その4 宗教二世の昼下がり
「一般的な修行には“懺悔”。これが欠如しているね。功徳を積むことばかりを推奨してね、自己を反省することに注視しない傾向があるんだなぁ。それだとダメ、正しくないの」
大型モニターに映る代表の講話を聴きながら、
白髪を丁寧なオールバックで整えた代表の柔和な顔と、ゆっくり穏やかに語りかける中性的な声を聞くと、不思議と気持ちがリラックスして眠気に誘われてしまう。
今日は全国の道場で月に一度同時開催される貴重なセミナーの日。美沙は自分の怠惰で無駄にするわけにはいかないと意気込んでいた。
セミナーの参加者たちは畳敷きの道場で皆座禅を組んだ状態で話を聞き、講話をしている代表も同じように座禅を組んでいた。
代表は全身を赤紫に染め上げた高貴な修行着姿で、残りの信者たちは白で統一された修行着を身に付けるのがこの教団の特徴とスタイルだ。
美沙が重くなる頭をなんとか上げ、背筋を正して座り直すと、道場の最前列で美沙の両親も真剣に講話を聴いていた。
「私たちが実践しなければならない瞑想の修行をわかりやすく車に例えたらとしたら“懺悔”が洗車で“功徳”がワックスやペンキを塗る作業になるかな? 車が汚れている状態でワックスやペンキを塗ってもうまく塗れないと一緒でね、人間の魂もまず“懺悔”という日々の自己反省を通して常にキレイにしておかないと、功徳を積むための善行を心掛けても結局上辺だけのものになってしまって、それでは死後にカルマを解消できないのね」
代表の講話は難しい言葉をほとんど使わず、いつもわかりやすい例えで信者を正しい方向に導いてくれる。両親共々、美沙も代表の人柄と教団の教義には絶対的な信頼を寄せていた。
美沙が生まれた時から所属するこの『バルドー教団』は、最も多くの解脱者を輩出したといわれるチベット密教のカギュ派に伝わるバルドーヨーガの実践をベースにした宗教団体で、会員は全国で約1600人ほどいる。
会員たちは皆教団が運営する全国の施設で寝食を共にし、一日の大半をお祈りと瞑想、ヨーガの修行に費やす。
「今年2025年がね、教団にとっても日本にとっても大峠、つまり正念場になるんだよ。かつて教祖様が予言した大災厄の年にいよいよなっちゃったの。ヘタに怖がるといけないから教祖様は具体的に何が起こるかまでは仰らなかったけどね、大勢の人が亡くなるような事態が起こることはまず間違いないのね。だから煩悩にまみれた俗世間の人たちはまず助からない。非常に残念な話だけどこれは間違いない。教団の今後だってどうなるかははっきりとわからないからね。でも肝心なのは生き残ることじゃないよ。人間は遅かれ早かれいずれ死ぬんだもの、生に執着しても意味はないでしょ? 何度も言うようにこの世は皆さんの魂を修行するためにある仮の世界なの“カルマを解消して解脱する”。これが一番大事な事だからね。そのために今まで一緒に修行して来たんだから。教祖様や代表としての私の使命はあなたたち信者を誰一人残さず解脱させる事、だから眠くても頑張って私の話を聴いてちょうだいね。まぁ寝ちゃっても自己反省して功徳を積む、これを念頭に置いて日々精進すれば大丈夫。私もつい余計なおしゃべりをしていつもセミナーが長丁場になっちゃう点は反省しますから、ハハッ」
全国の道場とオンラインで繋がった代表の講話はユーモアを交えながらいつも和やかに進行していく。
現代表がトップを務める以前のバルドー教団は法人格を持った『
最盛期には国内外合わせて約5万人ほどの信者が教祖である
しかし1995年に起きた地下鉄爆破事件をきっかけに警察、マスコミ、世間から武装したテロ組織の容疑をかけられ、強制捜査を受けた結果、教団の施設からその物的証拠となる危険物や設備、証言などが出たことにより、実行犯として関わった幹部と一般信者数名が逮捕された。
事件の首謀者であると断定された教祖の松本大慈は騒動の渦中で突如行方を眩まし、現在もその所在がわからない状態だが、裁判所からの解散命令で法人格を剥奪されてしまった弥勒世会は、教祖に絶対的帰依を明示した主流派の一部信者を残して解体された。
美沙が現在所属しているバルドー教団はその主流派信者たちが弥勒世会の実践的部分を強調して教義を再構成した後継団体で、かつて教団に起こった事件と騒動は、自分たちのカルマを精算するために運命付けられたイベント、あるいは聖戦であると、小さい頃から何度も両親や教団の仲間たちに教えられて来た。
事件の騒動を経て教団から離れた信者はカルマの精算に失敗した者たちであり、今もこうして教団に所属して活動を続けている信者たちはカルマの精算が順調に進んでいる者。
美沙も両親もその他の信者たちも自分たちの修行の成果をそんな風に捉えて信仰を強め、世間が自分たちをどれだけカルト教団だと後ろ指を差しても、決して道を踏み外さないよう日夜精進していた。
そして今年2025年は行方不明になった教祖が予言した大変革の年。
代表を含めた信者一同、2025年をカルマ精算の山場として、以前にも増した努力と精進で修行に励んでいる。
弥勒菩薩の慈悲の力で全てのカルマを払拭し、人類皆が六道輪廻を解脱した涅槃の世界へ至る。それが弥勒世会の時代から続いているこの教団の悲願だった。
「今日の講話ではね、私たちの教祖様について皆さんに伝えておかなければいけない事があるの。教祖様がなぜあの事件騒動以来行方を眩ましているのか? 私が教祖様から託されていたその本当の理由をこれからお話ししますね」
代表は目を瞑り、深呼吸をしてしばらく黙してから、またゆっくりと穏やかな口調で語り出した。
「皆さん知ってのとおり、教祖様は未来仏である弥勒菩薩の生まれ変わりです。教祖様はあの事件騒動の中、現世での修行を終えて一足先に解脱されました。厳密に言うと人間に生まれ変わる前にいた
代表の口調は穏やかなままだが、丁寧な言葉使いに変化したことで、その真剣さが増していた。
事件騒動の中、何の説明もなく信者を残して失踪してしまった教祖の行動は、教団に大きな不安と混乱をもたらし、多くの信者が脱会したきっかけになったことは間違いない。
教団に残った主流派の中にも、弥勒世会が信者を洗脳しているという世間の認識が正しく、自分たちの信仰は嘘であるかもしれないと疑念を抱いて活動を続けていた者もいた。
現代表が教祖の後を引き継いで体制を立て直すまで、教祖不在という状態が新たなカルマとなり、教団幹部含め、全ての信者たちを長い間苦悩させて来たことは間違いない。
「弥勒菩薩は世界の終わりが来る56億7千万年後に降臨し、人々を救うことになっていますが、この年数はあくまで比喩にすぎません“いつかはわからない未来”と解釈するのが本来は正しいのです。ですからいつかはわからない未来に世界の終わりが訪れた時、弥勒菩薩は衆生を救うために下生すると我がバルドー教団では教えています。そこで皆さんに考えてほしいのは、教祖様は弥勒菩薩の化身としてもう既にこの世に現れているということについてです。逆説的になりますが、弥勒菩薩の化身である教祖様が衆生を救うためにこの世に生まれ変わったということは、教祖様が生まれ変わった今生で世界が終わると言うことなのです」
教祖が弥勒菩薩の生まれ変わりであるという証拠については、教団が製作したヨガのデモンストレーション映像の中で美沙も確認していた。
インドのギッジャクータ山と呼ばれる場所で撮影されたその映像には、腰布を巻いただけの裸の教祖の姿が映っていて、山頂の岩場にある修行場で座禅を組み、印を結んだ右手を額に当て、深い瞑想状態に入っていた。
そしてデモンストレーションの映像は座禅を組んだままの姿勢でピョンピョンと跳びはねる教祖の姿も捉え、その高さが次第に増し、人間ではあり得ない驚異的な滞空時間を保って空中に浮遊している様子を信者たちに見せた。
その時、右手を当てた教祖の額には弥勒菩薩の梵字である(ユ)の文字が金色に薄っすらと浮かび上がっている様子が一緒に撮影されており、その部分だけを制止してアップした映像で多くの人が奇跡の顕現を目撃することとなった。
「教祖様は解脱する直前に、世界の終わる年は2025年であると、はっきり私たち幹部に言い渡しました。分霊である自分がまず解脱して兜率天に戻り、本体である弥勒菩薩の神霊と一体となって再びこの世に顕現する。その年こそが世界にとって真の正念場になると教祖様は仰っていました。決して世間が言うような事件騒動を苦にした失踪などではありません。今までこの事を皆さんに明かさなかったのは、教祖様への執着や依存もまたカルマの種となるため、教祖様が不在でも変わらず信仰を続けている皆さんの修行の妨げにならないよう、今日まで伏せておく事にしたのです。私たち教団一同、その事を肝に銘じ、教祖様への疑念がまだある者はそれを払拭して、この2025年を乗り切って頂きたいと思います」
そんなメッセージを伝え終えてから、代表がモニターの前で深く頭を下げて本日のセミナーが終了した。信者たちの拍手に見送られ、代表がオンラインのルームから退室する。セミナー後は小休止を挟んで各道場毎にヨーガの修行に入る予定になっていた。
――教祖が解脱した。
代表が口にしたその事実を知って美沙の修行に対する想いはさらに強くなった。
美沙は正直これまで自分の修行の成果をほとんど実感することができずにいたが、その妨げとなっていたものが失踪した教祖に対する無意識の疑いであることが今回の代表の講話で分かった。
自分が所属するバルドー教団を教祖に見捨てられた教団として捉え、俗世間が発する洗脳の言説を微かに受け入れている弱い自分がどこかにいたのだ。
美沙だけでなく、セミナーを終えた他の教団員たちの表情も皆どこか明るく、安堵の表情を示しているように見える。
「どうだった? 美沙、今日もありがたいお言葉だったわね。私たち三人は何があってもいつも一緒よ。2025年はみんなで涅槃へ行くんだからね」
小休止の間、最前列にいた両親が美沙の側に寄って来て、それぞれがセミナーの感想と自分たちの今後の課題について口にした。
生まれた時から教団に所属している美沙と違って、両親は長い事俗世間の中で暮らして来たからその分カルマが重い。
その差をコンプレックスとして感じていた両親は、三人の中で一番解脱に近い美沙を修行の時だけ自分たちから離し、お互いがお互いを気にせず修行に打ち込めるように配慮していた。
教団内で生まれた宗教二世に関しては、こうした両親の意向とは別に、教団側でも特別な教育カリキュラムや指導方針を設けており、生まれながらに一般信者よりも霊格が上位であるという位置付けがなされていた。
美沙は小休止が終わると、一人だけ両親と別れて道場から別室に移動し、マントラを学ぶ授業に参加した。
部屋に入ると六畳の狭い空間にモニターが一台置かれ、そのモニターの中で先ほどセミナーを終えたばかりの代表が座禅を組んで瞑想しながら待機していた。
「二世の皆さん、セミナーお疲れ様でした。今日は特別授業として、私が皆さんに弥勒菩薩のマントラを教えますね。オン・マイタレイヤ・ソワカ。弥勒菩薩のマントラはこれだけ。覚えやすいでしょ? 意味はさておき、まずは私と一緒にとりあえずこのマントラを一緒に唱えましょう」
大阪道場に所属する宗教二世は美沙を含めて5名だったが、オンラインで全国の道場と繋がった授業の参加者は30名ほどで、その30名が代表の後に続き、弥勒菩薩のマントラを一斉に唱和する。
「オン、マイタァレィヤァ、ソワカァ」
代表が発する弥勒菩薩のマントラは低く重くうねり、かつ金属を打つ時に鳴る、キィンッと突き抜けるような響きもあった。
オン、マイタァレィヤァ、ソワカァ。
代表を真似てマントラを唱えていると、すぐに心地良いリラックスした意識の変容が美沙に訪れ、見たこともない天界のイメージが不思議と湧いて来た。
想起したイメージには春の日差しのような温かい感覚があり、美沙は極彩色の花畑と池がある壮麗な白い宮殿の中に佇んでいた。宮殿の奥には雲に浮かんだ小さな楼閣が見え、澄み切った頭上の空には楽器を持った美しい天女たちが踊るように舞っていた。
その天女たちが道案内をするように美沙を宮殿の中央に誘う。誘われた宮殿の中央には巨大な台座があり、そこに以前ビデオで見た教祖が巨大な姿で鎮座していた。
教祖は印を組んだ右手を頬に添えて、左手には両端が三角形で中央に穴が空いている変わった形のヴァジュラを握っていた。
オン、マイタァレィヤァ、ソワカァ。
何かを思案するように微かに笑みを浮かべながら目を閉じ、マントラを唱えている。左手に握ったヴァジュラは空洞になっているのか、教祖が中央の穴にマントラを吹き入れると、マントラはヴァジュラの中で反響して増幅し、天界に広く響き渡った。
美沙がそのマントラを聞きながら、教祖の慈悲深い巨大な顔をうっとりとした気分で眺めていると、突然教祖が目を開けた。
微かな笑みが無表情に変わり、開いた目がくるり、と反転して白目を剥いた。そして左手に持ったヴァジュラをブンブンと振り回し、マントラの響きに不穏な乱れを生じさせた。
「ここはお前のような者が来るところではないっ」
大風のような衝撃と共に、無表情の巨大な教祖が美沙にそんな怒号を発した。その瞬間、プツッと電源が切れるように美沙の意識が突然飛んだ。
人類滅亡まで、あと四十九日。
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