第五章 救済の爪痕  その13 命日に

   

 南阿佐谷の駅から地下鉄丸ノ内線に乗り込む姉の姿を確認した井原いはらは、訳の分からない不安に突き動かされて自分も同じ電車に乗っていた。

 朝の通勤ラッシュで混み合う車内に翻弄されながら、姉に気付かれないように距離を置いてつり革に捉まり、普段どおりにお茶の水女子大学に通うはずの姉を見守り続ける。

 電車のドアが満員の乗客を無理矢理飲み込んで閉まると、混み合った車内がさらに耐えがたい圧迫感と閉塞感に包まれ、電車が都心へ向けて重苦しく走り出した。

――今日は姉の身に何かが起こる日だ

 井原が感じている訳の分からない不安がそう告げる。確信はないのだが、それは以前にも体験した悲劇であると、なぜか直感的に理解していて、その悲劇が起こる前に全てを思い出さなければならないという強迫観念が自宅を出る前からずっと付き纏っていた。

「姉さん、おかしな事言うけど、今日だけは外に出ないでくれ。なんかすごく厭な予感がするんだ」

「何よ、それ? どうしたの、急に?」

「いや・・・・・・」

 姉に話しても当然相手にされないのはわかっていたが、何も気にせず一足先に自宅を出てしまった姉を見送ると、井原は居ても立ってもいられなくなり、そのままこっそりと姉の後をつけ、片時も目を離さずにその後ろ姿を追って来た。

 幼い頃、交通事故で早くに両親を亡くした井原にとって姉はたった一人の家族だ。

 両親が亡くなった後、阿佐ヶ谷の祖母の元に引き取られてずっと三人で暮らしていたが、井原が中学に上がった時にその祖母も亡くなり、それからは姉が親代わりとして、あらゆる面で井原の面倒を見てくれていた。

――なぜだろう?

 綺麗に整えたロングレイア―の髪に音楽プレイヤーのイヤホンを填め、ベージュのトレンチコートから革のバックを下げて目の前にいる姉の姿がひどく懐かしい存在のように感じられた。

 すぐ近くにいるのに、手を伸ばしたら遙か遠くにいってしまいそうな姉の姿を見守りつつ、地下鉄丸の内線の電車が都心に向かって進んでいくにつれ、井原は運命の瞬間が刻一刻と近づいている焦燥に駆られた。

 電車が各駅に停車する度に、井原は入れ替わる乗客たちの様子を注意深く窺い、少しでも不審な人や物があったら躊躇せずに立ち向かう覚悟でいた。

 電車が赤坂見附の駅構内に入り、そこで降車する乗客たちを吐き出す。そして新たなに乗り込んで来る乗客たちを飲み込むと、井原はその中に明らかに他の乗客たちとは異質な男の姿が混じっているのを目撃した。

 乗客の大勢がスーツ姿や学生服の中、その男は白い胴着のようなものを上下に着込み、白いマスクをして、手には大きな紙袋を一つ下げて乗り込んできた。

 朝の通勤ラッシュに全くそぐわない風貌をしたその男は、押し込まれるままに車内の通路の中央辺りに収まると、ブツブツと独り言を呟きながら、ずっと天井を眺めていた。

 電車のドアが閉まり、再び電車が圧迫感と閉塞感を連れて走り出す。

 その不審な男の存在に対して、井原の直感が警告を発するように、強い動悸を起こした。 

――この男が悲劇の元凶だ。

「姉さんっ、その男から放れてっ」

 警告に従い、井原が辺り構わず姉に向かってそう叫んだ。

 周囲にいた乗客たちがその叫び声を聞いて一斉に井原の方を向き、何事が起きたのか? と、奇異な視線を注ぐ。

「頼むっ、どいてくれっ。・・・・・・姉さんっ、早くこの電車を降りるんだっ」

 突然騒ぎ立てた井原の声を聞いて車内がざわつき出したが、肝心の姉には井原の声が届いていないのか、音楽を聴きながら平然と吊り革に捉まり続けている。

「その男は危険なんだっ。みんなも早く放れて電車を降りろっ」

「うるさいっ、押すな。危ないだろっ」

 満員の車内で叫びながら通路に立っている人たちを掻き分けて姉のいる方に移動しようとする井原に対して、周囲の乗客たちから非難の声が飛ぶ。

「邪魔だっ、どけっ」

「やめろっ、何をやってるんだっ」

 周囲の迷惑を顧みず、必死に姉の元へ向かおうとする井原を数人の乗客たちが制止して、車内のアナウンスが次の停車駅である国会議事堂前を告げた。

「姉さんっ、次の駅で降りるんだっ」

 何の確証もないまま、遂に運命の分かれ目に差し掛かった事を直感した井原が悲痛な声で再度叫ぶ。それでも姉の耳には全く届かず、制止する乗客を振り切ろうと虚しく藻掻いているうちに、電車が国会議事堂前のホームに到着した。

 電車のドアが開き、降車する乗客たちが勢い良く外に吐き出され、井原もその流れに弾き飛ばされるように外に出た。

 車内にはまだ姉と不審な男が残っていたが、ホームで電車を待っていた乗客たちがすぐに乗り込み、非情にもドアが閉まった。

「姉さんっ」

 電車が目の前を通り過ぎる瞬間、外を眺めていた姉と井原の目が合い、井原に気付いた姉が驚いた顔をして過ぎ去っていく。

 それからほんの数秒後、電車が向かった地下道から眩い閃光と凄まじい爆発音が起こり、井原は悲劇を繰り返した絶望を感じながら、ハッと夢から覚めた。

「・・・・・・ずいぶんと怖い夢を見ていたようですね。お客さん、ずっとうなされていましたよ」 

 井原が目を開けると、心配そうな顔をして井原の顔を覗き込んでいる女の顔があった。

――姉さん?

 夢から覚めたばかりの微睡んだ視界の中で一瞬そう思ったが、どことなく姉と雰囲気が似ているだけで、女は自分よりもずっと若かった。

「すまん、アンタの膝枕が気持ち良すぎてすっかり寝てしまったようだな」

 井原が目を覚ましたのは、行灯の淡い明かりを点した飛田遊郭の狭い一室で、相手をしてくれた遊女の膝枕の上だった。

「時間はまだありますので大丈夫ですよ。どうぞゆっくりしていってください」

 柔和な目尻にまだ少女のあどけなさのようなものが残っている遊女は、井原の額に浮いた汗をおしぼりで丁寧に拭くと、子供をあやすような手付きで井原の無造作に伸びた髪と無精髭だらけの顎回りを撫でた。

 まだ悪夢の余韻で緊張している井原の心身を気遣い、顎回りからゆっくりと筋張った首や肩のラインへ手を下ろして丁寧にほぐしていく。

「今日は何日だ?」

 遊女が施す心地の良いマッサージに身を委ね、多少気持ちが和らいだ井原がふと尋ねた。

「今日は3月20日ですよ」

「なるほど、それでか・・・・・・」

 思えば今日は姉の命日だった。

 三十年前に弥勒世会が起こした地下鉄爆破テロ事件に巻き込まれ、唯一の家族であった姉が被害者になり、毎年この日になると、井原は必ず決まって姉の夢を見る。

 朝、自宅を出た姉を追い、姉が乗る丸ノ内線の電車に乗り込んで姉に起こった悲劇を食い止めようとするのだが、結果はいつも同じ。救えずに悲劇を迎え、絶望しながら夢から醒めるのだ。

 実際にテロ事件が起こったあの日、井原は何も知らずに姉を見送り、自分も普段通りにバスで高校へ通った。

 そもそも現場にいなかった人間がテロの悲劇を救えるはずもなく、姉の死は、自宅で一人姉の帰りを待っていたその夜に警察によって伝えられた。

 その後、連日繰り返される事件の報道でテロの実行犯と姉が同じ車両に同乗していた事が分かり、命日の度に悲劇が繰り返される悪夢が始まった。

「私は小さい時から母子家庭だったので、大事な人を失う悲しみというものを知りませんけど、変えられない過去に苦しむ気持ちは分かります。ここに来るお客さんの大半はスケベ目的ですけど、稀にどうしようもない不安や孤独を癒やすために来られるお客さんもいますので」

 マッサージを受けながら目を閉じてリラックスしている井原に遊女が静かに話かけてくる。

「オレ、膝枕されてる時に何か変な寝言でも言っていたかな?」

 まるで悪夢の内容を知っているかのような気遣いを示す遊女の言葉が気になり、井原が尋ねた。

「信じてもらえるかはわかりませんけど、私、多少人の心とか霊みたいなものが子供の頃から見えてしまうんです。お客さんが寝ている時に綺麗な女性の方が電車に乗っている姿が見えて来て・・・・・・事故でしょうか? その電車が爆発した映像もどういうわけか見えてしまったんです」 

「本当か? それはすごいな。確かにアンタの言うとおりだが・・・・・・」

 井原は自分が見た夢の内容を口にした遊女に驚きながら、俄には信じがたい気持ちで目を開け、ずっと自分を見下ろしている遊女の顔を逆に見上げてジッと観察した。

「どうしました?」

「いや、オレはその、オカルトの類いがどうも苦手でね。アンタが平気で嘘をつく人間かどうか見極めようとしたんだ」

「そうでしたか、それは失礼しました。実は私もオカルトの類いが苦手なんですよ。人の心や霊なんて見えない方がいいに決まってますもん」

 柔和な目尻にはにかんだ笑顔を浮かべてそう答えた遊女に嘘をついている素振りは一切なかった。

「いや、こっちこそ疑ってすまん。職業柄、簡単に相手を信用しないのがオレの悪い癖でね」 

 井原は身体を売るような因果な商売についているにも関わらず、全く擦れていない遊女の献身的な性格に好感を持ち、態度を改めて素直に相手の手に落ちる事にした。

「アンタの言うとおり、今日は姉の命日なんだよ。アンタは若いから知らんだろうけど、オカルトに傾倒したおかしな連中が起こしたテロ事件に巻き込まれて死んだんだ。それからずっと姉の命日になると決まって悪い夢を見る。いつも夢の中で姉を救おうと躍起になっているんだが、今回も失敗した。事件を未然に防ぐのがオレ仕事なのに、こればかりはどうしても救えないんだよ」

 何の力が働いてなのか、井原はたまたま行きずりで飛び込んだ売春宿の相手に完全に気を許して、同僚にも口にした事がない告白をしてしまっている自分が不思議だった。

「時間を延長してもう一眠りしてもいいか? アンタのおかげで今度は良い夢を見れそうな気がするよ」

「はい、お時間になったら起こしますので、ゆっくりなさってください」

 遊女の心地良いマッサージと優しい言葉に何十年も遠ざかっていた安らぎというものを久しぶりに感じ、井原は遊女にすっかり身体を預けて再び眠りに落ちていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る