【六】そして、世界は再構築される(1)

 がたんごとん、がたんごとん。


 純白の列車が鉄路を行く音が眠気を誘う。リオは客席に座って微睡んでいる。天井から吊されたカーテンが揺れている。隣には金髪の少女(エクレール)が座っている。彼女は完全に眠っていて、リオの肩を枕代わりにしている。二人の手はきゅっと握られていた。


 窓の外に目をやると、鏡の様な海面が続いていた。「手記」に寄れば魔法の海と言うらしい。海面には波が全く見えない。綺麗に水平な海面が、空の青さを写して正に水平線まで続いている。


 車内は静謐に満ちている。始発駅では十人いた乗客——探索隊のメンバーも、今はリオとエクレールの二人だけだ。随分多くの人間が死んで、そして殺してもきた。その罪はいつか裁かれるだろう。ただ今だけは、この静謐な微睡みを貪っていたい。リオはそう思い、そっと目を閉じた。


 汽笛が短く三回鳴る。もうじき停車駅——終着駅を知らせる合図だ。次にリオが目を覚ます時には、きっと純白の列車は終着駅に到着しているだろう。


 終着駅。


 一つだけ願いを叶えるという世界樹がそこにはあり——そして誰も、終着駅から戻ってきた者はいなかった。





 —— ※ —— ※ ——





 リオは夢を見た。


「……幸せってなんだろうな?」


 昔の夢だった。まだリオが幼く、貧村で畑仕事をしていた頃。久しぶりに帰ってきたカーシアスがリオに少なくとも腹が膨れるぐらいのご馳走をしてくれた時のことだ。ぽつりとカーシアスはそう呟いた。


「腹一杯食べること」


 リオは即答した。幼い彼にとって、空腹は何にも耐えがたい。だからリオは今幸せだった。心底嬉しかった。自分には兄さん、カーシアスがいる。こうやって食べさせてくれる。それだけで大満足だった。


「ははは、そうだね。世界中のみんなが腹一杯になったら、争いなんて起きないのかもね」


 カーシアスは目を細めて、リオの頭をがしがしと撫でた。リオにはカーシアスの言っていることは難しくてよく分からなかったが、カーシアスが喜んでいるのは分かった。だからリオも口を大きく開けて笑った。


「ボクがもっと大きくなったら、もっと働ける様になる。そしたら今度は兄さんを腹一杯にするよ」


 そうすれば兄さんも幸せになる。リオはそう信じて疑わない。カーシアスはちょっと困った顔をしてから、頭を撫でていた手で頬を摘まんだ。むにっと、ここの部分は少し柔らかい。


「ありがとう、リオ。それじゃ私は、リオを幸せにするよ。兄弟だからな、約束だ」


 リオは少し首を傾げた。もうボクは幸せなのに、なんで幸せにするなんて言うんだろう。結局その意味は、幼いリオには分からなかった。





 一回目の旅で、リオは終着駅まで辿り着いた。エクレールを殺し、そして世界樹で「カーシアスの願い」を叶えた。世界樹は願いを叶える為に、願いを焼べた者の命を消費する。だからそこでリオは死んでいるはずだった。


 カーシアスの願いは、リオが幸せになることだった。そんな曖昧な願いを世界樹は叶える。リオの命を消費しつつ、リオが幸せに到達する為に世界法則を捻曲げる。リオが幸せになるまで、彼はループし続ける。


 そしてリオの旅は始まった。二回目は途中で病死した。五回目はアルマーに一刀で斬り伏せられ、楽園の村で一生を過ごしたのは二十回目だった。魔法都市でマセイオと争ったのは百三回。そうやってリオは繰り返される旅を続けた。




 ——ああ、そうか。そういうことなのか。




 微睡みから目覚めたリオは察した。ゆっくりと純白の列車が、終着駅のホームへと滑り込む。この期に及んで、リオが幾ら車窓を見つめても世界樹は見えない。その理由がようやく分かった。世界樹は、願いを叶えた者には見えないのだ。


 もう何回目なのだろうか。この旅でリオの願いは、ようやく叶ったのだ。





 —— ※ —— ※ ——





 そこは白い世界だった。



 終着駅というから、エクレールはもっと大きな駅かと思っていた。始発駅や魔法都市の駅ですらあの大きさだったのだ。もうホームが百以上の並んでいる様を想像していた。しかし実際の終着駅は線路が二本、ホームが一つ、駅舎も屋根も何も無いこぢんまりとした駅だった。


 純白の機関車が客車から切り離され、ゆっくりと前進していく。終着駅の先には機関車の方向を変える円形の転車台がある。機関車が低い唸り音を上げながらゆっくりと旋回していく。その光景をエクレールはぼんやりと見つめている。その視界の片隅には巨大な木の根が見える。ここでは何をしなくても、どこにいてもそれは見える。




 ——世界樹だ。




 終着駅から白い大理石の道が伸びていく。先は小高い丘になっている。見たことの無い花が咲き乱れ、膝下ぐらいまでの草原が綺麗に続いている。周囲に張り巡らされた木の根が丘の上で纏まり、巨大な幹となって天高く伸びていく。その先端は青い空に飲み込まれて見えない。


「どうする、何か願いを叶えるか?」


 横から声がかかる。リオだ。彼はゆっくりと客車から降りてきて、エクレールの横に佇む。心なしか距離が近い。少し身体を動かせば触れ合いそうな合間。うん、いいね。悪くない。エクレールはにへらと笑った。


「冗談でしょ? まだ死にたくないわ。それに叶えたい願いも無いし」


 そう思ったエクレールの脳裏に、ふと自分の犯した罪の影がよぎる。世界樹ならカーシアスを生き返らせることも可能かもしれない。だとすれば……。


 ぽん。とエクレールの頭の上にリオの手が乗った。エクレールよりも大きく、少し硬い手。それがぐしゃぐちゃと金色の髪を掻き乱す。ふわりと黒い気持ちが掻き消えていく。


「なにするのよー!」

「ははははっ」


 何が可笑しいのか、リオは笑っていた。がしがしがしとかき混ぜる手を止めない。むしろ両手でがっしゃがしゃにしてくる。耐えかねてエクレールは肘鉄をリオの腹に食らわせてやった。おふうと腹を押さえて屈み込むリオ。エクレールは乱れた髪を手ぐしで直す。


「一体何がしたいんだか……」

「折角だし、世界樹の根本まで行って見るか?」


 腹を擦りながら立ち上がったリオがそう提案する。ふむ、と一旦考えてからエクレールは了承した。近づく程度なら問題は無いだろうし、こう落ち着いてくると久しぶり学者としての好奇心が頭をもたげてくる。


 二人は並んで大理石の道を歩き始めた。その手は自然と握られる。丘の傾斜に合わせて緩い階段状になっていく。蝶の群れが横切っていく。遠くで汽笛が鳴るのが聞こえる。それ以外の音は何もしない、とても静かな空間だった。




 ——ああ、いいな。




 エクレールはどこか心の底で、こんな時間がいつまでも続けばいいなと思った。時間さえもゆっくりと流れるこの空間に、エクレールとリオの二人だけ。それ以外は何も無い。自分を許してくれた相手がただそばに居る。それだけで、エクレールの心は久しぶりに落ち着いていた。


 まあもっとも、こんなトコロじゃ食べる物も無さそうだからすぐ餓死しそうだけど、という学者心は乙女心が押し退ける。


 どのぐらいの時間が経ったのだろうか。ついに二人は世界樹の根本に到達した。口を半開きにしてエクレールは世界樹を見上げる。見える。周囲を青い蛍の様な光が舞っているのが見える。濃密な魔力の証左でもある。


 エクレールは思わず手を離し、世界樹に駆け寄った。世界樹の表面にはびっしりと見細かい紋様が刻まれているのが見えた。術式はさっぱり分からない。たぶん植物でもあり、同時に人工的な魔法具でもある。先史魔法文明が建造した世界最大の魔法具。それが世界樹なのだ。


「……すごいわ、「写し絵」の魔法具持ってくれば良かった」


 振り返るとリオはぼんやりと周囲を見回していた。少し様子がおかしい。きょろきょろしては何か溜息の様なものをついている。エクレールは小走りでリオの元に戻る。


「どうしたの?」

「いや、その」


 リオの視線がエクレールから外れる。ムッとしてその視線を追い掛けて目の前に立つ。リオは諦めた様に大きく溜息をついた。


「何よ溜息ばっかり。幸せが逃げちゃうわよ」

「エクレール、聞いてほしいことがある」


 少し茶化したエクレールだったが、リオの表情は固く真剣だった。何かを察してエクレールは目を細める。リオは続ける。


「ボクには、世界樹が見えないんだ」

「見えないって、どういうこと?」

「そのまんまの意味さ、物理的に見えない——世界樹で願いを叶えると、見えなくなるらしい」

「え?」


 その瞬間、血が舞った。痛みは後からやってくる。血はエクレール自身の血だった。背中が燃える様に熱い。状況を理解出来ないまま、エクレールは地に伏した。倒れる直前、リオの表情が憤怒に燃えるのを見た。

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