第8話 雪と風の嘲笑

 津軽線のホーム。雪と風が強まっていき、その冷たさが僕の中に蔓延る。最初こそ気にならないほどだったが、徐々に僕の身体を蝕んでいき、やがて嫌な予感をさせる。スマホの淡い光に浮かぶデジタル時計には22時12分の表示。電車が到着し発車する予定であった22時10分を過ぎているが、電車が来る気配はない。寒くブルリと揺れる身体に、東京駅で流した汗と同じものが首筋を伝って背中まで届く。


 荒れていく天気の中で、アナウンスがほとんど無人のホームに鳴り響く。


『本日は津軽線をご利用いただき、誠にありがとうございます。お客様にお知らせいたします。5番線、22時10分発の蟹田行き電車は――』


…………


………


……


 アナウンスから20分後、空中で雪が踊り風が囃したてる中を電車が停車する。わずか2両編成のワンマン電車に乗り込み、無駄に広く感じる席にポツリと座り込む。やがて電車が重い腰を上げてゆっくりと発進し、ガタリゴトリ僕の身体を揺らしながら、線路の上をのんびり進んでいく。青森駅周辺はビルや民家の明かりが窓の外から確認できたが、一駅過ぎた時点で窓に映るのは闇と風と、空に乗って流れる雪のみ。赤いランプを点滅させる踏み切りの音がドップラー効果で不安感を煽るように耳に届き、その度に心がキュッとしまる。


 ……トラブルこそあれど僕はまだ平然としていた。否、平然を装っていた。そうしていた方が闇に呑まれずに済むし、小さく儚い光に向かって進んでいる僕はいま、きちんと現実にいるような気がして……大丈夫、そのはずだった。しかし電車がゆっくりと左堰駅に停車し、乗ってくるはずもない乗車口が開いて、閉じて。その後の、駅員が機械的にアナウンスをするとき、もっていた大丈夫が理想であったことを思い知らされる。


『この電車は雪のため、一時運転を見合わせます。お急ぎの中――』


 ヒュッと音が出そうなほど喉が締まり、視界がボヤける。――下を向けない――そう思い、窓に張り付く闇を見る。窓ガラスに反射して映る僕の顔はぐらぐらと揺れ、まるで闇がみっともない現実に引き摺り込んでいくような気がして……外を見るのをやめた。それでも外からは風と雪があざ笑うかのようにビュービューと吹き荒れ、思わず目をギュッと閉じて、両手で耳を塞ぐ。


 手のひらからなのか、心臓からなのか、ドクンドクンと脈打つ音に乗せて、心の音が脳に届く。――ただ、会いたいだけなんだ。どうして邪魔をするんだ。やめてくれ、やめてくれ。笑わないでくれ、馬鹿にしないでくれ、どうか――




ハルと、笑わせてくれ――。




         ***




 降車口が開き、料金を払って電車を降りる頃にはもう23時半を過ぎていた。外の風はゆっくりと僕の肌を撫で、雪はほとんど真っ直ぐふわりと宙を漂っている。固いアスファルトには白雪が数センチ程度積もっており、踏み出すたびにサクリギュムリと音を鳴らす。薄らぼんやりと明るく見えるのはきっと、雪と潤んだ瞳のせいだ。


 瀬辺地駅周辺は静かに、大地が広がって横たわっていた。海が近いのか、潮の匂いが鼻腔を刺激する。その中にポツリと佇む駅舎の中――




 1人の少女が座っていた。


 


毛布をぐるりと巻いて、スマホをギュッと膝の上で、両手でキツく握っている。ふんわりとしたセミロングの黒髪が街灯に照らされてきらりと光っている。力なくガラガラと駅舎の扉を開くと、座っていた彼女はゆっくりこちらに顔を上げ、そして目を見開く。やがてその目はぐにゃりと歪んで、何かを言おうと口をふにゃりとさせ、持っていたスマホを落とす。


 僕もずっと、心臓からの音が鳴り止まない。この時僕はどんな顔をしていただろう。何を言おうとしていたのだろう。ゆっくりと、落としたスマホを放置して立ち上がる彼女を目にした時――何か大切なものは、ここにあったんだ――そうして、抱きしめた。嗚咽混じりに震える身体を必死に抑えながら抱いた。すると背中に温かい、小さな手の温もりを感じる。彼女の頭が僕の胸にコトリと落ち、その震える小さな身体で僕を、抱き返してくれた。2人の吐息と脈と震えが混ざって、闇に小さな花を咲かせる。それはきっとコンクリートに咲く小さなちいさな花に過ぎないけれど。


震えがおさまっても、涙は溢れた。せき止めていたものが外れた。それが温度だったのか物だったのか、溶け出したのか外れたのか。どこから来たのかも分からずただ、溢れ出る水は2人の間に小さな湖畔となって、僕らをしんみりと映し返していた。――温かい。迫る冬寒さだとか夜の冷たさなんて、どうでも良くなるぐらい。これまで感じていた全ての不安や恐怖が、浄化されていくぐらい――。


 閉め忘れた引き戸から夜が寄り添い、街灯が包み、時間が味方をしてくれた……。そうして抱き合い、泣き合い、望んでいたことが果たされた時。この世界は僕らのものだと、まだまだ短い人生の中で感じた。地球いや、この宇宙が巡り合わせた僕らの心。そしてそれがどんな形をしていて、どこにあるかを、僕はこの時知った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る