第一章 真夏の異変 その1 日雇い労働者の昼下がり
白いタンクトップとステテコ姿で、
二十年以上使っている扇風機は茹だるような熱をかき混ぜるだけでちっとも涼しくならず、酒臭い汗がひたすら身体中から畳に滴り落ちていた。
今日で三日連続、日雇いの仕事にありついていない。
古い文化住宅の家賃も払えず、もう二ヶ月も滞納している。今日も朝早くから大家が催促に来た。
「食うもんにも困ってるとかゆうて、昼間から酒を飲む金はあるんやな。はよう家賃払ってぇや。仕事は探せばナンボでもあんねんで」
酒瓶がそこら中に転がる部屋を睨みながらそんな嫌味を言った大家の顔が貞雄の脳裏に焼きついている。
――アホか、ナンボも無いわ、不労所得がある人間は世間ちゅうもんを知らんのか、暢気でええなぁ。
貞雄は半分空いたワンカップの日本酒を一気に飲み干し、すぐにもう一本のフタを開けた。
好きで飲みたいわけではない。飲む度に背中と腰の痛みが悪化して、体がもう限界を迎えているのもわかっている。
それでも頭の中で絶えず繰り返される自己否定と暗澹とした先行きの不安を押さえつけるには、酒を飲んで酩酊するという手段が一番手っ取り早い。気持ち良く酩酊してる間にコロンとあの世に逝けないものかと、貞雄は半ば本気で思っていた。
西成のあいりん労働センターが老朽化を理由に2019年に閉鎖した事に加え、その後突然訪れた新型コロナによる世界的パンデミックの影響で、日雇い労働の求人は激減した。
コロナ禍でもまだ需要がある清掃の仕事に週一回か二回、ありつけるかどうか? 生活保護を受けながらそんな状況をなんとか凌ぎ、ようやくコロナが終息し始めた2023年の春くらいから万博に向けた建設作業の仕事が増え始め、貞雄もようやく安定した仕事にありつくことができた。
貞雄が関わったのは海に浮かんだ人工島の軟弱な地盤の改良と整地作業で、電気も水道もまだ通ってない更地同然の不便な環境の中、連日時間外労働を強いられ、泥と汗にまみれて働いた。
だが当初正社員登用も視野に入れた雇用契約だったにも関わらず、工事期間が終わると、何かにつけて不平不満を漏らす勤務態度に問題があるという理由であっさりと雇用を打ち切られ、貞雄は再び仕事にあぶれて生活保護を申請する羽目になった。
貞雄は繰り返し頭をよぎるそんな苦渋を思い出しながらテレビのリモコンを乱暴に引っ掴むと、それまで観ていた退屈なドラマに飽き、ガチャガチャとチャンネルを変えた。
適当にザッピングしていると、お昼のバラエティ番組が夏休みの人手で賑わう大阪万博の会場を放送しているチャンネルがあったので、思わず手を止めた。
関西の大御所芸人と人気の若手芸人が二組でロケをしているその番組は、現在の万博と過去の万博のパビリオンをそれぞれ比較して、スタジオにいる出演者たちが独断と偏見で勝ち負けを決める構成になっていた。
いのち輝く未来社会。
そんなテーマを掲げた大阪万博のために自分たちは使い捨ての人材になり、今日明日をどう生きていいのかわからない暮らしを余儀なくされている。
――ワシらの苦労も知らずに楽しみ腐りやがって、世間のボケがぁ。
テレビ画面を睨みながら貞雄はまた酒をぐびりと煽った。
「師匠、あれ見てくださいっ“空飛ぶ車”ですわっ。うぉっカッコええなぁ。何がすごいって、あれの動力知ってますか? 水素ですよ、水素っ。軽自動車が水で空を飛んでるんですよっ」
「なにがや? “空飛ぶ車”言うたかて、見た目はヘリと一緒やないかっ、もっと奇抜でビックリするようなもんを見せるんが大阪万博の醍醐味やないんか。奇抜言うたらワシはやっぱりあれやな“太陽の塔”や、あれを初めて見た時は度肝抜かれたでホンマ。岡本太郎はんは一体何を考えてはんねやろ?って、天才と馬鹿は紙一重言うけど、ほんまもんのアホや思うたな」
大御所芸人がそう言うと、過去のVTRが流れて、若き日の岡本太郎が万博と太陽の塔のテーマについて熱く語り出した。
「「人類の進歩と調和」そんなものはくだらないね。僕はね、それとは正反対のものを万博にバーンとぶつけてやろうと思ってたんだ。それが「太陽の塔」だよ」
下から見上げるように撮影された太陽の塔がアップでテレビ画面に映る。
巨大な怪獣、あるいは宇宙人。そんな物を連想させるインパクトのあるアートが過去の万博を盛り上げていた。
貞雄はその当時小学二年生で、夏休みに家族みんなで長蛇の列に並び、万博を見に行った。
高度経済成長期の活気ある日本。各企業が競うように最先端の技術を披露している会場内は大勢の人で溢れ返り、どのパビリオンも熱気と興奮に包まれていた。
子供だった貞雄は「動く歩道」や「電気自動車」で会場内を移動しながら、1970年の大阪万博が描いた輝かしい未来にワクワクし、大人になった自分の将来にも期待していた。
「ほらあれ、貞雄見てみい“人間洗濯機”やて、あれが家にあったら風呂嫌いのアンタも毎日入るようになるんちゃうか?」
水槽のような流線形のカプセルの中にコンパニオンの綺麗な女性が水着姿で入っている。その女性がカプセル内のイスに座ると、自動的に泡が噴射され、その泡が女性の体を洗う。とにかく風呂で体を洗うのが邪魔臭かった貞雄にとって、タオルも石鹸もいらないその人間洗濯機は夢のような代物で、これが家にあったら毎日お風呂に入ってもいいと、母親と笑いながら飽きずにそのデモンストレーションを眺めていた。
また最も人気を博したアメリカ館の“月の石”を見ようとした時、貞雄はそこに集中した来場者に揉まれて家族とはぐれてしまったことがあった。
その時、迷子の案内で使用された「テレビ電話」がすぐに貞雄と家族を繋いでくれ、貞雄はその便利さと活躍ぶりに感動して、この先何があってもこの「テレビ電話」が自分たち家族を必ず見つけてくれると信じていた。
しかしいざ大人になってみると貞雄の期待はあっさりと裏切られ、万博が描いた輝かしい未来は単なる見世物小屋の嘘に終わった。
板金加工の小さな会社を経営していた貞雄の一家は、貞雄が後を継ぐタイミングで訪れたバブル景気の終焉と共に弾けて離散し、万博で見たワイヤレスの電話が普及しても元には戻らなかった。そして実家のあった東大阪から西成に移り住んでもう二十年以上の歳月が立つ。
番組のロケは続き、カメラが地元の「大阪パビリオン」に入っていった。
カメラが若手芸人の指差す方向に進み、四角い金属の中に収まった綺麗な心臓の映像を捉える。
心臓の形をした模型に透明なシートを貼り付けたその心臓は力強く脈打ち、臓器ではない別個の生き物として、その存在感を展示会場の中に放っていた。
「どうですか、師匠っ、これがIPS細胞で作った“心筋シート”みたいですよ。師匠の心臓もう古過ぎてヤバいでしょ? 良かったですね、このシートを貼り付けるだけでいつでもメンテナンスが可能でございます」
「やかましいわっ、ボケっ」
大御所芸人が若手芸人にツッコむよりも先に、貞雄は過去の万博と現在の万博が描く嘘だらけの未来ビジョンに向かってそう吐き捨てるように呟いた。
おぉぉぉぉぉん、まぁぁぁぁい、
貞雄がテレビに向かって愚痴を呟いた瞬間、突如どこからともなく大きな音がした。
――ん? なんや?
たぁぁぁぁぁぁ、れぇぇぇぇい、
貞雄は初め、それがテレビから洩れてきた音だと思った。頭の中が振動するようなずっしりとした重低音が響く。
やぁぁぁぁぁぁ、
しかし、どうもそれはテレビではなく、部屋の中、いや、外から響き渡っているような気もした。
「誰やねんっ、うっさいのぅ。こんな昼間から近所迷惑やろっ」
貞雄が音源を探して部屋の中を見回し、ふと開け放した窓の外を眺めると、そこから見える通天閣の真上に浮かぶ入道雲がスゥッと掻き消え、通天閣が一瞬グニャリと傾いた。
――なんや? 今の?
目の前に広がる奇怪な光景。不思議な音はずっと鳴り続けている。いくら深酒してもこんなことは初めてだった。
——幻聴や幻覚が見えるほど本格的なアル中になってしもうたんやろか?
そぉぉぉぉぉぉ、わぁぁぁぁぁ、
鉄骨の通天閣が半透明に膨らんでいく。
かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、
一際大きな音が響き、通天閣の展望台に何かの顔が浮かんだ時、貞雄の意識が突如飛んだ。
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