その12 日雇い労働者、獣になる

 

 昼に突然意識を失った貞雄がぼんやりと目を醒ますと、あたりはもうすっかり暗くなっていた。

 開け放たれたままになっていた窓の外から湿気を含んだ生温い夜風が入り込み、アルコールの臭いと共に部屋の中に滞留して、貞雄の全身が大量の寝汗でぐっしょりと濡れていた。

 意識を失った拍子に扇風機が倒れたのか、電源コードがコンセントから外れていた。そのせいで余計に換気が悪く、不快指数が高くなり過ぎた部屋で、貞雄は失った水分を取り戻そうとする猛烈な喉の渇きを感じた。

 部屋の明かりも付けずに流しに駆け寄り、捻った蛇口から流れる水道水に直で口をつけ、ゴクゴクと飲んだ。それでも喉の渇きは収まらず、今度は酒を求めて部屋の中をうろつき回ったが、あいにく部屋の中にあるものは全て飲み切っていて、空き瓶ばかりが乱雑に転がっていた。

 昼に飲んだ酒が残っているせいか、貞雄の頭に重苦しい痛みのようなものがあり、まだ意識がぼんやりし続けている。それでも喉の渇きを癒やす酒を買うために仕方なく外に出ようと、部屋に脱ぎ捨ててあった薄汚れた作業着のズボンと半袖のシャツを羽織る。

 外に出ると、なぜか空が紫色の闇に覆われ、周囲がどことなく騒がしかった。

 その怪しい空模様と周囲の騒々しい気配に引き寄せられるように、貞雄は文化住宅と古いアパートが犇めく細い路地を抜け、商店街のある通りへ向かった。

 くすんだアーケードの商店街へ出ると、いつもより人通りが多く、酔っ払いながら徘徊するホームレスの怒声や、地べたに座り込んで宴会のように馬鹿騒ぎしている若者たちの奇声がうるさく反響して、ぼんやりとした貞雄の耳に鋭く刺さった。

 数年前からこの商店街に軒を連ねている中国人系のカラオケ居酒屋がその喧噪に拍車をかけるように、大音量で酔狂たちの嗄れた歌声を店の外に漏らし、更に貞雄の神経を尖らせる。

――どないなっとんねん、今日はやけにクソやかましいのぅ。

 執拗に鼓膜を刺激する浮かれた商店街に苛立ちながら、酒を扱う自動販売機の前で立ち止まり、作業着のズボンに入っていた小銭を適当に投入して光ったボタンを反射的に押すと、出て来た日本酒のワンカップをすぐにその場で飲み出した。

 貞雄にとっては水道水よりもアルコール成分が喉を通る時の焼けるような感覚の方が身体が潤っているように感じられ、多少喉の渇きが収まった気がした。

 喉の渇きが癒えると、次は思い出しかのように猛烈な空腹感に襲われ、貞雄はその進路を馴染みの店がある新世界のジャンジャン横町の方に向けて歩き出した。

 商店街のくすんだアーケードを抜けると、空だけでなく、新世界全体が紫色の淡い靄に包まれているような光景が貞雄の目の前に広がり、依然ぼんやりとした意識の中で、目の前の光景が一瞬現実なのか夢なのか分からなくなった。 

 なぜかほとんどの車が立ち往生してクラクションを鳴らしながら渋滞している道路をふらふらと赤信号で渡り、ジャンジャン横町の方へ通り抜けるJRの高架下トンネルに入ろうとしたら、トンネルの入り口手前にジャバラ型のバリケードが張られていて、三人の警察官が警備について封鎖していた。

「なんや? どないしてん、これ? ワシな、腹減ってるからジャンジャン横町へ行こう思ててんけど、通られへんやないかっ」

 貞雄が物々しい雰囲気を醸し出す警察官たちに近寄り、三人の中で比較的若い警察官に向かって酒臭い息を吐きかけながら言った。

「申し訳ありませんが、ただいま新世界で発生した異常事態により、安全確保のためこの付近一帯への立入りを禁止しています」

「異常事態ってなんやねん? この紫のモヤモヤみたいなヤツか? 酔ってるからようわからへんけど、ワシもアンタらも夢見てんのんとちゃうかな? なんでもええけど、ワシ腹へってんねん、早よ退けやっ」

「おたく、ニュース見てはりませんか? あのねぇ、このトンネル行ってもジャンジャン横町へは入れませんよ。線路の上の景色をよく見てください。私にも何がなんだかよくわかりませんけどね、トンネルを抜けた先の道路を挟んでジャンジャン横町もスパワールドもドンキホーテもなぜかなくなってしまったんですわ」

 若い警察官が線路上の先にある新世界の光景を指差し、酔っ払っている貞雄に事情を説明した。

 貞雄が警察官の指し示す光景を見上げると、確かにそこに本来あるはずの建物ものがなく、やけにすっきりとして紫色の靄に覆われた空だけが広がっていた。

「失礼ですけど、おたくこの辺に住んではる方ですか? 見てのとおり道路も混雑して治安も悪くなってますんでね。今日は早めに自宅の方へ戻っていただいて、事態が収まるまでしばらくは仕事以外の外出を控えた方がいいと思いますよ」

 理解し難い状況に呆然としている貞雄に警察官がそう忠告した。

「あ?・・・・・・じゃかましいわ、ボケっ」と悪態をつきながらも、貞雄は様子のおかしい新世界の夜と、頭が重くぼんやりとしたままの自分の意識に言い知れぬ不気味さと不安を感じ、来た道を素直に戻って、再びくすんだアーケードの商店街の中へ入った。

 商店街にある24時間営業のスーパーに寄って、何か腹の足しになるつまみと酒を買って帰ろうと思ったが、店の前に来るとシャッターが閉まり、臨時休業を知らせる張り紙がしてあった。

「なんや、なんで閉まっとんねんっ。24時間営業ちゃうんかいっ。こっちは腹減ってんのに、困るやないかっ」

 周囲の喧噪につられ、思いどおりにいかない不満が貞雄の口から大声で漏れた。

 この時間商店街の中で営業しているのは喧しい中国系のカラオケ居酒屋だけで、他に空いてる食堂や弁当屋も見当たらない。

 とにかく酒とつまみで腹を満たせればなんでもよかった貞雄は、渋々近くにある中国系のカラオケ居酒屋に入ることにした。

 カウンター席だけの店内にはスーツを着た中年の男性客が二人と若い女性店員が一人居て、三人で昭和に流行った古い歌謡曲を楽しげに歌っていた。

「あ、いらしゃい」

 若い女性店員がマイクを持ったまま片言の日本語で来店した貞雄に言った。

「酒とつまみを適当にくれっ」

 貞雄は店内の歌声から逃れるようにカウンターの一番奥の席につくと、メニューも見ずに注文した。

「お客さん、この店はじめて? ドリンクは何がいい? 一番安い焼酎の水割りでいいか? これメニューね、フードもいろいろあるよ? カラオケは一曲百円ね」

「とりあえず焼酎でええよ。カラオケは歌わんし、フードはなんでもええから二、三品適当に出してくれんか、とにかく腹減ってんねん」

「オーケー、わかった。じゃあ、焼きうどん作るね」

 茶髪で化粧っ気のない顔をした細身の女性店員が愛想良く注文を受け、すぐに焼酎の水割りを作って貞雄に出した。

 貞雄はそれを一気に飲み干すと、フードの調理に掛かろうとしていた女性店員に「姉ちゃん、次はロックでくれっ」と、忙しなくおかわりを要求する。

「今日な、昼間からなんかおかしかったんや。気ィ失うみたいに夜まで寝とって、喉渇くし、腹減ったから、ワシの馴染みの店があるジャンジャン横町行こう思たら、あっこのトンネルんとこで警察官に止められてな、「新世界が消えた」とかアホみたいなことぬかしよんねん。ほんで新世界の方を見たらホンマにジャンジャン横町やスパワールドが見当たれへんから薄気味悪くて、なんか頭おかしくなりそうやわ」

 店内に響く歌声に殴られながら、貞雄が妙にざわつく気持ちを落ち着かせようと、捲し立てるように自分の心情を女性店員に話し出す。

「お客さん、ニュース見てない? 今、新世界は異常事態よ。誰も入れないし、誰も出て来れなくなったんだって」

 女性店員がおかわりの焼酎ロックを貞雄に出して言った。

「どういうことや、それ?」

「なんでかは私もわからないし、誰もわからない。通天閣の上にビリケンさんの顔も出て来て、気分が悪くなって倒れた人いっぱいいるみたいだよ」

 焼きうどんを作りながらそう話す女性店員の言葉を聞いて、貞雄は昼間意識がなくなる前に見た巨大なビリケンの顔を思い出した。

「そやっ・・・・・・ビリケンさんやっ、ワシもそれ見て気ィ失ったんや。昼間テレビ観ながら酒飲んでたら急に変な音が響いて来て、頭がボーッとして来てな・・・・・・」

 貞雄が昼間に聞いた不可解な音を頭の中で再現しようとすると、昼間と同様にまた意識が遠くなるような気がした。

 慌てて焼酎のロックに口をつけ、不安を紛らすために焼きうどんを作っている女性店員に何か話しかけようとすると、女性店員が着ていた背中の空いたワンピース姿が妙に艶めかしく思えて、ここ最近しばらくなかった性的興奮を覚えた。

 貞雄の汗ばんだ下半身の一部がムラムラとそそり立ち、興奮した視線が女性店員の背中から腰の方に降りて、ワンピースに隠れてこんもりとしている秘部に集中した。

「はいっ焼きうどん、お待ちどね」

 女性店員が焼きうどんを貞雄の前に置いても、貞雄は厭らしい視線を女性店員に向けたままぼんやりとしていた。

「お客さん、どした? お腹減ってたんでしょ? 熱いうちに食べ・・・・・・きゃっ」

 女性がそう言い終わらぬうちに、貞雄が突然作業着のズボンを脱いで立ち上がり、そそり立つ下半身を顕わにした。

「中国人の相場はナンボやっ、ナンボでやらしてくれんねんっ。姉ちゃん、ワシなんかもうたまらんわっ」

 突然の出来事に驚いた女性店員が悲鳴を上げる。

「ちょっとアンタ何してんねんっ」

 カラオケに興じていた男性客の二人が女性の悲鳴に気付き、貞雄を止めようと詰め寄って来た。

「じゃかましいわ、ボケッ。お前らには関係ないっ。おいっ姉ちゃん、この客ら早よ帰らせっ、帰らせて早よやらせっ」 

 作業着のズボンを脱ぎ捨てて下半身を丸出しにした貞雄がカウンター席に上がり、女性店員の方に自分の性器を押し当てようとした。

「やめろっ、なにしてんねん、この変態っ」

 男性客たちがすかさず貞雄を止めに入り、二人がかりで貞雄を押さえつけた。

「邪魔すんなや、ボケぇっ。やらせっ、なぁ? やらせや姉ちゃんっ」

 突然発狂し出した貞雄の振る舞いに怯えた女性店員が店の電話にかけ寄り、すぐに警察へ連絡した。

「お客さんっ、今、警察呼んだよっ。すぐ来るよっ」

 女性店員が揉み合う貞雄と男性客二人にそう言うと、貞雄が「アンダラぁぁぁぁっ」と叫びながら男性客二人を突き飛ばして、下半身を露出させたまま店の外に出た。

 そして恥と外聞もなく、ただ発情した野犬のように、膨張した股間の捌け口を求めてひたすら夜の西成界隈を走り彷徨う。

 オンマイタァレイヤァソワカァ。

 貞雄の頭の中で昼間に聞いたその音だけがずっと鳴り響いていた。

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