その9 覚者の驕り


高野山の奥の院に近い宝善院ほうぜんいんの本堂に、一日の公務を終えた若い僧侶が一人座していた。

 僧侶の名は真生まお。本名の読みは“まお”だが、僧職についてからは“しんしょう”という音読みの名前で通っている。

 七歳から高野山に入り、今年で十八歳になる真生の暮らしは全てが順調過ぎるほど順調で、その毎日にさほど大きな変化はなく、気付くとあっという間に十一年の歳月を経過していた。

 少年の面影を残しつつ、健康的で肌艶の良い顔つきは、聡明な印象を持つ二重瞼に支えられ、スキンヘッドに剃髪された丸い額に走る太い眉毛が、達筆な書道家が記した力強い横一線の文字のように、真生のあどけない顔にある種の迫力を与え、大人にも負けない成熟な精神性が既に宿っている事を物語っている。

 真生が七歳の時、先代より秘密裏に伝法灌頂でんぽうかんじょうを受け、歴代の先祖たちと同じく金剛界でも胎蔵界でも大日如来との縁をしっかりと結ぶ事が出来たが、その事を公に出来ない真生の特殊な一生は、何事もなければただの一般僧として、高野山と在家信者に仕えて終わる。 

 年中たくさんの行事を控えている高野山での暮らしは、一年を通せば目まぐるしく慌ただしい日々ではあるが、一日毎の公務は全て規則正しい動きの中で行われる単調なものでしかなく、慣れさえすればほとんどが予定通り平穏無事に終わる。

 真生はその事に一度も不満を感じた事はなかったが、縁あって紀州和歌山の龍神村に生まれ育ち、常人には理解し難い特殊な使命を帯びて七歳からここ高野山に入って修行をして来た真生にとっては、少しばかり退屈で刺激に欠ける日々でもあった。 

 親であり師匠でもある先代からの教えと指導は灌頂を受ける七歳までで全て完了した。

 先代には奥の院の最高管理者として果たさなければならない使命があり、子であり弟子でもある後継者の灌頂を見届けた後は、その生を終えて弥勒菩薩を迎える準備に入る。

 同じ星の下に生まれた真生も、まだ多感な十八歳の年齢にも関わらず、生まれた時からの決定事項として、いずれ自分もそのレールの上を歩く事を既に受け入れていた。そして今日まで何の疑問も抱く事なく、高野山での生活を粛々と継続して来たのだった。

 真生はただの一度も山を降りた事がなく、テレビやネットの情報などでしか俗世間の様子を知らない。ただ在家信者や参詣に訪れる人たちと日々接して、刻々と変化していく人間の悩みや迷いには敏感にアンテナを張っていた。

 真生は他の僧侶たちが寝静まった深夜になると、毎晩一人ひっそりとこの宝善院の本堂に籠もり、そこに安置されているた仏と対話して、衆生の悩み、迷い、苦しみを深く理解し、より良い解決に導く事を自分に課していた。

「観世音菩薩様、今日私は初めて、男女両方の性を持って苦しんでいる婦人に出会いました。その婦人が申すには、自分は女性の肉体を持って生まれながらその精神はずっと男のような気がしていて、これまで恋愛感情を抱いた相手や交際して来た相手は皆、婦人と同性の人たちでした。婦人は近々その肉体と精神の曖昧な状態を解消するために性転換手術というものを受けて本来あるべき姿にするそうなのですが、なぜかその事に対して自分の中に激しい抵抗があるらしく、私にどうしたらよいものか? 尋ねられました」

 真生は畳の匂いとお香の匂いだけが漂う静謐な本堂に座して、この寺の本尊である観世音菩薩の前に相対峙し、ひたすら観想していた。

 人々の姿に応じて大慈悲を行う観世音菩薩は千変万化の相を持ち、この日真生の観想の中に現れた観世音菩薩は、女でも男でもない中性的な肉体美のシルエットで、透明感のあるユニセックスな薄衣を身に纏い、穏やかだがどこか妖艶な色気を放っていた。

「真生よ、あなたはこの私の姿を見てどう思いますか? そもそも仏とは女でしょうか? それとも男でしょうか? 元が人であるから仏にも性別はあると言えるのですが、仏になってしまえばそこに性別の区別はなく、どちらの性も元は同じものであると感じられるようになります」

 観世音菩薩がそう言ってやや膨らみのある胸を反らせて官能的なポーズを取ると、お香と畳の匂いしかしなかった本堂に、夏に咲く花たちの芳香が広がった。

「仏の境地に達すれば確かにそうなのでしょうが、仏ではない婦人がその理屈で納得するものでしょうか?」

 仏になれば全ての衆生は救われる。仏教が考える救済の理屈は至極シンプルで分かりやすいのだが、真生はその仏の境地を感覚として捉える事が出来なければ誰も救われない教えであると思っていた。

 どのようにしたら人々は迷い、苦しみのない仏になれるのか? それを説明するために仏教はこれまで膨大な理屈と実践的な方法論を必要として来た。

 この世の全ての現象の根本は宇宙の神格化である大日如来にあり、大日如来の下では神も仏も人も単なる現象でしかなく、全てがあるがままに存在しているだけだ。それを理解し、感覚的に捉える事が出来ればあらゆる迷い、苦しみは消える。

 特殊な運命を背負い、わずか七歳で大日如来と縁を結んで仏の境地に達した真生にしてみれば、世の中や目の前で起こる全ての現象が、あるがままの当然の出来事として理解され、たとえ自分に都合の悪い出来事が起こってもそこに迷いや苦しみはなく、自分がやれる事、やるべき事をただ坦々とやるだけで、その結果にも頓着しない。

 それ故に、真生にとっては些細な事でしかない現象や出来事を前にして迷っている人や苦しんでいる人を見るともどかしく、毎回一人一人個別の相談に乗って問題解決に導くよりかは、もっと効率的に、出来れば一辺に全ての衆生を仏の境地へ導く方法はないものか? と、日々の公務をこなしながら頭の片隅ではそんな大胆な考えを巡らせていた。

「女性には女性の良さが、男性には男性の良さというものがあります。性別の区別がない仏である私の今の姿はその両方の性を兼ね備えた姿です。どうです? 美しいでしょう? 今日あなたが出会った婦人もその両方の性を持っている。であれば、その婦人はもう既に仏であると言えませんか?」

 観想の中、耳元で囁きかけるような声で観世音菩薩が真生の問いに応答する。

 仏のロジックでは確かにそうだ。ただ仏でない婦人にそのロジックが通用するかどうかが問題だ。

 真生は観世音菩薩と相対峙したまましばらく沈黙し、仮に性転換手術を終えた婦人のその後を想像してみる事にした。 

 精神、肉体、共に男性になった婦人の姿。まずはそれを想い浮かべようとするのだが、それがどんな姿なのかなぜか想像がつかなかった。

 今日出会った婦人の容姿は人並み以上に美しく、プロポーションもファッションも紛れもない女性のそれで、傍目から見れば誰もその婦人の精神が男性であるなどとは思わない。 

 そんな容姿を持つ婦人がその魅力を捨てて男性になる。肉体が男性になるのだから、その服装も男性の物に変わる。

 それは果たして良い事なのだろうか?

 本人自身はそれを望んでいるのだから何かしらのメリットがあると判断しているのだろうが、第三者である真生にして見れば女性としての類い稀な美しさを捨ててまで得られるメリットは正直ない気がした。

 その時ふと真生は、婦人が示す激しい抵抗の理由もその辺にあるのでないか? と思い至り、婦人がこれまでその美しい見た目から受けて来た恩恵がいかなるものであったか? 今度はそれを自分事のように想像してみるのだった。

 観世音菩薩との観想を終え、婦人の私生活を子細に想像し始めてからどれくらい経った頃だろうか?

 それまで寝静まっていた高野山の山林が突然騒がしくなり、奥の院の方から真生のいる宝善院に向かって、何か神々しくも荒々しい巨大な気配が押し寄せて来た。

 緊急を要する異様な事態が奥の院で起こった事を察知した真生はすぐに身支度を整えると、宝善院の本堂から鶴亀式山水つるかめしきさんすいの庭園を抜けて、宝善院の山門を出た。

 真生の他にも異変に気付いた高野山の住人たちがぽつぽつと家々の明かりを点し出し、奥の院の御廟から押し寄せて来るただならぬ存在の気配はその強さを増して、巨大なエネルギーの放出に変わろうとしていた。

 深夜の一の橋を渡り、奥の院へ続く参道を駆けながら、真生はその巨大なエネルギーの放出を辛うじて押さえている存在の気配も察知した。

 それはおそらく奥の院最高管理者となった先代の気配で、時まだ早くその使命を終えようとしているかのように感じられた。

 真生には奥の院で何が起こっているのか全く見当がつかなかったが、一刻の猶予もない事態である事だけは漠然と理解していて、これを避けなければ人類にとっても自分の人生にとっても最大の試練になる予感がした。

 ここで食い止めなければならない使命感と焦燥感を背負って走ってはいるが、何故かその足は小踊りするように弾んでいて、気付くと微かな笑みまで浮かべていた。

 真生が燈籠堂に辿り着くと、寝ずの番をしていた僧侶がそこに倒れていた。

 得体の知れない巨大な気配は御廟の石室がある裏手から発しているようで、真生はそこにもう一つ、一心不乱に念仏を唱えている不審な気配も感じた。

 ゆっくりと慎重に歩を進めて裏手に回ると、そこには紅蓮の炎に包まれて燃え上がっている先代の木乃伊と、薄汚れた法衣を纏って念仏を唱えている黒笠の僧侶の姿があった。

「・・・・・・何者です?」

 真生は危険を承知で、努めて冷静に怪しい僧侶の背後に近づき声をかけた。

 一心不乱に念仏を唱えていた僧侶はふいに現れた真生の存在に驚いて振り返ると、虚無的な闇を彷彿とさせる黒笠の下から、鋭く尖った顎ときつく結ばれた口元だけを見せ、沈黙したまま真生と対峙した。

「この御廟は高野山最大の聖域です。我ら高野山に属する維那の役職を持つ者以外、何人たりともこの御廟の扉を開ける事は許されておりません。見たところ尋常ではない状況のようですが、何故ゆえにこのような狼藉を働いているのですか?」

「堕落し切った衆生の一斉救済。それを実現するために弥勒の神霊をアメンティから解放しに来た。このとおり門番もあっさりと荼毘に付され、それを許可したわ。もうまもなく弥勒がこの世に顕現する。お前の出る幕はもうない」

 門外漢の不審な僧侶が手にした錫杖を真生に突きつけ、威圧的な態度を示してそう言った。

「どなたか存じ上げませんが、あなたも相当呪術の腕が立つようですね。私もここを守る使命がある以上、本来ならここで一戦交えてこの事態を死守するべきなんでしょうが、何故かこのままあなたと一緒に弥勒の神霊を待ちたい気持ちもあります。生まれて初めての迷いです。この迷いがある以上、私はあなたに勝てない気がします」

「物わかりの良い小童だ。ならば我もここは引こう。お前の使命は弥勒が顕現した後に果たせ」

 紅蓮の炎に包まれていた木乃伊の身体が崩れ、今や完全に炭と化していた。奥の院の最高管理者としての使命を全うした先代を前にして、真生はあっさりと自分の使命を放棄した事に驚きながら、心の底で今や逆らえない衝動に突き動かされている己を楽しんでいた。

 そして遂に門番が消えた御廟から得体の知れない気配、またはエネルギーが眩い光を放ちながら解放された。その眩さと衝撃に耐えられず、真生も不審な僧侶も背後の壁まで吹き飛ばされるように後退して気を失った。

 巨大なエネルギーの奔流となった弥勒の神霊が闇に包まれた山林を真昼のように照らしながら高野山上空へと舞い上がり、そこから一気に北西を目指して飛び退った。

 その後高野山は何事もなかったような静寂を取り戻し、気絶した真生を御廟前に捨て置いたまま、白々と夜明けを迎えた。  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る