第3話 報告
時計の針は九時を回っている。
「お父さんとお母さん、まだ帰って来てないの?」
風呂からあがった中学生の妹が、タオルで髪を拭きながら尋ねてきた。
「残業かな。でも、二人揃っては珍しいな」
夕飯もすませて、チビたちは風呂も宿題も済ませていた。いまはテレビのバラエティ番組に夢中だ。また暴れ出す前に、僕は自分の宿題を進める。
ガチャリと玄関が開く音がした。
「あ、帰って来た。お帰、り……」
居間に入って来た父さんと母さんの顔を見て、すぐに言葉をしぼませる。
二人とも肩を落として、覇気がない。明らかに悪いことが起きたと、何も言わずとも伝わって来た。僕は何も言わずに、残っていた夕飯を食卓に運ぶ。
しかし、少々がさつな中学生の妹はそんな機微は感じとれなかったようだ。
「お父さん、お母さん。お帰り。遅かったね」
いつもの調子で座り込んだ二人に言う。黙ったままなので、僕も遠慮がちに話しかけた。
「えっと、あ、夕飯食べる?」
「後でいいわ」
明らかにおかしい。それでも、察しの悪い妹は浮足立った様子で話し始める。
「今日大変だったんだよ。お兄ちゃんになんとか学園の人が訪ねてきて」
「いま、学校の話は」
妹の話を父さんが遮った。僕の話は大変な内容だけど、もうほとんど結論は決まっている。それより、父さんたちの深刻な様子が気になった。
俯いたまま母さんが重たい口を開く。
「実はね。会社が倒産することになったの」
「「えっ!」」
いきなり降って沸いた話に、僕と妹は当然驚いた。父さんと母さんは職場結婚だ。結婚後も母さんはパートではあるが、同じ会社で働いていた。
チビたちも僕たちの反応を見て、集まって来る。
「……新しい職場は紹介してもらえるんだよね」
パートの母さんはまだしも、四十半ばの父さんはすぐに再就職先が見つかるとは思えない。
「いや、そう都合よくは。失業保険は下りるはずだけど」
ごにょごにょと言いにくそうに言葉を濁す父さん。本人も不安なはずだ。
ただ、うちは余裕があるわけではない。
貸家の家賃も、何か月も待ってもらえるとは思えなかった。
「あ! わたしいいこと思いついた!」
突如、空気を読まずに妹が叫ぶ。
「お兄ちゃん、なんとか学園の理事長になるわけでしょ?」
思わず深いため息をついてしまう。
「なにを言い出すかと思ったら、今は関係ないし、断るに決まっているだろ」
父さんと母さんも妹を奇異の目で見ていた。それでも、妹は目をらんらんとさせて続ける。
「だけど、理事長にならお金ぐらい貸してくれるんじゃない? 学校を売ってもいいって言っていたくらいだし」
「一体、何の話をしているの?」
母さんはわけが分からないという様子だ。
僕は仕方なくタンスの中から、例の手紙を取り出した。
「これ。向井さんっていう、従慈学園の秘書さんが来て。えっと、実際は理事長からの手紙らしいんだけど」
二人は手紙を受け取ると、のぞき込んで食い入るように読んでいく。みるみるうちに難解な表情をしていた顔が驚きに満ちていく。
「これ、すぐに決めないといけないの?」
「いや、そういうわけじゃ……。三か月以内に放棄すればいいらしいけど」
聞かされたことを口にする。明らかに父さんと母さんの目は期待の光を宿していた。
「この従慈学園をもらったり、売ったりするのは申し訳ないが、お金を借りることは出来るんじゃないか? この坂東さんって人も、透を気にかけていたってことだろうから、苦労することは望んでいないだろう」
「一度、向井さんって人に連絡してみてくれない?」
二人の声から真剣さが伝わってくる。とても、ノーとは言えない。
「……分かった」
尋ねてみるだけだ。まだ九時の少し前だから、すごく迷惑ということもないだろう。
名刺を見ながら、電話に番号を打つ。
何度目かのコールで、「はい」と少し硬い返事があった。
「あ、若狭透です。今日、手紙を届けてもらった」
僕はそれ以上にカチコチとした声でゆっくりと息を飲みながら尋ねる。
「ああ、君か。もしかして、両親からすぐに断れって言われたのか」
「いや、それが……」
かいつまんで事情を話していく。
淡々とした相槌だけが電話の向こうから返って来た。
「事情は分かった。金を貸すことには問題はない。カードローンなどで借りるよりも、安い金利で貸すことが出来るだろう」
言われてカードローンという手があるのかと初めて気づく。
だけど、多くの利息がついた借金を返していくことは大変であることは想像に難くない。親戚などにも、あまり大きな借りは作りたくないだろう。ただでさえ、いろいろと世話になっている身だ。安くつくなら、そちらの方が断然良い。
僕は家族に向けて、指で丸を作る。
「借りられるって」
良かったと、安堵の声が次々に漏れた。
僕も肩の力を抜いたところで、電話の向こうから「ただ」と声がする。
「さすがに無条件とはいかない」
ゴクリと息を飲んだ。どんな条件を言い渡されるのだろうか。
「あの手紙の通り、学園で生活してくれないだろうか。あれは理事長の唯一の遺言なんだ」
拍子抜けするような内容だ。だけど、少しだけ気になることがある。
「唯一?」
学園の将来とか生徒たちに向けてとか、もっと他に言うべきことがありそうだ。唯一の遺言が見ず知らずの男子高校生へ向けてのものだなんて、おかし過ぎないだろうか。
ただ僕が学園で生活するだけで、お金を貸してもらえるなら、こんなにいい条件はないはずだ。
僕は疑問を口に出さずに、向井さんの気が変わらないようしっかりと返事をする。
「分かりました。ただ三か月経ったら、相続を断っても構わないんですよね」
「ああ。もちろん断っても構わないし、受け継いで経営するも売り払うも君の自由だ」
さすがに売り払うことは理事長の意向に沿わないのではと思うが黙っておく。
「では、諸々のことは追って連絡するよ」
電話が切れて、家族に向井さんに言われたことを伝えた。もちろん、全員がもろ手を挙げて僕が学園に行くことに賛成した。
自分だけ責任を負わされるようで不満もあったけれど、家族全員で露頭に迷うよりはましだと思うことにした。
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