第三章 不穏な降臨 その8 招かれざる者
真夜中の高野山に訪れる闇は深い。
その闇に紛れ、黒い菅笠を被った一人の僧が音も無く
男は高野山に属する真言宗の僧ではない。既存の伝統宗派のどこにも属さない在野の僧だった。
闇夜を歩く怪僧は杉林の参道に並ぶ二十万基を超える墓原の中に、織田、豊臣、武田、上杉などの名だたる大名たちが眠る苔むした墓所を見つけると、筋張った鋭角な顎を持つ口の端を吊り上げて、一際目立つその豪華な墓標たちを嘲笑った。
―—そんなものは所詮気休めだ。弘法大師の側に骨を埋めれば極楽浄土に行ける? この堕落した蓮台の聖地に安住の地を求めたところで、他力本願では死んでもなお阿修羅の業は続く。そなたらの魂は弥勒の世が到来する未来永劫まで嫉妬と争いを繰り返し、血で血を洗う世界を彷徨い続けるのだ。
怪僧の影は闇に紛れたまま、この世とあの世の境とされている御廟橋を渡り、無縁仏になった無数の石仏たちと、天皇や皇族が眠る仙陵の静寂に迎えられ、闇夜にぼんやりと輝いて浮かぶ燈籠堂に入った。
天井から吊り下げられた無数の燈籠に照らされて顕わになった怪僧の輪郭は痩せぎすの長身だが、薄汚れた法衣から伸びた腕と足は野性味のある筋肉の隆起に覆われ、長いこと野山を漂流して来た修験者の風格を漂わせていた。
鋭く尖った顎が印象的なその顔の全貌だけは黒い菅笠が作る濃い影の中に隠れたまま、果てしない虚無が広がっているような暗さだけがある。
かつては
深夜の公務中に迂闊にもうたた寝をしてしまったのか、その一般僧は背後に忍び寄る怪僧の存在にまったく気付かず、あっさりと不審な部外者の侵入を許した。
そんな様子に呆れた怪僧が、溜息を漏らしながら二の腕を剥き出し、寝ずの番をしていた僧の首を易々と絞め上げて落とすと、そのまま堂内の正面に仁王立ちして、無数にある燈籠の中核を担う二つの小さな火を眺めた。
“消えずの火”と呼ばれるこの小さな火の一つは、
千年以上燃え続けているという信仰があり、高野山復興に努めた祈親上人も白河上皇も弘法大師の後身であるとして、常にその火を絶やすことなく、御廟内で永遠に生きる弘法大師の生命を象徴していた。
しかし虚無的な暗さを纏う怪僧の目にはただのお飾りに過ぎず、世界遺産に認定された事に浮かれ、俗世間の侵食を許してすっかり観光地化してしまった今となっては、衆生に希望を与える光明としての有り難みなどはまったく感じられなかった。
この神秘性を欠いて形骸化した燈籠堂の真下に空海が生きたまま入定した御廟がある。
高野山で御廟内に入る事が許されているのは「
そんな禁忌がある神聖な場所に得体の知れない僧が忍び込み、重厚な石室の中に隠匿されている虚と実を含んだ謎を、今、世に解き放そうとしていた。
「オン、マイタレイヤ、ソワカ・・・・・・」
怪僧は堂内を出た裏手の闇の中に進むと、地下世界へ続く石室の扉の前で微かな真言を唱えた。
辺りの闇と空気が一瞬震え、石室の扉が音も立てずに僅かに開いた。御廟の中にはさらに深い闇がぽっかりと覗き、何かとてつもない霊の存在がその闇の奥に佇んでいるような気がした。
その気配に呼応するように寝静まっていた高野山の山林が俄にざわめき出し、それまで大人しかった夜行性の生き物たちも一斉に活気づいて不気味な鳴き声を上げた。
御廟の奥に潜む巨大な気配に気圧され、怪僧の身が自然と引き締まる。手にした錫杖をしっかりと握って石室の闇の中に目を凝らし、ゆっくりと這うように地下から地上へ上がって来るその気配を待つ。
古い地層の黴臭さを纏いながら、ただならぬ霊の気配が着実に地上へと近づき、やがて白く発光した“何か”が闇の中に浮かび上がって来るのが見えた。
微かな衣擦れの音と共に地下から地上へ這い上がって来たのは、白装束を身に付けた
骨に皮だけが張り付いて枯れ枝のようなその木乃伊の顔は、落ち窪んだ虚ろな瞳に微かな笑みを浮かべていて、世を哀れむような慈愛に満ちていた。
「ふんっ、小賢しい。やはり生身の不老不死でなく、即身仏であったかっ」
御廟の中で生き続ける伝説となったはずの空海が、即身仏の姿で聖地を汚す不法な侵入者を拒むため、安らかな眠りを中断して地下から這い上がって来たのだ。
「目覚めたか、空海。そなたが弥勒による救済を伝えて悠久の惰眠を貪った事で、衆生は他力本願を余儀なくされ、主体性もなく果てしない六道の世界を迷い続ける事になった。これでは人類の魂の進化が大幅に遅れる。水瓶座の時代はもう始まっているのだぞ。いつまで魂の進化を止めておくつもりだ? 即刻弥勒の神霊をその身から解放して、この現世に弥勒の世を顕現せよっ」
「・・・・・・我ノ眠リヲ乱スノハ何者カ? 時ハ未ダ早イ。弥勒ノ神霊ハ今、アメンティノ深奥二テ鎮マリ、数多ノ衆生ガ等シク覚醒スル時ヲ静カ二待ッテイル。ソノ期日ハ五六億七〇〇〇万年。ソノ時ヲ待タネバ、衆生二トッテ大イナル災イト成ルバカリ」
扉の前で
「衆生にとっての大いなる災いとは何だ? 天災か? 戦争か? そんなもの人類は過去何度も体験し乗り越え、その度に数ばかりが増えたが、多くは一向に精神的進化を遂げる兆しがなく、未熟な魂のまま宇宙の霊的サイクルを妨げている。それこそが大いなる災いだろう。人類がいかなる困難に見舞われようとそれを救うのは弥勒ではないっ。衆生たちが自らを救い進化する。その舞台を用意するのが弥勒の役目だ。五六億七〇〇〇万年などという期日は太陽の寿命を利用した方便に過ぎない。どのみち六道での修行を終えた者しか解脱出来ないのなら弥勒の解放に遅いも早いもなかろう」
「我々ハ、御仏二仕エル、単ナル記号二過ギナイ。御仏の真意、計画ハ壮大デアル。我ノ意思モ、汝ノ意思モ、ソノ壮大ナ御仏ノ意思二違イハナク、ソモソモ我々二ハ固有ノ自由意思ナドトイウモノハ存在シナイ。我ラハタダ、アメンティノ門番トシテコノ地デ弥勒ノ霊ヲ待ツ事ヲ定メラレタ者。空海トイウ記号ヲ継イデソノ血ヲ絶ヤサズ、我ラノ使命ヲ果タスノミ」
木乃伊の枯れた肉体から辿々しく発せられる言葉には生気こそ感じられないが、強い使命感を持つ者の威厳があった。
アメンティに通じる御廟の地下世界を、弥勒が顕現する世までひたすら守り続けるのが密教僧として生きて来た空海の使命。
その門となる石室の扉を挟み、生者と死者が静かに対峙して激しい問答が続く。
「空海よ、そなたに弥勒の神霊を解放する意志がないのであれば、我は
扉の前で澄ました木乃伊に向けて怪僧が最後にそう言い放つと、手にした錫杖を脇に抱え、両手の人差し指と親指を突き合わせて素早く印を結んだ。
「インダラヤ、ソワカッ」
そして
木乃伊となった空海の身体が炭のようにバチバチと爆ぜ、周囲に焦げ臭い匂いと黒煙が上がった。
「どうした、空海っ。それでもアメンティの門番か? そなたほどの実力者でも、意思がなければ何も出来ない烏合の衆と変わらぬようだな。なんというあっけない使命だ」
「弥勒ノ神霊ヲ降ロス依代トシテノ我ラニ意思ハナイ。記号デシカナイ我ラハ木偶ト変ワラヌ使命デハアルガ、我自身ノ使命ハ既二果タサレ、ソノ使命ヲ継グ者ガ既二コチラヘ向カッテイル。後ノ事ハソノ者二託シ、我ハココデ往生スル」
激しい炎に包まれた空海の木乃伊はその慈愛に満ちた表情と結跏趺坐を崩さず、深い瞑想行に入った覚者の威厳を保ちながら、怪僧の為すがままに荼毘に付された。
怪僧はその凜とした空海の姿を見つめながら、なぜかふと手を合わせ、依代を失ってまもなくこの世に顕現するはずの弥勒の神霊に期待しながらも、自分でも何が起こるか正直よく分からないこの先の事態に微かな不安と恐怖を感じていた。
怪僧はその感情を打ち消そうと、燃え盛る空海の木乃伊に手を合わせ、一心不乱に念仏を唱え始めた。
あまりにもその祈りに集中しすぎたため、不覚にも背後から声をかけられるまで、人が近づいた気配にまったく気がつかなかった。
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