第9話 薄明の駅舎にて

 ゆっくりと彼女から両手を離し、距離を取る。彼女もそれに合わせて両手を離し、ベンチに座り直す。ベンチはハルの座っていた側しかなかったので、横並びに僕も座る。……勢いのまま抱きついてしまったので、何を言えばよいか……。彼女はハルで間違いない。でなければこうして抱擁を交わすはずもない。しかし電話越しでしか会話をしておらず、対面で会うのは初めてで。いざ会ってみたは良いものの、何を言えば良いか僕には、わからなかった。


 散々迷った挙げ句、目を泳がせていた僕の横から、プッと吹き出す小さな笑い声が聴こえてきた。――それは僕の耳元でたくさん聴いてきた笑い声で――横を見ると、口に手を当て目を細めながら頬をあげるハルが見てとれる。それに困惑していると、ハルが目元を手で拭きながら、聞き慣れたふんわり儚げな声で言う。


「もうっ、その時は合言葉、でしょ」


「……!そっか、そうだねっ」


 咳払いをして、いつものように、いつもより早い時間帯に、僕らだけの合言葉を言う。




「もしもし、お時間……いいですか」


「はい、いいですよ!」




 そうして2人、見合って笑う。いつもの声に、初めての姿。それがなんだか可笑しくて、嬉しくて。


 リュックサックから毛布を取り出して身体にかけようとすると「交換しよ?」とハルが言ったので、互いに持ってきていた毛布を交換して、身体にかけた。先ほど感じたハルの体温と香りが残っていて、少し変な気持ちにもなったがそれはすぐに溶けていき、心地良い温もりだけが残った。旅の疲れもあるはずなのに、自然と眠くはなかった。それはハルも同じだったようで、毛布に口元を近づけて、リュックサックに詰まっていた温もりを感じているようだった。僕があまりにジッと見ていたからか、彼女は目に見えるぐらい頬を赤く染め、サッと毛布を口元から下ろす。


「その毛布、前に母さんが買ってくれたものなんだ。冬場はよく膝掛けに使ってて……あっ。あんまり洗ってないから、いい匂いじゃないんだけど……」


「……ううん。なんか、トモくんって感じの匂いで、私は好き、かな」


「そ、そっか」


 ……なんだか、照れてるこっちが馬鹿みたいじゃないか。先ほどのハル以上紅潮しているだろう自分の顔を考えながら、ハルを見る。その視線に気づき、持っていた毛布をギュッと握りながら、彼女はまた顔を赤くする。いまにも耳や口から蒸気が出てしまいそうなほど。


 そうして彼女を見ていてふと思い出した。そういえば名前を言っていない。わざとらしく咳払いをして、名前を告げる。


「今さらだけど……あらためて。トモです」


「ほんとに今さらだね。……私はハルです、トモくん」


 本当に今さらだ。しかもこうして名前を告げるだけでも、心臓の音がうるさいぐらいに鳴る。


 それから僕らはゆっくりと、いつもとは違うけれどいつもどおりに話した。新幹線が遅れたり電車が雪で止まってしまったりしたこと。スマホの電源が切れてしまったり、お母さんの目を盗んでここに来たりしたこと。


 以前にも話したことを、いつもとは違う形で話した。身振り手振りや表情を使って話すと、同じ話なのにハルは初めて聞いたかのように笑ってくれた。電話越しに聞いた笑い声より、こっちの方が好きだなと思った。ハルも自身の過去や経験を詩のように話してくれた。読み上げる声に、目元にかかった髪を耳に上げる仕草。その一つひとつに僕は感動していた。こうして目の前にいるという現実。たったそれだけで、僕はもう胸がいっぱいだったのだ。


 そうして話して1時間が経ち日付けが変わったころに、ハルは手元にあったトートバッグを探って何かを取り出した。不思議に思い見ていると、「じゃん!」と言ってハルは、小さな水筒と弁当箱を取り出した。水筒は魔法瓶であり、中には温かいお茶が。弁当箱には3つ小さなおにぎりがあった。


「これ、食べて」


「……ハルが握ったの?綺麗にできてる」


 ハルは「えへへ」と笑うと、おにぎりを一つとって口に運ぶ。もぐもぐと頬を膨らませて食べる。……するとだんだん眉間にシワができていき、僕に言う。


「……あんまり、美味しくない」


「ふ~ん……よっ、と」


「あっ」


 おにぎりを一つ取って口に運ぶ。そして、噛みしめる……いや、美味しい。晩秋の大気に晒されて冷たく固くなってしまっていたとしても、塩加減がバラバラでしょっぱかったり味がなかったりしたとしても……なにより、ハルが握ってくれたのだ。美味しくないわけがなかった。


「ホントに?」とこちらを心配した目で聞いてくるので、「ホントに、美味しいよ」と心の底からの言葉を告げる。するとハルは下を向いたかと思うと「そっかぁ」と言いながらこちらの肩に頭を預けてきた。危うく落としそうになった食べかけのおにぎりを持ち直し、平然を装って食べる。……不思議だ。心臓はこんなにも脈打っているというのに、心はすごく、穏やかで――まるで長い時間眠った後に来る、心地良い夢のような――そんな、気分なのだ。


 カップ1杯なみなみに温かいお茶を注ぎ、交代で飲む。そのぬくもりも、僕らの間にある熱に溶けた。それがなんだか嬉しくて、むず痒くて。――今でも、夢に見るほど印象的な現実だったように感じる――。

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