第10話 月に灼かれて

 おにぎりを食べ終えお茶を飲み干すころ。「ふぅ」と互いに白い息を吐きながら、充足を過剰したものを吐き出すと、ハルが瞼を擦り、我慢するようにあくびをする。どうして我慢する必要があるのか、あえて分からないフリをしつつ、その仕草にまた可愛らしさを見る。そうした僕の視線に気づいたのか、まるで言い訳をするようにハルが言う。


「あ、あくびって、酸素が足りていない時にするものらしいよ!だから決して眠いわけじゃなくて……」


「……まだ何も言ってないよ」


 そう言うとハルは不服そうな顔をして、あくびで出た涙で瞳を潤ませながらこちらを睨む。まるで子猫のようだ。きっとそうした表情に慣れていないのだろう。可愛いと思う反面、それが少し悲しいもののように思う。そうした者はこの世に何千何万といるはずなのに、ハルに対しては過剰にそう、思ってしまうのだ。


「からかって悪かったよ」と少し笑いながら言うとハルも笑い、それからハルが何かを思いついたかのように立ち上がり、提案をする。……中学のジャージを上下に纏い、その上に薄い赤のマフラーを巻いている。先ほどまで見ていたにもかかわらず、その立ち上がった姿と嬉しそうな顔に見惚れていた……。


「ねえ、聞いてるの?」


「あ……ごめん、なに?」


「もうっ、まだからかってるの?」と細そうな腕を滑らかな小さい胸の前で組みながら、頬を膨らませてハルが言う。「違うよ、ごめんごめん」と顔の前で手を合わせながら謝ると、ハルはひと息ついてもう一度、言ってくれた。


「少しお散歩しない?ほら、せっかく津軽まで来てくれたし……」


「いいね、行こう」


 そう言うとハルは嬉しそうに僕の腕を引き、颯爽と歩き出す。駅舎から出るとすでに風と雪は止んでおり、穏やかな夜と、空に立ち込める薄雲が見てとれた。ハルと僕は薄く積もった雪を踏み締め、駅舎から民家を通り抜けていくと、国道280号に出た。道路に沿って民家が建ち並んでいるが、どこも明かりは点いていない。それもそのはず、時刻は0時をとうに過ぎ、あと30分もすれば1時である。車もほとんど通っていないようで、ハルが言うにはこの先をずうっと進んだ先には外ヶ浜町という(面積的に)大きな町があるのだとか。


 橋を渡り、国道280号を外れて、潮の匂いが鼻をほのかにくすぐる場所まで来た。雪を2人が座れるぐらい岸壁から払い落とし、そこに並んで座る。少しの海音とうっすら見える、大間の半島。それが見えるのは雲の隙間から溢れる月明かりのおかげだろうか。横を見れば、ちょうど同タイミングでこちらを見たらしいハルの顔。お互いすぐに顔を逸らして、そしてまた見る。また笑って、海に視線を向ける。


「この先に大間があって、あっちには北海道!……私ね、泣きそうな時とか、お母さんと喧嘩しちゃった時はこうして、この堤防に乗って海を見るの」


「へぇ……なんだか、ロマンチックだね」


「そうかな?……でも不思議と海を見ていると、心が落ち着くの。なんだろうね?」


 そう微笑みながら言うハルに僕は、なぜだか羨ましさを覚えた。嫉妬……というほどではないが、それがハルの見ている、僕の見えない世界であり、きっと僕もその世界へ行きたいのだと思う。それはハルがいるからというのももちろん、自分が抱えている理想に対する問題の解決視点があると感じたからだ。……でもそんな感情や考えもやがて海に沈むように消えていき、残ったのは彼女の笑顔だけだった。


「……あ!見てみて!」


「ん、どれ?」


「もうすぐだよ!」と言って細くしなやかそうな腕をめいっぱい上げ、人さし指で空をさす。すると薄くなっていた雲が途切れ始め、そこから今までの暗闇が嘘であったかのような光が目を刺激する。そこに浮かぶは月。僕らのために顔を出してくれたのかと錯覚してしまいそうなほど、悠然としていて美しい満月。思わずその光に見惚れていると、横でこちらに顔を近づけ、微笑みながら目を細めるハルを視界の端に捉える。「どうしたの?」と言うとハルは――




「月が……綺麗ですね」




 そう言ってから今までよりも頬を赤らめ、こちらを見つめる。その一言に――この時の僕は、その言葉の意味は知らなかったが――湧き上がる、込み上げる熱と彼女の引力に自然と引き寄せられ、ハルとの距離をさらに縮めた。


「うん」


 ハルの吐息が僕の鼻をくすぐる距離で言う。ハルはそれにくすりと笑うと、目を閉じた。僕の手は気づけば彼女の手を覆い、これまでしたこともないくせに、想像すらしたこともないくせに――無意識に、彼女の唇へと自身の唇を重ねた――。触れ合ったとき、そしてそのまま重ね合わせた約10秒間。その間に僕は、この2人の間にある想いと世界を知った。想いは遠く、けれども熱を持っていて。世界はそれを見守るようで、簡単に弾いてしまう。


 唇を離したとき、またハルがくすりと笑う。だがその笑いには湿度と熱と、ときめきがあった。この時ようやく知覚した。というより、言葉にはっきりと表せるようになっていた。




 僕はハルが好きだ。そしてそれを言葉にする前に、キスをしてしまったのだと気づき少し、後悔した。

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