第29話 温もりを求めて
***
「なんだかここも、随分ひさしぶりね。智樹くんはあれからここに来たの?」
「いや……あの夏以降は行ってなかったから、僕も随分ひさしぶりだね」
「ふふっ、それに私と一緒に行くのは初めてじゃない?」
「……そうだね。なんだか新鮮かも」
「それに夜だもの。この辺りは暗くて、遠くは見えないわね」
一定のリズムで揺れる車体は寒空と仄かに降る雪を切り裂くようにしてレールの上を走る。煌々と車内を照らす明かりはきっと、外から見ればひどく目立って見えるだろう。僕と理香が乗っている車両には他に誰もおらず、強くかかった暖房のゴウゴウという音と僕らの会話が車内を賑やかに演出する。以前も似たような状況下にいた。しかしあの時とは全く逆と言って良い心境である。だってこんなにも、息が落ち着いている。
汗は着込みすぎた衣類のせい。あの時感じていた風と雪の嘲笑も今となっては聴こえない。鼓動はゆったり安らかで、今にも止まってしまいそうなほどだ。微睡む心地の意識にはハッキリと芯が通っていて思考がまとまっている。横にある特別な熱に気を取られ過ぎず、きちんと視界も開けていてまるで、全てを俯瞰して見ているようだ。
そう思えばおもうほど、自身の意識は身体を抜けて電車を抜け、白雪舞う夜と月の世界に見えない身をゆだねる。視線はレールの上を走る電車に向かれている。明かりを持って走る電車、中に乗っているのは理香と僕だ。理香は瞼を下ろしていて、僕も同様にしている。彼らの周りには温もりの帳が降りていて、それがうっとりするぐらい煌めいて見える。――戻ろう、あそこへ。
…………
………
……
「――きて」
温水プールに頭まで浸かっているような感覚。これはきっと夢だ。しかし誰だろう、何かを言っているのがぼんやり聞こえる。そもそも僕はなにをしていたのか……思い出せない。
「――くん」
誰かが僕の名前を呼ぶ。頭蓋から反響し、何度も鼓膜を震わせる。すると、ぼやぼやと風景が浮かんできた。辺りは薄暗く青っぽい。地面が白く、まるで雪が積もっているようだ。水気がその白からたちのぼり、より視界をぼんやりさせる。呼ぶ声は相変わらずあったが、段々遠くなっているような……刹那、走馬灯のようにいつかの僕が映し出された。一瞬で永遠の垣間見。そして最後にハッキリと、まるで僕の真横にいるような距離から名前を呼ばれた。
「トモくん」
間違いなく、
「――まだ」
……カッと開いた目の先には空席。窓には水滴と流れる夜。天井から光が溢れ、暖房が不必要な汗をかかせている。ゆっくり横を見ると理香が眠っていた。スーッと寝息を立てている。
どれくらい寝ていたのか。スマホを開いて時刻と現在地を確認すれば、もうすぐ瀬辺地駅に着くころだった。慌てて理香を起こし、降車の準備をする。電車がガタリ、と揺れてスピードを落とす。身体と精神が一瞬離れる。魂だとか心だとかが何かに引っ張られるように遅れる。過去の引力……いや、気のせいだろう。その証拠として、僕は今の引力に引き戻されて身体にいる。
やがて車体は完全に停止し、蒸気音とともに降車口が開く。料金を払ってホームに降り立つ。続いて降りた理香の吐息は白く、それは雲に似ていた。雪ではなく雲に。空は決して晴れているわけではないが、雲はまばらだ。それがくっきり見えるのは月明かりのおかげだろう。まんまるに浮く姿は、これまたどこかで見たことのあるものだ。しかし今日は青白く、冷たく輝いている。
理香は駅舎に入り一足先に座っている。暗がりに輝く金髪の隙間から目線がくる。こちらにスッと右手を伸ばし、なにかを待っている。それを察し、ポケットから煙草とライターを取り出す。彼女は柔らかく微笑み、それを手に取って火をつけ吸い始めた。僕も横に座って、煙草は吸わずにただ理香を見る。
リズム良く濃い煙を口から吐き出す理香。一緒に過ごすようになって分かったが、彼女は普段煙草など吸わない。恐らくこの瀬辺地でしか吸わないのだ。以前その理由を彼女に聞いたことがある。「きっと、父のせいね」と彼女は言った。その時見せた懐かしむような表情はきっと、僕もすることのある顔だったと思う。過去の引力に囚われたような顔。それは単純な表情じゃないが、心ここに在らずという状態が底抜けに続く……まるで何もない砂漠に水を求めるような渇きと虚無感が表層へと浮き出たもの。
続けば続くほど渇きは酷くなる。だからこそ、代わりを求める。変わることは望まない。代わりでなくとも心は満たせる。今の僕はきっとこれだ。決して理香は代わりではなく、新しい雪であり僕にとって水となっている。だからこそ、気になるのだ。もし彼女が僕と同じように引力を持つ過去に引かれてしまうならば。僕は彼女にとって、新しい引力であり星となれるだろうか。なれて、いるのだろうか?
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