第30話 冷たい月は見る

 理香が煙草を地面に擦り付け、僕が持っていた携帯灰皿に捨てる。重く苦い紫煙が霞むころには、僕の左肩に理香が頭をぽふりと置いていた。僕も少しだけ、彼女の負担にならぬよう少しだけ体重を理香の方へとかけて、彼女の頭のすぐ上に頭を持っていく。その行為はまるで、互いに必要とし合うようで、互いに依存し合うようで。その思考を慌ててなくそうと外を見た。


外では変わらず肌刺す冷気と夜に映える白雪。風は然程なく僕らを包む大気と同化している。あの時もそうだった。来るときこそ酷かったが、駅に着くころには僕の味方だった。そして彼女も……。


「なにか悩みごとかしら?」


「……いや、大したことじゃないさ。でもなんで?」


「いえ、だいたいこういう時って、智樹くんから話し始めるじゃない?ここに来てからはそれがなかったからよ」


「悩み、か。いや本当に大したことじゃないよ。どうやって生きてこうかなってだけ」


「だいぶ大したことじゃない……まあ、こんなくだらない嘘を吐く理由は大体分かっているつもりよ」


「僕が悩んでいた理由、分かるのかい?」


「ええ。けれど……これは私が言う必要は絶対にないわ。だって――」


 そう言いかけ、理香はやめた。珍しく目を伏せ視線は自身の手のひらに向かれている。きっと僕らはつながり合っている。互いの話をして、互いの生活を垣間みて。そして今では互いが生活の一部だ。大抵のことは言わずとも分かるようになったのだ。口に出さずともそれぞれの表情、行動、目の煌めきに泳ぎがあって、それらが互いに理解させるのだ。だから彼女は。でも、決して否定はしないし責めることもしない。


僕にはそれがとても、ありがたかった。きっと優しさというのはこういうことを言うんだなと思った。たまらなく胸が熱くなり、こみあげるものをグッと堪えて僕は、理香の手をソッと握った。彼女はピクリともしなかった。それがまた心地よかった。


 しばらく無言のまま駅舎のベンチに座っていたが、やがて理香の方から動き出し、引き戸に手をかけた。僕も彼女の手を取って一緒に出る。2度目に会った時と同じように、しかしなんの疑いもなく動く。


外に出てみればもう雪は止んでいた。夜の海辺にポツポツと人家の明かりが見える。さながら地上に落ちた星だ。その合間を縫うように闇がいて、彼らはいつどこでも僕らのことを見ている。地面に積もった雪がギュッ、ギュッと音を立てる。足跡を残す。いつかの日のように2人分の足跡を残す。


ふらつくことなく真っ直ぐ国道に出る。それもすぐに横切り、誰かとの3度目の青森の海へと出た。防波堤の積雪を払い落とし、2人で腰掛ける。海は青ではなく黒。しかし夜とはクッキリ分かれていて、まるで別の世界の夜がこちらから見えているみたいだった。2人でしっぽり煙草を喫み、やがて僕から話し始める。


「そういえばどうして、ここに来たんだっけ?」


「私が誘っただけよ。……次の賞が近かったし、ひさしぶりに来たかったの」


「たしかにそんな理由だったかも」


 手を握ってぼんやりと海を眺める。先ほどまで出ていた月の姿は雲に隠れてしまっているようで、僕はそれに少しだけ安堵した。しかし直後、安堵してしまった自分に気づき、胸がチクリと痛む。理香は手がいつもより温かく、きっと眠いのだろう。しかしその顔に眠気はなく凛としていた。金のボブカットがサラッと揺れる。少し傾いた肩は僕の二の腕にあって、彼女の息づかいが触覚として伝わる。着こんだコートやニットについた香りがする。顔を埋めてしまいたくなる。


「ねぇ」


 理香が呟く。僕は今と向き合うためにも、彼女の方に視線と顔を向けた。そして――




気づけばキスをしていた――。




それはゆっくりと、時間や空気や過去を溶かしてしまうほどの熱に満ちていた。初めてではない。ここでするのも初めてではない。しかしこれほど質量や法則に反する、決して姿を見せることのない真理が見えているような、そんなキスは、初めてだった。彼女の表情は見えない。きっと彼女からも僕の表情は見えていないだろう。今見えてしまったら、僕は崩れてしまう。


ゆっくりと唇を離していく。等しく溶け合っていた時間も感情も心も元に戻り、世界は再び真理を隠した。一瞬でしかなかったがその姿を垣間見てしまった僕は、なにか自分がいけない存在なのかも知れないという特別感を抱かせた。彼女は変わらず凛としているが、その頬は赤ではなく桜だ。真冬に春が訪れている。


「どうして急に?」


「いえ……なんとなくよ。ここでしておかなければならない、そう感じたの」


「……そっか。きっと合ってる」


「そう?ふふっ、なんだか不思議ね。見たこともない相手に嫉妬してるみたい」


「そんなことないさ。理香の想いは僕の想いでもあるから」


「……なら、きっと大丈夫ね――あっ」


 何かに気づき、指をさす。「もうすぐ出てくる」という理香の声は若干うわずっている。指差した方を見ようとする間もなく、雲に閉ざされていた薄明かりがだんだんと地上を照らし始める。それはやがて完全なものとなり、空に照明が現れる。


「青い、月」


「ふふっ、なかなか綺麗ね」


「確かに。すごく綺麗だよ」


「あら、告白かしら?」


「そうかもしれないね。でも、僕らに確認はいらないよ」


「私は改めてきちんと言うわ。……私は智樹くん、あなたが好きよ。これは恋じゃなくて愛ね」


 薄明の青月が照らす下、僕らはもう一度キスをした。

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