その7 亜空間発生


 アーケード街がある日本橋の堺筋を新世界の方面に向けて、パトカー、救急車、消防車などの緊急車両がサイレンを唸らせ、何台も連なっていた。上空にも報道のヘリが数台飛び交い、歩道は野次馬根性で現場を見に来た人たちで溢れかえり、皆スマホを片手に新世界で起きている異常事態の中継を困惑しながら見ていた。

 嵯峨山から恵比須町交差点にある浪速署の前に来るよう連絡を受けた朋香は、交通状況が完全に麻痺した堺筋で足止めを食らい、そこから比較的道が空いている路地に逃げて、普段なら十分もかからない距離を人波に揉まれながら現場に向かっていた。

 現場に辿り着くまでの間、他の歩行者同様に、嵯峨山がYouTubeでライヴ配信している動画をチェックする。

「どう言ったらいいかわからへんねんけど、もうとにかく異世界やわっ。町並みが全然変わってねんっ。なぜかこの国道25号線から商店街の中に入られへんくなってて、映像にも映ってると思うけど、この赤い靄みたいなんがな、中に入ろうとすると空気の圧みたいな力で押し戻そうとすんねんっ」

 浪速署の前から通天閣本通の商店街をバックにして嵯峨山が大声で現場の様子を語っている。

 赤い靄に包まれた新世界の雰囲気は嵯峨山が言うようにいつもとまるで違い、見慣れたアーケード街の姿が消え、近代の大阪を思わせる町並みがそこに広がっていた。

 通天閣本通商店街の入り口にあったアーチ型の看板が石造りの門に変わり、そこに記された通りの名も「恵比須通」に変わっている。 路面は土が見える未舗装の状態で、うどん屋があったはずの右手には円錐形の屋根を持つ洋風のビルが建ち、「阪堺電車はんかいでんしゃ」と読めるネオンが掛かっていた。

 通りには洋風建築の店と木造建築の店が入り交じって軒を連ね、どこも派手な垂れ幕をぶら下げて賑わい、その中を歩く人たちの姿も町の雰囲気同様に古めかしく、袴や着物の格好をした男女が目立つ。

 この異常な事態にも関わらず、赤い靄の中にいる人たちは皆平然と商店街の通りを歩いていて、その奥には巨大なビリケンの頭部が生えた一際異様な通天閣が堂々と聳え立っていた。

「とにかくオレらだけではオカルト過ぎてどないも出来へんから、とりあえずゲストのMOKAが来るまで一旦待機するわッ。中に入れそうなところが見つかったらこの異世界に潜入するから楽しみにしといてなっ、オッス、チャレンジマインドッ!」

 嵯峨山たちのライヴ映像が待機中に切り替わったところで、朋香もようやく阪神高速のえびす町インターがある高架下を抜けた。

 そこから目の当たりにした異様な新世界の風景は、モヤモヤした赤黒い空が天まで伸び、通天閣の天辺に生えた巨大なビリケンの顔が、にんまりとした不気味な笑顔を浮かべながら朋香を出迎えた。

 オン・マイタレイヤ・ソワカッ。

 巨大なビリケンの顔がそう言っているのか、突然朋香の頭の中に微かにそんな声が響いた。 

 それは今日のステージの最中にも響いて来た謎の音声と同じもので、唸るような重低音と甲高い金属音が合わさったような響きを持ち、一定のリズムを保ちながら、絶えず朋香の頭の中で鳴り続ける。

 音のせいか、朋香は次第に気分が悪くなり、軽い目眩を感じてふらついたかと思うと、そのまま道端にしゃがみ込んでしまった。

 意識が遠のき、おぼろげな視界で周囲を見ると自分と同じように倒れ込んでいる人の姿がある。

「アンタっ、大丈夫かっ」

 近くにいた中年男性が声をかけてくれたおかげで、朋香はすぐに意識を取り戻した。その人の肩を借りてなんとか立ち上がることが出来たが、他に倒れている人の中には救急車で搬送されている人もいる。

「なんかようわからんけど、さっきからこの辺りがどエラいことになってもうてな、アンタみたいに人がどんどん倒れよるんや。救急車がひっきりなしに来てんけど、全然追いつかんっ」

「助かりました、ありがとうございます。なんか頭の中で変な音というか声がして、それを聞いたら急に気分が悪くなってしまったんです・・・・・・」 

「音? ホンマか? ワシにはなんも聞こえへんかったけどなぁ」

「・・・・・・そうなんですね」

 朋香の気のせいなのか、音はもう止んでいた。怪訝そうな顔をしている中年男性に見送られ、とりあえずその場を後にした。

 頭上にある巨大なビリケンの顔を見るとまたあの音が聞こえてきそうな気がしたので、朋香はなるべく通天閣を視界に入れないようにしながら、人混みを掻き分け、ようやく浪速署の前に辿り着いて、そこに待機していた嵯峨山たちの姿を見つけた。

「野次馬だらけで来るの大変やったやろ。見てみいこれ、オカルト前線史上マジで一番わけわからんっ。これホンマに新世界か?」

 唖然とする嵯峨山の横に並び、朋香も異様な姿に変わり果てた新世界を間近で観察する。

「中には入れないんよね?」

「そうやねん。モカが来る前に新世界の周囲をぐるっと回ってみてんけど、新世界の区画にだけなぜかこの赤黒い靄みたいなんがかかっててさ、地下鉄の出入り口にもその靄が降りてて、そこで行き止まりや。靄の中には人がおんねんで? あの人らはどっから中に入ったんやろ?」

 嵯峨山が商店街を歩く人々を指差して首を傾げる。

 朋香がライヴ映像で見た時と変わらず、商店街を歩いている人たちの様子は、朋香たちがいる外の世界の喧噪をまるで気にする様子がなく、ただ平然とした時間が流れていた。

「オーイっ、そこのハット被った丸眼鏡のオッチャンっ、聞こえるっ?」

 嵯峨山が商店街の入り口付近にいる袴姿の老紳士に向かって大声で話しかけてみても、中の老紳士は嵯峨山の声にも姿にもまったく気付いている様子がない。誰かと待ち合わせでもしているのか、辺りを見渡しながらのんびりと佇んでいて、たまに嵯峨山たちがいる方に目を向ける事があっても目が合う事はなかった。

「・・・・・・な? 中の人ら、話しかけてもオレらの存在に全然気付いてないねん」

「あの人たちもう死んでるよ・・・・・・いや、違う? 生きているけど、生きていない人たちって言った方がええんかな?」

 それまで中の様子をジッと窺っていた朋香が唐突に自分の感じた事を口にした。

 まるで生気がない。朋香は中の人たちを一目見た時点で直感的にそう思った。

 それが自分にしか見えていない存在であれば、彼らが死者だと確信できるのだが、なぜか霊感がない嵯峨山たちにも中の人たちが見えているという事実が朋香の困惑を誘う。

「生きてない? どゆこと?」

「ウチにもようわからへんねんけど、中の人たちから全然生気みたいなもんを感じへんねんな、だからパッと見てすぐに幽霊やと思ったんやけど、嵯峨山君たちにも中にいる人たちが見えてるんよね?」

「見える、見える。はっきりとそこにオッチャンおるよ。欣也も見えるやろ? どう考えてもこれは幽霊ではないな」

 嵯峨山と欣也が目の前にいるハット帽の老紳士を同時に指差して朋香の方を振り返った。

「他の人たちも見える?」

 朋香が通りを歩いている老紳士以外の人たちを指差して、嵯峨山と欣也にも見えているか確認した。

「日傘を差した着物のお姉さんやろ、そっちは学生帽を被った坊やや、自転車に乗った半被姿のオッチャンと・・・・・・」

 朋香の指先が辿る人たちの特徴を嵯峨山が口にしていくと、欣也も無言で頷き、それに同意する。

――ひょっとして、これは夢なんやろか?

 すぐ目の前にある不可解な現象に翻弄され、朋香は自分たちが今直面している事態を現実の事として信じられなくなって来た。

 ダンスのレッスンや歌詞の創作に没頭している時、朋香は自分の空想世界に入り込み過ぎて度々白昼夢を見る事があったが、今回の事態もいつもより長くてリアルな白昼夢かもしれないと、自分自身を疑った。

 しかし意識ははっきりとしていて、空想や夢を見ている時のようなまどろんだ感覚は一切ない。

「嵯峨山君、ごめん。アタシこれ以上ここにいるの無理かもしれへん。なんか頭がおかしくなりそう。アタシにも何が起こっているのか全然分からへんし、アタシたちが遊び半分で関わっていいレベルじゃないよ、これは」

 幽霊でもなければ、夢でもない。ただただ奇怪な様子が広がっている新世界の不気味さに恐怖と疲労を感じた朋香は、とにかく家に帰りたいと嵯峨山たちに訴えた。

「急にどうしたんや? まだ来たばっかやろ。まぁ、モカがあかんと判断したんなら無理強いは出来へんけど、オレたちは決して遊び半分なんかでやってへんで。チャレンジが売りのYouTuberやし、何か爪痕が残るような事が起こるまでは、ここでライヴ配信続けたい」

「そう。わかった。何か関係あるかは分からへんねんけど、あの通天閣の天辺に生えたビリケンさんには気をつけてな。もしそこから変な声が聞こえて来たら、すぐに耳を塞いで、その声に意識を向けたらダメだよ。アタシもここへ来る途中に聞こえて来て、その途端に意識がなくなったから」

 朋香はそれだけ忠告すると、一人現場を後にした。

 現場に来てからずっと悪寒がして、七月の真夏日にも関わらず全身に鳥肌が立っていた。気を抜くとまた微かにあの奇妙な音が聞こえて来て、家路を急ぐ足が時折ふらついた。

 自宅のアパートがある松屋町までタクシーを拾おうにも道路はどの車も立ち往生していて、一向に動く気配がなかった。

 とにかくあの音が頭に忍び込んできたら、朋香は周囲の人たちが話す喧噪と車のクラクション、緊急車両のサイレンなどに耳を傾け、気を逸らした。

 ふらつきながら長い道のりを歩き通して、ようやく自宅のアパートに着いた時、疲労が限界を迎えたのか、朋香は玄関のドアを閉めたと同時に床に倒れ、そのまま昏睡してしまった。

 

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