 河旭の街は確かに皇帝陛下のお膝元なので、ハイソでお上品なお方が多く住む。

 けれど決して冷たい雰囲気の街ではない。

 整然とした穏やかさと言うのか、流れている空気が優しく柔らかい感じがするのだ。

 皇帝陛下がそう言うタイプのお人なので、街もその威光に染まっているのだろうか。

 陽気さに溢れる南部の相浜(そうひん)や、冷たい潮風に負けない活気に満ちる角州(かくしゅう)の斜羅(しゃら)とは、別世界と言えるほどだ。


「しばらくぶりだけど、みんな元気にしてるかな。早く会いたいな」


 幸せで暖かな再会の予感を胸に抱きつつ、私は外郭の城門をくぐる。

 明晴さまは初夏の生まれだから、まだ一年に少し足りないくらいか。

 赤ちゃんの成長は早いから、きっと驚くくらいに大きくなってるよね。

 もう楽しみ過ぎて、頬がニヤケっぱなしの緩みっぱなしで困っちゃう~。

 脇目も振らずに皇城区画に突進ーーー!

 したのはいいのだけれど。


「おおみなさま、よくいらっしゃいましたな。まずは軍務官僚の方から、ご意見を伺いたいとのことでして」


 出迎えてくれた宦官の馬蝋(ばろう)さん。

 翠さまたちのいるお宮ではなく、東庁の会議室へと私たちを案内した。

 はいはい、堅苦しい仕事の話が先ですよね、わかってましたよ。

 部屋に入った私たちを待っていたのは、お髭の豊かなおじさまと、若い役人だった。


「あ、どうもご無沙汰しております、兆(ちょう)閣下」

「うむ。無事に着いてなによりだ」


 私がかしこまって挨拶したので、つられて翔霏と軽螢も深く頭を下げた。

 お髭のダンディは博柚(はくゆう)佳人のお父さまで、名目的にも実質的にも、今の私の保護者、後見人である。

 私と翔霏が西方の小獅宮(しょうしきゅう)に行くにあたって、沸教(ふっきょう)に縁が深く、なおかつ偉い人の推薦を受けなければならない事情があった。

 そこに合致していたのが兆家のみなさまであり、その件からの縁故となっている。

 お父さまの兆閣下は国の兵事、特に工兵部隊の総元締めみたいな仕事をしていて、神台邑(じんだいむら)の屯田兵計画にも深く関与しているのだ。

 父娘ともに、目つきがちょっとキツい。


「閣下が直々にお話にいらしたということは、邑のことでなにか大きな動きがあったのでしょうか」


 翔霏の質問に軽く頷きを返した兆パパは、お伴の若手役人さんに地図を広げさせた。

 そして説明するのは、こうだ。


「再建案の素描が固まったのでな。特に長老家の応(おう)少年には詳しく意見を聞いておかねば、作業に取り掛かることもできん」 


 要するに、ベータ版の図面が完成したので見てくれと言うことだ。

 神台邑の筆頭主権者は、これはどうしようもなく軽螢なのである。

 いくら国の軍であっても彼の諒解なしで工事を進めることはできない。

 良くも悪くも四角四面で、手続きを重視するのはこの国のお役人さんの特徴だ。


「へえへえ、ふーん、なるほど」


 予定図を前にした軽螢は、あまり深刻さのない顔でそれを眺める。

 そして、気になる点を指で示しながら、兆ダディと役人さんに説明した。


「邑の外にある北西の柿林は、風除けの役目もあるからさ。あんまり伐っちゃダメなんだよなァ。畑を広げるなら東側の方だよ。ここだと日当たりも良いし」

「な、なるほど……」


 役人さんが指摘された箇所に注意書きを入れる。

 軽螢の注文はまだ続く。


「あと、これってお濠(ほり)の外にもう一つお濠を造るんかな? 水は溜め池みたいにするの? 川から引っ張って下に流すの?」


 現在ある水濠の外周に、さらにもう一本の濠を構える計画であるらしい。

 それなら悪いやつが入ってくるのを、かなりの威力で妨げてくれるだろうね。


「それは、ただの防御機構であるからして、流水である必要はないのでは、と」


 役人さんの説明に、ダメダメダメダメ、と言いたげに軽螢は首を振る。


「溜まった水が腐っちまうと、土も腐っちまうし、変な虫が湧いて病気が増えるんだよ。面倒でもちゃんと上流下流に繋げて水は通した方が良いって」

「た、確かに、その通りでありまするな」


 ダメ出しされて、額に汗を浮かべる役人さん。

 気のせいか、その様子を見て兆閣下が微笑している。


「あとさ、畑を広げたいのはわかるンだけど、そうすっと他の邑に流れる水の量が減るだろ? みんなで使ってる川なんだからサ、うちばっかり好きなだけ使うわけには行かねンだよ。どこの邑も使ってない沢を探して、そっから引っ張って来ないとなァ」

「小官の計算では、水の量に不足はないのでは、と……」

「それは普通の年で見た水量の計算じゃねーの? いくらでも干ばつとかあっからね? みんなそこをなんとかやりくりしてやってんだかんな?」


 今度は気のせいではなく、兆閣下はウンウンと頷いていた。

 ああ、これはきっと兆閣下の仕組んだことだな。

 若い役人さんが作った予定図に、まだまだ穴が多いことを理解したうえで、それでも教育のため、あえて軽螢にビシバシ突っ込ませているんだ。

 現場の意見を生で聞く機会を得られて、役人さんにとってもいい勉強になるだろう。

 ちょっと厳しいやり方だし、私だったら凹んで泣いちゃうけれど、効果の高い実地教育だよなあ。

 やっぱり娘さんと同じで、お父さんもちょっと意地悪だというのが、なんだかおかしかった。


「貴重な意見だった。礼を言う」


 一通りの改善案を出し尽くした後。

 シュンと小さくなっている若い役人さんと対照的に、鷹揚に笑う兆閣下からお褒めの言葉をいただいた。


「うちの軽螢が生意気ばっかり言って、申し訳ございません」


 とりあえず頭だけは下げておく。

 お髭を指でしごきながら、兆閣下は言った。


「応少年、河旭にいる間、儂の屋敷に泊まるといい。邑のことでもう少しばかり、込み入った話もあるからな」

「タダで泊めてくれるんなら、俺はどこでもいいけど」


 と言うわけで、素直に誘いに乗った軽螢とヤギは、兆家の屋敷へ。

 私と翔霏はいつも通りに、司午家別邸に逗留することになった。


「兆のおやじさま、軽螢を気に入ったのだろうかな」


 いつもの豆腐屋で揚げ豆腐を買い食いしながら、翔霏が言う。

 軽螢は誰が相手であっても物怖じせずに懐に入り込むので、特に年配の方に人気が高いのだ。

 おじいちゃんおばあちゃんにおやつを山ほど渡される孫、みたいなポジションが染みついているのだな。

 

「邑のことになるとホント、びっくりするくらい頼もしいよね。隅から隅までなんでもわかってるし」

「そうだな……」


 私の意見に、翔霏が街を眺めながら語る。


「陛下がいますこの街も、陛下と同じく穏やかなのだとすれば、新しい神台邑がどんな邑になるのかも、軽螢次第だということか」

「不安なような、楽しみのような、複雑な気分だねえ」

「まったくだ」


 ケラケラと笑いながらそんな話をして、私たちは司午別邸の門をくぐった。


「いらっしゃいませ、央那さん、翔霏さん。道中さぞお疲れだったことでしょう」


 見ない間にすっかり精悍になった想雲(そううん)くんが、私たちを待っていた。

 驚きの顔を翔霏が浮かべる。


「ずいぶんと鍛えたな。怠らず励んでいたのがわかるぞ」

「本当ですか? でも、まだまだです。翔霏さんこそ、あの『南川無双』に勝ったという話じゃないですか」

「あいつの話はするな……思い出すだけで大声が頭に響いてやかましい」


 体育会系の二人がバトルトークをする横で、私にはナンパ書官の獏(ばく)さんが絡んできた。


「央那ちゃん央那ちゃん。会ったら聞こうと思ってたんだ。ちょっと算術の勉強で、わからないところがあるんだけどさ」

「知らねーわよ。ちゃんと中書堂の試験に受かったあんたがわからない問題を、予備生ごときの私がわかるわけねーでしょ」

「そう言わないでさあ、この本にある、円の外周に関する問題なんだけど」


 勝手に私に本を見せて、獏さんはぺらぺらと喋る。


「円の半径、直径が定められていても、円周の長さを正確に導くことはできない、って、この本にあるんだよね」

「そりゃそうですよ。円周率は割り切れません」


 分数でも表すことができない、いわゆる「無理数」というやつだ。

 割り切るのも最後まで書くのも、無理っすぅ、ってかガハハ。

 ちなみに私は、東京湾沿いの同人誌即売会で「円周率」を何十ページも書き連ねているだけの本を買ったことがある。


「それはわかるんだけど、普段は僕ら、円の外周は直径の八分の二十五って習うじゃん?」

「あー、そうみたいですね。私は外国生まれなんで馴染みがないんですけど」


 昂国(こうこく)は八の倍数や、二、四、八で割り切れる数が好きな国である。

 そのため円周率も八分の二十五、要するに「3.125」として扱い、便宜的に計算する習慣があるのだ。

 八で割る、しかしほんのちょっとだけ余る、というのがこの国の人にとって、直感的に理解しやすいのだろう。


「この本の問題では『更に細かく計算した場合の円の外周は、八分の二十五より大きいか、それとも小さいか』ってあるんだよね。こんなのどうやって計算すればわかるのかなあ。物知りな央那ちゃんでもわからない?」

「三角関数じゃん、それ」


 有名な大学入試問題の解説動画で、ちらっと見た記憶があるぞ。

 確か「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」って問題だったはずだ。

 けれど私は残念ながら、埼玉の一般中卒女子ですのでね。

 高校生が習う分野の数学はマスターしていないのでございますよ。

 ン、いや待てよ?


「三角比をゴリ押しで計算しまくれば、円に極めて近い正多角形の外周の長さを求めることはできますね。あくまで近似値ですから証明には不十分ですけど」

「央那ちゃん、ごめんちょっとなに言ってるかわからない」


 ボンクラ獏野郎に、私は二等辺三角形の「角度と斜辺と高さ」の関係を教える。


「例えば底辺が1で、底面の斜角が45度……直角の半分の三角形があったとします。こいつの高さは1で、斜辺は1.4くらいになりますよね」


 正確には√2、いわゆる三平方の定理である。


「ああ、それなら知ってる! 底が四、高さが三の直三角なら、斜辺は五だ! 懐かしいな、若い頃に勉強したよ」


 ピタゴラスさんと同じ発見をした人が、この国にも遥か昔にいたようだね。


「この計算方法で、高さが凄く低い、角度が凄くとんがった三角形の辺の長さと比を求めて、その三角形をずらーっと並べて組み合わせれば、円に似た形のなにかを造ることができます」


 要するに、八等分のピザ的な三角形を、十六等分とか三十二等分にするやり方だ。

 これを細かくすればするだけ円周率の真の値に近付くので、気合い入れて計算すれば、きっとなんとかなるわけだね。

 仮に底面の鋭角が10度、底辺の長さが1の直角三角形があり、その高さがXとわかったとする。

 計算ではなく、実際の測定とかでもいいので。

 それを36個、ぐるりと繋げれば「半径が1の円の外周はXの36倍」にかなり近い数字になるだろう。

 私は面倒臭いし時間もないので、計算を手伝ってやらんけど。


「なるほどなるほど。その考え方で確かに近い数値までは解けそうだよ。ありがとう央那ちゃん」

「いえいえ。ところでどうして獏さんが急に数学なんか? あなた西方言語の翻訳が本業でしょ」


 そう聞くと、獏さんは照れくさそうにほっぺたを人差し指でかいて、白状した。


「いやあ、僕も央那ちゃんたちの邑で土木や建築の仕事ができないかなと思って、測量の勉強を始めたんだけどさ。いい教材がないか調べてたときに、この本を見つけちゃって」

「え、ちょっとやめて、いきなりそんなイイ話するの。誰も頼んでねーし?」


 お前なんかに泣かされたくないんだが?

 やだもう、私たちのことなんか気にしないで女でも引っかけてろよお前は!!


「どんなものかめくってみたら、思いのほか面白くてさ。つい夢中になっちゃって、ここまでの問題は全部解いたんだよ。これだけどうしてもわからなくてね」


 これ以外は全部解けたって、こいつ地味にやるな?

 私はちょっと、自信がない。

 ギギギ、くやしいのうくやしいのう。


「確かに難しいですよ、この問題は。誰だこんな意地の悪い難問を作ったやつは」


 これ書いたやつ、本当にこの問題をちゃんと自分で証明できるんだろうな?

 他の問題もずいぶんと、簡単なようでややこしそうなのがずらりと並んでおるわ。

 と思いながらぺらぺらと、最後までページをめくってみると。


「編、除葛(じょかつ)、姜(きょう)……」


 巻末に、小さく、けれど誇らしさも感じる堂々とした筆跡で、その名が記されていた。

 驚き固まる私に、獏さんが教える。


「除葛宰相が、若い頃に編んだ本なんだってさ。これを見て先代の福城帝(ふくじょうてい)は、いたく感激なさったらしい。知の力で地を治めるために、このような書を作る人材がこれからは必要なのだ、って」


 うわの空で、私はページをめくり直す。

 実用的なだけではない、ただの面白問題のような遊び心のある数学パズルも、本の中にはぎっしりと詰まっていた。

 ごく簡単な最初の問題から順番に解いて行けば、知らず知らずのうちに数学が好きで得意になっている、そんな本を目指したんだろう。

 あの人、政治家なんかにならず、研究者や学者になってた方が良かったんじゃないかな、と思うくらいに。

 きっと姜さんは、この本を作っているとき。

 楽しかったんだと、はっきり伝わるようだ。

 自分が勉強してきたことを形に残せる、ただそれだけで、たまらなく嬉しかったに違いない。

 それを、ときの皇帝が拾い上げて、素晴らしいと褒めてくれて。


「人生かけて、尽くしたいと思うのも無理ないか……」


 まだ、魔人ではなかった、幼い麒麟と呼ばれていた頃の、除葛姜と言う男。

 彼がこの地に残した、一冊の宝物。


「お、央那ちゃん……?」


 不安げに見つめる獏さんをよそに。

 私はとても幸せな気持ちで、その本を抱きしめ続けた。

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山河の果て蒼穹の彼方、響いて届け私の聲よ ~泣き虫れおなの絶叫昂国日誌・第七部~ 西川 旭 @beerman0726

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